第2話

 高橋の足音が離れていく。

 シン、となった狭い部屋で、私はゆっくり椅子に腰を下ろした。

 コーヒーをすすり、あらためて、机の上の脚本を見る。

 ところどころに薄茶色い汚れがついていた。手垢だろうか。汚れすぎている気もする。


「リライトか……」


 なんとなく気乗りがしないまま、ページをめくる。

 キャストの書かれたページに「緑川玲子役 西島法子」とあった。


 ――法子。裏表紙に書かれた名前。


「……女優さんの?」

 

 役順からすると、主役とみていいだろう。

 主役の台本が、こうして手元にあるということは…。

 この作品がお蔵入りになった理由と関係がありそうだ。


「しかも、ホラーかぁ」


 高橋の様子を思い返すと、たぶん何かあったのだろう。映像がない、というのも正確には「見せられない」ということなのかもしれない。

 公になることはほとんどないが、ホラーの撮影現場ではいろいろなことが起こる。人がいなくなる、失踪する。それくらいなら生ぬるいほうだ。気が狂う、人格が破綻する、という話も聞いた。ときには自殺や殺人といったことも、ない話ではないらしい。相手が人ならば説明できるが、超常現象としか考えられないことも、日常茶飯事。不思議な声が収録されていたり、妙な影が映像に映っていることもよくある。私もいくつかは実際に見た。あと、脚本を書いているとき、誰かに見られているような気配がすることも、一度や二度ではない。


 気のせいか、部屋が暗くなった。


 机の端に置いた作業ランプを点ける。

 LEDの煌々とした白い明りが、空気を切り裂くように周辺を照らした。

 明るい中であらためて見ると、薄茶色に思えた汚れは、少し赤みを帯びていた。

 まさか、血じゃないだろうな。

 思った瞬間に、その考えを否定する。

 オカルトやホラーの類は嫌いではないが、誰かの血だとしたらさすがに気持ち悪すぎる。

 私は深く息をついて気持ちを落ち着かせると、本文のページを開いた。

 パラパラとめくっていく。特段、変わったところのない内容だった。

 法子という女優は几帳面な性格だったようで、自分のセリフに寸分たがわずまっすぐに黄色い蛍光マーカーを引いていた。文字をすべて包み込むような、綺麗な直線だった。

 その直線が、50ページあたりで、突然途切れていた。

 それは、こんなセリフだった。


――――――――

法子 「そんなわけないわ。だって、彼は私の目の前にいたもの」

――――――――


 黄色いマーカーは「そんなわけないわ。だって」のところで途切れている。

 なんとなく、途切れたあたりを指でなぞってみる。

 法子は、なぜここで線を引くのをやめたのだろう。

 先のページを読み進めていく。

 すると不意に、一枚の写真がこぼれた。

 スタッフ、キャストとおぼしきカラーの集合写真だった。

 気味悪く変色している。


「……」


 経年劣化にしては、変色しすぎのような気がした。

 そのとき突然、机の上のカレンダーが外れて落ちた。

 私は身動きが取れなかった。

 外れるような掛け方はしていなかったからだ。


 ――高橋さんが?


 可能性があるとしたらそれしかない。

 彼がカレンダーに触れていたのは確かに見た。あのときに、細工したのかもしれない。

 だが、なんのために?

 私を驚かすためだとしても、タイミングが良すぎる。


 いや。考えても仕方がない。

 偶然だと納得する以外に、私にできることはないのだから。

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