【第1章】 林間キャンプ編 斉藤ナツ 8

 硬直していた私は、ジープのヘッドライトの光がキャンプ場に入ってきた瞬間に一気に行動を開始した。


バケツの水をたたきつけるようにしてたき火を消し、ライト類もすべてOFFにする。


 手探りでザックを見つけ、中からナイフを引っ張り出して鞘ごとズボンの尻ポケットに差し込む。


 次に、テント設営の後に地面に置いていたはずのペグハンマーを探す。焦っているためか、一向に手に当たらない。


 車がトイレの前に停車し、エンジンが切れた音がした。時間が無い。


 私はハンマーの代わりに真っ先に手に当たった一眼レフを引き寄せ、肩にかけると、土壁を手探りで探って、昼間に登った場所を探した。


 たき火が消えた今、この林の中は漆黒状態だ。前回つかまった木の根を探し出すまでに、両手は擦り傷だらけになる。


 ようやく見つけた木の根を掴むと、足場が見え無いため、がむしゃらに土壁を蹴って上に登る。


 上の雑木林に上がる事に成功すると、コの字の土壁の上を這うようにしてサイトに沿って入口側に移動した。泥だらけになりながらも、木々の間からトイレの方向が見える場所を見つけ出す。


 車から降りた管理人は懐中電灯を持っているようだった。細い光がキャンプ場をさまよう。管理人自身の出で立ちは、暗さのためと、距離が開いているために、肉眼ではぼんやりとしか見えない。私は腹ばいの体制で一眼レフを構えると、望遠レンズを限界まで絞って管理人をズームした。


「斉藤さーん。すみませーん。停電が起こったようでしたのでー。様子を見に来ましたー」


 緊張感のないトーンで呼びかける管理人の左手に、長い棒状のものが握られているのをレンズ越しに確認した私は、あまりの展開に目を強くつぶって歯ぎしりした。私は一人を楽しみたくてキャンプ場に来ただけなのに、なんで殺人鬼と対峙する羽目になっているんだ。


「斉藤さーん。どこですかー?」


 まだ距離がある。今ならまだ返事をしても正確な場所は特定できまい。わずかな可能性かけるならこのタイミングしかない。私は木々の間から呼びかけた。


「管理人さん! 私、実は家族と仲がいいんです。すごく仲良しです。失踪届なんてすぐ出します! すぐ捕まりますよ! でも、あの、今引き返してくれたら、何もなかったって事になります。思い直してください。まだ間に合います!」


 管理人はピタッと動きを止めた。数秒後、ふっと懐中電灯の光が消える。思い直した? いや違う。狩りを始めたんだ。


 どうする? 無抵抗で降参してみて、様子を見るか? いや、だめだ。


 彼女の欠けた頭を思い出した。迷い無く頭を打ち抜かれ、体には他に外傷がない。初めから、頭部を狙われたのだ。彼女の「気がついたら死んでた」という言葉も、今考えれば比喩表現ではなく、そのまま言葉通りだったのかもしれない。彼女は命の危機を感じる暇さえなく、命を奪われたのか。となると、管理人の目的は脅すことではない。殺すことだ。殺害行為自体に魅力を感じるのか、それとも遺体に用があるのかわからないが、どちらにせよ、両手を挙げても寿命は延びないだろう。


 管理人のゆっくりとした足音がかすかに聞こえた。だんだん近づいてくる。私は這いつくばっていた体をゆっくりと起こした。ズボンからナイフを取り、鞘から抜く。


 暗闇で見えないのは相手も同じだ。物音さえ立てなければ、場所はばれない。しかも、私がいる林のサイトにはまず来ない。だって、十人中九人が隣の絶景サイトを選ぶ。まさかこの雑木林にいるとは思うまい。管理人が隣のサイトを探っている間に、土壁を飛び降りて、全力で車に向かって走り出せば、逃げ切れる可能性はある。私のミニクーパで逃げてもいいし、もし鍵を指したままだったら、管理人のジープを奪うのが理想だ。そうすれば、管理人には追える手段がなくなる。


 しかし、管理人の足音はなんの迷い無く、私のいる雑木林サイトに入ってきた。


 そんな。どうしてだ。遠くからでも炎の位置が見えていたのか? それともやはり、さっきの返答で場所を特定されたのか? でも、大丈夫だ。まだ大丈夫。鼓動が苦しくなるほど高まるのを感じながら、必死に自分を落ち着かせる。


 私は今、土壁の上の林に潜んでいる。この暗闇でわかるわけがない。たとえ上にいることがわかっても、場所の特定まではできないだろうから、彼も土壁を登ってくる必要がある。そのすきに、入り口めがけて飛び降りて走り出せば、あるいは。


 足音がサイトの中を進む。サイトの中心、おそらくさっき消したたき火の跡があるあたりに来たとき、管理人のゆっくりとした足音が止まった。私の気配を探っているのか。息を止めて耳を澄ますと、カチリとかすかな金属音を耳が拾った。


 構えた!


 とっさの判断で管理人とは逆方向の下りの傾斜にむかって身を投げる。次の瞬間、轟音とともに私のいた場所の木々が粉砕して、木片が飛び散った。私は傾斜を転がり、背中と肩を木々の幹にしたたかにぶつけた。打撲の激痛に思わず出そうになるうめき声を必死でこらえる。まずい。見つかった。逃げなければ。慌てて体を起こし、その場を離れようとした瞬間、木の幹に勢いよく額がぶつかった。鈍い音とともに視界が一瞬白くなる。握っていたナイフがどこかに飛んで行ったのがわかった。尻餅をつき、生ぬるいものが額から鼻筋を伝うのを感じる。


 落ち着け。考えろ。


 座り込んだ状態のまま、衝撃で揺れる脳をフル回転させる。なぜ、管理人は私が見えるんだ。夜目が利く体質だったとしても、ここまで正確に私の居場所がわかるはずがない。山勘で撃ったわけでもあるまい。確実にあの男には私が見えている。


 思い出すと、管理人は夜明け前の真っ暗な山で鹿を仕留めたと言っていた。まさか懐中電灯片手に銃を構えたわけではあるまい。


 さては、暗闇でも獲物が見える装備を持っているのではないか。暗視ゴーグルやサーモグラフィー、そんなものいくらでも存在する。


 私は改めて自分の置かれた状況がいかに絶望的であるかを実感した。相手は銃を持ち、腕力でも体格でも勝り、地理に詳しく、そして目が見える。私には暗闇の中で目すらない。先ほどの、彼女に対して言った自分の言葉が思い出される。


「強者の人間が『食べたい』と思ったなら、武器も道具も知識もすべてつぎ込んで獲物を狙えばいい。鹿は『生きたい』と思うなら、角を使おうが、蹄を使おうが、その場で可能なあらゆる手段を尽くして、文字通り死力を尽くして抗えばいい。」




 それが狩られる側にとって、どんなに絶望的な状況でも。


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