【第3章】 雪中キャンプ編 清水奈緒 1


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 あの日、清水奈緒は絶望した。


 小学六年生の3月、雪に半分のみ込まれた神社の本殿の中だった。


 大きな寝袋から、上半身だけ出して、ほこりっぽい床に倒れ込むように手をついて、奈緒は泣きながら斉藤ナツを呼んだ。約束したからだ。『ずっと一緒にいてくれる』。そう、ナツは約束してくれた。だから、呼べば戻ってくる。戻ってきてくれるはずだと、そう思ったのだ。


 だが、ナツは戻ってこなかった。




 なぜ、ナツの持ち物を盗み続けていたのか、奈緒にも明確な理由はわかっていなかった。ただ、間違いないことは、清水奈緒は斉藤ナツに憧れていた。心の底から、これ以上ないほど。その感情は、「憧れ」というありきたりな言葉では表現できないほどに強いものだった。


 奈緒は10歳の時に、母から会ったこともない他人の名をあてがわれた。


 母のイメージと違うことをすれば、ひどく叱られた。「メイちゃんはそんなことしない!」とヒステリックに折檻された。そうならないために、常に母の顔色を見て、母が期待するであろう行動を、まるで自分が望んでいるかのように行った。そのうち、自分が何をしたいと思っているのか、自分が誰なのかもわからなくなっていった。


 そんな時、ナツと出会った。


 ナツは、自分がしたくないことは意地でもしなかったし、自分がしたいと思ったことは誰に反対されようと、どう妨害されようと、その屈強な意思ひとつでやり遂げた。


 ナツは「優等生」でも「劣等生」でも「不良」でもなかった。斉藤ナツはどの既存のカテゴリーにも当てはまらなかった。ナツはあくまで、どこまでも「斉藤ナツ」であり続けた。


 日々、自分を殺して、母が期待する優等生の人気者というカテゴリーであり続けようと必死だった奈緒は衝撃を受けた。だから、奈緒はナツに憧れた。


「私も、私らしくあれば良いんだ」とは、ならなかった。そんな正常な気づきが出来ないほどには、奈緒の精神はすでに蝕まれていた。奈緒は「斉藤ナツ」を新しいカテゴリーとして認識し、そこに自分を入れ込もうとした。


 つまり、清水奈緒は「斉藤ナツ」になろうとしたのである。




 奈緒はナツにつきまとった。母にしているのと同じようにナツがしたいと思っていることを予想して、その実現のためなら全力を尽くした。全身全霊でナツに自分の有用さをアピールした。


持ち物を盗んだ。チャンスがあれば必ずと言っていいほど盗んだ。すぐにナツが自分の持ち物にそれほど思い入れを持っていないことがわかったが、それでも盗み続けた。ナツの持ち物を所有しているだけで、自分が斉藤ナツに近づいている気がした。




 そのうち、奈緒の中で変化が起きた。ナツと過ごす日々があまりに楽しくて、精神が安定したのだろう。「斉藤ナツ」そのものになるのではなく、「ナツの友人になりたい。親友になりたい」と思うようになった。その年頃の子どもとしての自然な感情がようやく発露したのである。




 だが、しばらくして、実はナツが奈緒のことにも関心をさほど持っていないのではないかという疑念が、奈緒の中で芽生えた。


 ナツはいつも違う場所を見ていた。奈緒が話しかけるのは、いつもナツの横顔だった。


あたしはいつもなっちゃんの顔を正面から見つめているのに、なっちゃんはちっともあたしを見てくれない。あたしはこんなにナツのことを思っているのに、なっちゃんは私の事をなんとも思っていない。


 その事実は、奈緒の心を引き裂くほどに傷つけた。これなら忌み嫌われる方が、何倍もましだとも思った。




 ある日、奈緒はナツから盗んだ筆箱を、そのまま学校に持って行った。流石に気づくと思った。そしたら、もしかしたら、ケンカが出来るかもしれない。あのいつも冷静ななっちゃんが、感情をむき出しにして、私を真っ正面から睨み付けて、怒ってくれるかもしれない。


でも、ナツは気が付かなかった。全く。これっぽっちも。


 実際は、奈緒が犯人であることにナツが気づかないのは、ナツの奈緒に対する信頼の現れであったし、そもそも奈緒の顔を真っ正面から見ないのは、単にナツが人付き合いが苦手なことが大きかったのだが、それを冷静に判断できるほど、奈緒の精神に余裕はなかったのだ。奈緒の心は大いに揺さぶられた。これまで以上にナツとのおそろいの格好にこだわり、ナツの私物を盗むのも止まらなかった。


 だから、クラスでナツが暴力事件を起こしたときは、奈緒は本当に嬉しかった。ケンカの相手は奈緒ではなかったが、自分のためにナツが行動を起してくれた事実は、奈緒の心を温かく満たした。


 その後にメイちゃんのことをナツに打ち明けるのはつらかったが、その後、奈緒のために家出を計画し、『ずっと一緒にいてくれる』と約束してくれた時は天にも昇る気分だった。




 家出の当日、奈緒は盗んだジャケットをリュックの底に忍ばせた。苦楽をともにした旅の終わりに、自分からこれを見せて、全て打ち明けようと思った。きっとナツは怒るだろう。殴り合いのケンカになるかもしれない。それでいい。それでこそ、本当の友達になれるんだ。そう、清水奈緒は夢見た。


 この着古した上着が、ナツにとって母の形見代わりであることは、奈緒には知るよしもなかったのである。


 結果、予想外のタイミングでナツに見つかった上着は、ナツを怒らすのではなく、大いに傷つけただけで終わった。ケンカになどなりようもなく、お互いに取り返しのつかない傷を心に残して、二人の友情は終わりを迎えた。




 二人の子どもの、受け入れがたい心の傷に対する防衛方法は、対照的だった。




 斉藤ナツは、忘れた。


 無意識に記憶にフタをしたと言ってもいい。奈緒との主な思い出には次々と鍵がかけられ、記憶の奥底に沈められていった。自分の人生には友達という存在はいないんだと、はじめからいないんだと、そんな風に思い込むようになった。




 清水奈緒は、考えた。


 なぜ、自分は斉藤ナツの友人になり得なかったのか、なぜ、私ではだめだったのか、そもそも、私は本来だれなのかと、思考の方向を根本的に間違えたまま、何度も何度も、心がすり切れるまで考え続けた。


 その問い自体が間違っている、答えのない自問自答は、奈緒が大人になっても終わることはなかった。いつの間にか、斉藤ナツは奈緒の中で幾度も改変され、自分が決してたどり着けない神のごとき存在になっていった。


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