【第3章】 雪中キャンプ編 木下芽衣子 


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 木下芽衣子が、「自分は母に捨てられた」ということを明確に理解したのがいつかはわからない。些細なことの積み重ねで、ああ、母は私がいらなくなったんだろうな、とそう感じた。


 例えば、定期検診の帰り道の母の顔。芽衣子は乳製品全般にアレルギーがあり、何度も病院に通っていたが、母は何度も医師に確認していた。「いつ治りますか」と。


 そういうものではないと医師は言うのだが、母はいつも言った。「この子の誕生日に、この子の友達をたくさん呼んで、大きなケーキでお祝いするのが夢なんです」と。


 それは、母の夢であって、私の夢ではなかった。


 例えば、事故で突然に死んだ父の四十九日が終わった時。母は私に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。「こんなはずじゃない。こんなはずじゃなかったのに。なんで私が」


 例えば、8歳の私が後天的な大病を発症し、余命幾ばくもないとわかった時。母は泣き叫んだ。病気の私のためではなく、不幸な自分のために。「もうやだ。もう、全部リセットしたい」


 母は完璧主義者だった。生まれ持つ美貌で、同級生の誰よりも早く、誰もが羨む高スペックの夫を手に入れて、誰よりも幸せな、絵に描いたような人生を送るつもりだった。それ以外の人生を送ることは、彼女にとって受け入れがたかったのだろう。シングルマザーで、病床の娘を貧困にあえぎながら看取る人生など、母にはありえなかったのだ。


 


 8歳の秋が深まり始めた頃だった。


 父方の祖父が経営する「緑の里喫茶」に私を連れてきたとき、母は言った。


「ここは、空気も綺麗だし、キャンプ場もあるからたくさん遊べるよ。やさしいおじいちゃんもいるからね。お母さん、毎週会いに来るからね」


 それが嘘だと言うことは、幼い芽衣子にもすぐにわかった。


 ここの空気は冷たすぎて、外に出た瞬間に咳が止まらなくなるし、そもそも、外で遊ぶことなんてここ半年出来なかった。初めて会うおじいちゃんはずっと怖い顔をしていて、やさしいとは到底思えなかった。


 そして、母は、その日以降、一度も会いに来なかった。




 芽衣子の唯一の救いは、祖父が実は口下手なだけで、根はやさしい人だったということだ。


 芽衣子のために、長らく埃を被っていた暖炉を手入れして、ずっと火を入れてくれた。


 芽衣子が退屈しないように、大きなテレビを壁に付けてくれた。


 本で見て、ずっと芽衣子が飲みたいと思っていたココアを毎日作ってくれた。牛乳が入れられなかったので、想像していたよりは美味しくなかったけれど、湯気を見ているだけで楽しかった。


「このお店、おじいちゃんが作ったの?」


 そう聞くと、おじいちゃんはこっちも見ずに、「ばあさんと作った」と返した。


「おばあちゃんは?」


「死んだ」


「キャンプ場も、おばあちゃんと?」


「・・・・・・ばあさんが好きでな」


 芽衣子はキャンプ場の方の様子をほとんど見たことがなかった。夏になれば気候的には外に出られるかもしれないけれど、その時まで自分が生きていないであろうことは、芽衣子にもなんとなくわかっていた。




 そんな時だった。タカシという少年がよくキャンプ場に来るようになった。


 私よりいくつか年上の男の子だ。受付をする父親に嬉しそうについてきて、暖炉の前に座る私を見つけると笑顔で手を振ってきた。私は無視した。だって、初めて会った人と話したことなんてなかったから。


 タカシはしつこかった。


 宿泊の間、機会を見つけてはしきりに芽衣子に話しかけてきてうんざりした。でも、タカシは芽衣子の病状を知ってか知らずか、キャンプがどれだけ面白いか、このキャンプ場がどんなにいいところかを一方的に、矢継ぎ早に、それでいてとっても楽しそうにまくし立てた。芽衣子は自分が見たことも経験したこともないその話に、いつしか夢中になっていた。


 雪玉を転がすとどんどん大きくなって、ゆきだるまになること。雪を集めて小山をつくり、そこに穴を開けるとかまくらになること。どれも芽衣子にとっては夢のような話だった。


 タカシは、芽衣子を外に連れ出そうとは一度もしなかった。だからきっと、芽衣子の体のことを実は知っていたのだろう。


 その後、タカシの一家は翌年の春先にかけて何度か緑の里キャンプ場を利用した。芽衣子はタカシが来るのを本当に楽しみにするようになった。


 3月の始め、タカシは「もうこれないかも」とつぶやいた。


「父ちゃん母ちゃんがリコンするっぽい。ごめんな」


 そう言ったときですら、タカシは笑っていた。


 芽衣子はココアを見て、うつむいた。悲しかったが、少し、ほっとしてもいた。芽衣子の病状は日に日に悪化していた。祖父が電話で入院の手続きをしていることも知っていた。もう、ここには戻ってこられないだろう。だから、タカシにお別れを言わなくて済む。


「おれさ、いつかテレビ出るから!」


 何を思ったのだろう。タカシが急に大声を出した。タカシは芽衣子がいつも見ている壁のテレビを指さした。


「テレビでよく、有名人がお気に入りのお店とか紹介してんじゃん。おれ、将来、絶対有名人になって、あれやるわ」


 何を言っているのだろう。首をかしげる芽衣子にタカシは続ける。


「ここのキャンプ場を紹介するんだ。おれの一押しですって。で、遊び回るのを、テレビで流すんだ。そしたら、芽衣子も見れるだろ」


 そうか。一度もキャンプ場をその目で見たことがない芽衣子でも、テレビ越しでなら、見せてあげられると思ったのか。あまりに突拍子のない話に、芽衣子は笑った。口の前に置いてあるカップの中のココアが、息で揺れて、小さな波紋を広げる。


 もう芽衣子は、ココアを飲み下すのも難しくなっていた。


「そしたら、世界中のキャンプ好きが、ここに押し寄せるぜ。そしたら、芽衣子もさびしくねえだろ」


「・・・・・・じゃあ、私は、何をしたらいいかな」


 笑顔で聞いて、すぐに後悔した。私にできることなんて、あるはずがない。


「んー。じゃあ、ここのカンバン娘になれよ」


「なにそれ」


 タカシはちょっと言葉につまった。看板娘の意味を、タカシもよくは知らなかったのだろう。


「ええっと、あれだよ。来てくれた人に、キャンプに来てくれてありがとう、とか言うんだよ」


 ざっくりした説明に思わず吹き出す。


「わかった。やってみる。わたし、話すの苦手だからうまくできるかわかんないけど」


 タカシも「ノリだよノリ」と笑った。


「いやー。夢が広がるなー。撮影の時のキャンプ飯、なににしようかな。芽衣子、何が良い?」


 私はちょっと考えて答えた。


「チーズ」


「チーズ?」


 芽衣子は乳製品のチーズを食べたことがなかった。でも、絵本でも、テレビでも何度も出てきたから。食べてみたくて仕方なかった。きっと、私が食べられなくても、タカシがテレビの中で食べてくれたら、私がタカシになって、自分が食べている気分になれる。きっとそうだ。


「うん。いいな。チーズ。よっしゃ。これでもかってぐらいチーズまみれの料理を食いまくってやるよ」


 そのタカシの言い方が、なんだかすごく面白かった。


 ココアがまた揺れた。






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