あなたのたかぶる波はここでとどまれ
似而非
序
誰がなんのためにはじめるのか、ぼくにはよくわからないうちに、あの戦争がはじまった。それだから当然、ぼくにはよくわからないうちに、あのひどい戦争はすべて終っていたのだ。
焼け残った街並は冬色の荒廃に落ち窪んでいたが、アオモジが芽吹くように、ぽつりぽつりとした灯りが遅々として頼りなくよみがえりはじめることを人々は息を潜めて待っている筈だった。
そんなおりに、もはやだれも知る由もないだろうが、焼跡と復興の間隙に忘却され、昼なお暗い山間にちらばった数多くの廃シェルターのうち、実験者すら放棄した実験体のぼくは、窓外を一過する雨風を眺めつつ、ぼうっとやり過ごすみたいに、この場所で密かに息づいていたのだった。
内部の壁面という壁面は、電子器械と無闇にうねりくるうコードが腸管のように絶え間なく錯綜し、一箇の巨大な水槽に集約されたそれらは、一昼夜の間も絶えることなく溶液を供給していた。水槽にみちみちた溶液のなかで、ぼくはだだ、十月十日と云わずに涵されて、たゆたっていればよかったのだ。なんとなくいつまでも。心安らかに浮遊するリズムと、曖昧でアモルフな愛を喰らって。
どこか、宇宙的な無限を思わせる時間のさなか、突然、個としての剥落が訪れた。ガラス製の円みを帯びた水槽の脆性は、その応力の限界に達してしまい、数条の亀裂を走らせたのち、あっけなく砕けちって、ぼくは固く冷たく、無機的な床面になげだされた。
どうやら、ぼくは「うまれた」らしい。ぼくは内心びっくりして、目をまわし、のたうち、えづきながら、内腑を充たしていた溶液を酔っ払いがそうするように絞りだした。ぼくの口腔から、あるいは壊れた水槽から、それに脱落したコードから、溶液はしとどに流出して、とにかく、あたりはひどい洪水に襲われた。器械類はじきに全部だめになってしまうだろう。ついで、溶液はすぐにその温もりを喪って、ただの冷たい液体になった。
そして、耐えがたい寒気と、一切の生気を放擲した、ほの暗い静寂がぼくの周囲に浸透する。ぼくは泣かなかった。
それどころか、じしんの手のひらをじっと見つめて、それを握ったり開いたりしてみながら、数秒、じしんの存在することの疑義と不快をきどってみたが、全然、らちが明かないのだった。
文字どおり、這々の体になったぼくは、溶液の海をバシャバシャと、肉体的には、おそらく十歳程度の発育に相当するであろう四肢をややもて余し気味にして、まるで浜辺に上陸しつつあるウミガメのようにぎこちなく匍匐した。
ひょっとして、ある特定の生き物のように、ぼくは直立して歩けたりするのだろうか。不安と期待にひき裂かれながら、ぼくは下肢に力を込めつつ、自己懐疑的な足さばきで立ちあがってみせた。立てた。のみならず、歩けた。比較的、早熟と言ってよい気がする。
ぼくの本意ではないとはいえ、うまれたからには生きていかなくてはいけない。生きていくからには腹もへる。そう、腹がへるのだった。
ぼくの自我のはじまり。ひとつめは、飢えと寒さ。つぎに、それをしのぐ必要性の認識。そこから導かれた、ある行動の帰結。
外へ、出てみようかな……
ぼくの意思をすかさず伝導して、シェルターの重苦しい扉はゆっくり鈍い呻きをたててひらいた。ここにいる限り、そういうふうになっているのだった。内部に薄明が射し込んで、シェルターの全容をにわかに照らしたが、それはやはり、殺風景で寒々しく無機質の影絵そのものだった。どうやら、外の世界のほうがよほどあたたかな色彩と生命の芳しさにみちているのではないかと、ぼくには思われた。
いま、ぼくはしっかと、ちいさな、しかし大きな一歩をふみだすのだ。と、未知をもとめて已まない英雄的な気分で、じしんを鼓舞し、肩をいからせ、扉にちかづく。
途端に、後ろ髪から背すじにかけて、強烈な、なんだか甘く優しく愁いをひめたものが鋭くまとわりつき、こんなものは知らないと、ひどく驚いたぼくは、たまらなくなって立ちどまり、だしぬけに後ろを振り向いた。
しかし、シェルターの内部は先刻とおなじく、もの云わない冬色の、やはり沈痛な死相をおびた廃墟でしかなかった。そして、それがいまのぼくの世界のすべてだった。同時に、もう二度とここには還って来れないのだ、という疑いようのない確信がぼくのなかにうまれた。あるいは、うまれる、とは本来そういうことかも知れないのだった。
自然と、ぼくの唇はサヨナラ、のかたちをつくって、声帯はそれに親和し、弱々しく震え、さらにおなじことばを声帯は、何回も何回も、勝手にくり返したのだった。――サヨナラ、親しいもの、すべて。ぼくは、外へ、出るんだ。
ふたたび、ぼくは前を見やり、顔をあげ、何かに衝きあげられるように歩いた。冬の圧力に真っ向から逆らう、ひとつの存在の、ひとつの抵抗として、ぼくはひとり、歩きはじめた。ぼくは、泣かなかった。
あなたのたかぶる波はここでとどまれ 似而非 @esse
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます