第6話 お風呂
「‥‥‥くぁぁ。きっもちいいわぁ‥‥‥」
体を洗い終え、湯船につかり一声。
風呂場自体は元居た世界とほぼ変わらない、思ったよりも現代的なものであった。ガスで温めている訳でもなく、薪を使用している形跡もない。レンガで組み上げられた浴槽自体がやけどしない程度に加熱されているようにも思える、もといた世界では説明が難しい不思議な設計だった。
「まぁ気にするのも野暮か」
ひとまずはこのぬくもりに体を預ける事にする。適温の湯が体を包み、疲れを少しずつ緩和している。最高のひと時だ。
(思えば誰かに親切にされたのって久々だな‥‥‥)
ふと、そんな事を考えた。マイに轢き殺される前の生活は、人の優しさが介入する要素など無い氷の世界。もちろん人にもよるだろうが、俺の周りに温もりなぞは皆無であった。
今はまだ分からないが、人の優しさが心に染みる。
「‥‥‥何か眠くなってきたな」
うつらうつら。疲れがたまっていたのか分からないが、心地よい眠気が襲ってきた。
(このまま寝ても気持ちいいかもな‥‥‥)
そんな事を思っていたら、脱衣所と廊下を仕切る戸が開く音がした。
浴室までもう一つ戸があるので、即ち脱衣所に誰かが入ってきたという事だ。
「‥‥‥ん?」
薄ぼけた思考に入り込む誰かの存在。戸の向こうに誰かがいる‥‥‥?
「あ、この服は神楽さんの服だ。‥‥‥って事は、今は神楽さんが入っているのか」
ぽそぽそと聞こえる独り言。女性の声のように思えるが。
「‥‥‥って事は‥‥‥だね。‥‥‥力‥‥‥ってと‥‥‥。感情抑制‥‥‥」
ずいぶんと長い独り言のようだ。ユウキさんか?
そうだよ俺が入っているんだ。眠くてどうしようもないが、戸の向こうにいる誰かに返事をしてやりたい。気持ちいいですよー。最高の湯加減ですよー。
「‥‥‥まあいいや、私も入ろ」
「‥‥‥⁉」
唐突に始まる布の擦れる音。するすると音を奏で、察する。戸の奥にいる誰かが全裸になって浴室に入り込もうとしているのだ。
覚醒。さすがに意識が目覚めた。ユウキさんは俺の事を貴方と呼んでいた。即ちこの世界で俺の事を「神楽さん」と呼ぶ存在はただ一人しかいない。そいつは戸をからりと開けて浴室へ入り込んできた。
「神楽さん、マイがお背中を流しにきました!」
一糸まとわぬ堂々たる振る舞いのマイが、腰に手を当て俺を見下ろした。満面の笑みを浮かべ、開いた同行が若干の狂気すらを感じさせる。
湯気がご都合よく秘部を隠してくれる‥‥‥なんて事もない。産まれたままの姿のマイが、何故か一切の恥じらいを見せる事無く入浴を求めてきた。
「ちょっ‥‥‥ええ?‥‥‥ええ?」
思考が混乱した俺はひとまず思考をまとめて思考が混乱している。戸惑いの反響。思考が乱れる。
とりあえず俺は一言だけ言いたい。色々見えているからとりあえず恥じらってくれ。
これが異国、いや異世界の文化なのか?俺が元にいた世界も大概クソだったが、こちらの世界はまた別のベクトルでぶっ飛んでいるのかもしれない。
「マイ、お前本当に大丈夫なのか」
「ええ、私は大丈夫ですとも。神楽さんと一緒に風呂に入るだけの事なんですから」
(‥‥‥大丈夫じゃねえだろ……)
湯船より伝わる適度な温度感は俺を落ち着かせる事は無い。
本能が故か、どうしても視線がマイの方へ向かってしまう。
最上級の絹を思わせる眩いばかりの銀髪が腰まで降り、毛先が示すは瑞々しく育まれた女体。過酷な修練により引き締まった腹部と対比するように、己が性を主張する胸部。浴室の水蒸気に充てられた臀部は艶めかしい雰囲気を放ち、女性特有の香りすら感じられた。
「くっそ‥‥‥なんか負けた気がするわ。マイが女に見える」
「‥‥‥どういう意味ですか神楽さん、私は一応女の子ですよ」
「一応自覚はしてたのか」
「むっ。ちょっと神楽さんには私からの教育が必要みたいです」
「教育ってなんだ教育って」
全裸がずんずんと近づいてきた。俺も警戒して浴槽より立ち上がる。ざぱぁと水温が鳴ると同時にエチケットとして手のひらで股間を隠した。いくら何でも羞恥を感じる。狭い浴室で向かい合う一対の男女。
「‥‥‥えへえ。神楽さんはやっぱり男性なんですね」
明らかにこちらが戸惑う事を見越したマイの態度。
イラッ。
挑発‥‥‥と俺は受け取る。
「お前みたいなやつに興奮する訳ないだろ」
「いいえ、しますよ。既に仕掛けてある私の罠によって神楽さんはたちまち私に発情をします。まあまずはお背中流しますから上がってきて下さい」
「‥‥‥良く分からんがお願いするか」
俺は浴槽から出て、マイに背中を見せるように仁王立ちになる。特段鍛えている訳ではないが、外回りの仕事をしてきた分、人よりはいい体躯を持っていると自負している。
マイは木綿の布に石鹸のようなものを包み、何回か揉むように動かし、もわもわと泡を立てた。柑橘のようないい香りが浴室に満ちる。
「では、僭越ながら」
俺の背中に優しくなでるように布があてられる。思っていたより優しい動きで、一人では洗いづらい箇所も手慣れた手付きで清潔になる。
「‥‥‥結構気持ちいいな」
誰かに洗ってもらった覚えがない分、人肌を感じるだけで新鮮な気分だ。
「気持ちいいと感じた時点で神楽さんは私に篭絡されているのです」
「前言撤回、もっと良く洗え」
「‥‥‥ふふ、参りましたね」
背後から嬉しそうに呆れた素振りを見せるマイ。同機は分からないが、とりあえず気持ちいので堪能をしておく。
上半身から下半身まで、背後より丁寧に体躯を優しく洗ってもらった。本能的な興奮を隠しきれない落ち度はあるが、彼女の前ではそれを見せないように立ち振る舞う事にする。
時間にして10分といった所だろうか。なかなか至福の時間だ。
「‥‥‥っ、はぁっ‥‥‥。だめだ、もう疲れた。......やっぱ、恥ずかしい‥‥‥」
唐突に、背後のマイの呼吸が荒くなったように感じる。運動によるものというよりは動悸に近い、枯れた口笛のような呼吸。
「マイ?」
「うぁっ‥‥‥ふっ‥‥‥神楽さんっ‥‥‥」
後は全身を包む泡を手桶の湯で流すのみ、という所で。俺はマイが気になり、上半身をひねり、振り向こうとした。
「‥‥‥神楽さんっ」
唐突に耳元で囁かれたマイの小声。彼女の儚げな吐息が鼓膜を刺激した。両者を隔てる石鹸の泡を除き、俺の背中に彼女が密着するように抱き着いてきた。
「‥‥‥っ」
背中を通じ、マイの柔らかい双丘が触れる感触を覚えた。
「お、おい。‥‥‥マイ?」
「後ろを、振り返らないで下さい」
振り向いた瞬間、今まで断片的に見えた彼女の姿がより鮮明になるだろう。だが、彼女の必死な弱音に従う事にする。
「‥‥‥ああ」
「今まで、私の感情を魔力で仮止めして、羞恥を極限まで殺していたんです。神楽さんと話がしたくて」
「‥‥‥」
「でも、‥‥‥神楽さんの裸を見て、途端に恥ずかしくなって。感情を抑えようと頑張りましたが、なぜか膨大な魔力を消耗してしまって、とうとう限界をむかえちゃいました‥‥‥っ」
おそらく俺の背中で羞恥に悶え、マイの顔が真っ赤になっている事が想像できる。こんな不器用な事をしなくても、声をかけてくれればいつでも時間を作ったのだが。
「結果はどうあれ、神楽さんがこの世界に来たきっかけを作ったのは私です。来てほしかったのも私です。ですが......神楽さん。あなたは、後悔を覚えたでしょうか?」
消え入りそうな声で質問をするマイ。自信が一人の人生を変貌させた、その行為に対する懺悔だろうか。
一対の男女が裸体で触れあっている現状、邪な感情が湧いてもおかしくないが、今の俺はマイの真摯な態度に胸打たれたからか、色気にかき乱されず会話ができそうだ。
ふっと、笑いの吐息が漏れた。
「ばかだな、マイは」
「…‥‥ばかではないです。この世界が誇る最強の騎士の一人です」
背後から俺を抱く腕にぎゅうと力が入る。マイを振り替えることはできないが、額を俺の背に押し付けているようだ。羞恥を隠すためか、それとも別の理由でもあるだろうか。
「この世界のことはよく知らんが、魔力だっけ?最強の騎士が魔力切れを起こすのか」
「‥‥‥私を辱しめるからです。よくわからないですが私の魔力を急激に消耗させた神楽さんが全部悪いです」
きっと今、ほおを膨らませてふてくされているのだろうか。そんな想像をしてしまう。これ以上続けるのもかわいそうなので、正直に思っていることをありのままに伝えよう。
「正直俺はマイの事をまだよく知らないし、この世界の事もしらん。何でそこまでして俺に構うのかも分からない、だから後悔もなにも謎が多くて判断できん」
「‥‥‥はい」
「自分がどう生きていけるかも全く分からなし、食い扶持もない。でも、なぜか今を生きている強く感じている」
これは本音だ。盗賊に襲われ、気づいたら気絶していて、あったこともない人間の風呂につかり、騎士を名乗る女の子に体を洗ってもらう。
こんな事、今までの世界で体験した事が無い。体験する機会すらない。
滅私と退屈を何千何万繰り返すだけの人生よりも輝いて見える。それは錯覚かもしれないとしても、届かぬ救済に手を伸ばして永遠の他責を願う時間よりも遥かに良いだろう。
「マイ、お前が何で俺を連れてこようとしたか俺は知らない。俺がこの世界で何ができるかも分からない。でも、マイが作ってくれたきっかけは絶対無駄にしないし、利用してやる。今まで出来なかった分、この世界を謳歌して見せる」
「神楽さん‥‥‥」
「だから、色々教えてくれ。この世界の事を。この世の理を」
背後の少女を、信頼してみようと思えた最初の瞬間。
「‥‥‥はい!神楽さん、神楽さんに教えますよ!この世界の事を。何度でも、何度でも‥‥‥っ!」
ちらっと背後を見ると、押し付けすぎたか額を真っ赤にしたマイが、それは満面の笑みを浮かべていた。
眼には歓喜の一滴を浮かべて、本当にうれしそうな表情だったんだ。
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