(6-2)


   ◇


 全速力のおかげかどうかは分からないけれど、期末試験をなんとか乗り切って、私たち三人は無事ボランティアの引き継ぎに参加することができた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 よく晴れた土曜日の朝、駅前のロータリーで待ち合わせて、看護科の先輩たちと一緒にいつもと反対方向にある大学病院へ向かう。

「基本的には病院の看護師さんたちの言うとおりにしていればいいからね。というより、余計なことをしたらまずいから、そっちの方を気をつけてね」

 小児科病棟は免疫の弱い子供たちもいる関係で、外部との接触には特に厳しい制限があるそうで、たとえ善意であっても、勝手な行動をしてはならないんだそうだ。

 私たちのような学生ボランティアは、いちおうそこまで制限のない子供たちの相手を任されるけど、決まりには従わなければいけない。

 レクリエーションだけでなく、小学生患者の勉強相手や、入浴後のドライヤーかけの手伝いとか、花見の季節には車椅子で出かけるグループの付き添いなど、やることは思った以上にたくさんあるようだった。

「今日はまず講習を受けて、その後でレクリエーションをやるんだけど、おとなしくしていられない子もいるから、適当に相手してあげてね」

 先輩たちは気楽そうだけど、ミサキとマユは表情が硬い。

 案外、まだ何も知らない私の方がリラックスしているかも。

 ただ、二人の緊張は厳しい規則が原因ではない。

 今日、私たちは何か得意なものを披露することになっている。

 子供たちの相手そのものよりも、出し物のことで頭がいっぱいなのだ。

 マユは歌で、ミサキはオルガンで伴奏するらしい。

 私はトランプの手品を見せるつもりだ。

「チホはずいぶん落ち着いているね」

 ミサキがそうつぶやくと、マユがクスッと笑う。

「今日は包帯巻かなくていいからでしょ」

「えぇ、それ言う?」

 でも、ミサキの表情も和らいでくれたから、まあいいや。

 病院に到着して、まずは小児科病棟の談話室で基礎的な講習を受ける。

 それから手指を念入りに洗って、名札をもらう。

 色画用紙を切り抜いて、平仮名で名前が書いてある。

 マユは星で、ミサキはチューリップ、私はハートの形だ。

「幼稚園以来だね、こういうの」

 二人ともうれしそうだ。

 私は頬の筋肉を引き上げて笑顔を作った。

 相手のタイミングに合わせて笑顔になるのは、まだ無意識にできるわけではない。

 だから練習が必要なのだ。

「じゃあ、病棟に行きましょうか」と、看護師さんが案内に立つ。

「はい」

 しっかりと返事をして私たちも立ち上がる。

「大丈夫よ、すぐに慣れるから」と、先輩たちが私たちの背中を押してくれる。

 先輩たちは実習でも使う看護服に着替えていて、私たちは今日のところは学校の制服のままだ。

 看護師さんに続いていざ病棟へ入ると、早速入院中の子供たちと出会う。

 頭に包帯を巻いた女の子や、点滴をしたまま車椅子で移動している男の子、廊下を何度も往復して義足の練習を繰り返している子もいた。

 先輩たちは気軽に声をかけてあいさつしているけど、子供たちの反応はいろいろだ。

 明るくあいさつを返してくれる子もいれば、ただうなずくだけだったり、びっくりしたような表情で固まってしまう子もいる。

 すぐそばにいた先輩が私たちにささやく。

「人見知りの子も多いからね。べつに嫌われているわけじゃないから、あんまり気にしなくていいからね」

 人との距離感のつかみ方とか、相手に合わせるとか、みんなが普通にやっていることが苦手なのは私も同じだ。

 入院生活を送っている子供たちにしてみたら、私たちはよそから来たただの知らない大人なんだろうな。

 自分が小さかった頃のことを思い出す。

 あの頃は高校生くらいでも大人に見えたものだ。

 実際に自分がその年になってみると、中身はそのままで、体がちょっと大きくなった子供のままなのが逆にびっくりだ。

 まずはレクリエーションの会場設営に取りかかる。

 食堂のテーブルを移動して椅子を並べる仕事を任される。

 それが終わると、ミサキが電子オルガンの調子を確かめて、マユは窓に向かって発声練習を始めた。

 すると、いきなり食堂に駆け込んできた幼稚園くらいの男の子が、ニコニコとマユのスカートを引っ張る。

「おねえちゃん、何してんの?」

「え?」

 いきなり懐に飛び込める。

 こういう子もいるんだな。

「歌の練習だよ」

「ふうん」

 それっきり男の子はまた食堂を出て行ってしまった。

「元気な子だよね」と、ミサキがあきれている。

 そういえば、入院しているのに、駆け回っていられるんだな。

 何の病気なんだろう。

「ていうかさ、スカート引っ張るなっつうの。あいつが高校生なら蹴り入れてるよ」

 おさえて、マユ。

 子供って遠慮がないもんな。

 と、先輩たちが子供たちを集めて食堂に入ってきた。

 私たち三人が前に立ち、先輩たちは子供たちの間に入って一緒に出し物を見るようだ。

「いよいよだね」と、またミサキの表情が乾いたお餅みたいに堅くなる。

「大丈夫。なんとかなるって」

 そう言いつつ、マユは手のひらに、『人人人』と、何度もなぞっている。

「一番緊張してるじゃん」と、ミサキがツッコんで空気がほぐれた。

 椅子に座っている子供たちは年齢も状態もみんなバラバラだ。

 先輩が付き添っている車椅子の子は無表情に私たちを見上げている。

 看護師さんが司会を務めてくれてレクリエーションが始まる。

 まだ学生さんのような若い男性看護師だ。

 ラグビー選手みたいに体格がいいのに童顔で、ゆるキャラみたいに見える。

 名札には『としき』と書かれている。

「今日は新しい高校生のおねえさんたちが来てくれたから、まずはごあいさつしましょう」

 すると、またさっきの男の子が駆け込んできてマユの前に立つ。

「マユだ!」と、いきなり指をさしたかと思うと、また駆け出していく。

 名札の字が読めるらしい。

「気に入られたみたいね」と、先輩たちがクスクス笑っている。

 看護師さんたちは慣れているのか、食堂の入り口に立った職員さんが廊下を見守っているだけで、追いかけたりはしていないようだった。

 落ち着いたところで、まずはマユとミサキが歌とオルガンを披露する。

 子供たちが大好きなアニメの主題歌だ。

 二人とも緊張していたのは最初だけで、始まってしまえば、「しってるー!」と、一緒に歌い出す子もいてなかなか楽しそうだ。

 と、そこへまたさっきの男の子が駆け込んできて、歌の途中なのにぴょんぴょん飛び跳ねながら大声でマユの名前を連呼し始めた。

 マユは迷惑そうな顔でなんとか最後まで歌い終わったけど、泣きそうになっている。

 他の子供たちが拍手している中で、司会のトシキさんがしゃがんで男の子をラグビーボールみたいにがっちりと抱き寄せる。

「こら、ヒロトくん、おねえさん困ってるぞ」

 でも、活きのいいカツオのように体を震わせると、太い腕をすり抜けて結局どこかへ行ってしまった。

 二人と入れ替わりに、今度は私の番だ。

「はあ、もう、サイアク」と、マユは機嫌が悪い。「あいつ許さないから」

「子供だからしょうがないよ」と、ミサキが慰めているけど、口をとがらせてうつむいたままだ。

「次はチホおねえさんがトランプの手品を見せてくれます」

 トシキさんに紹介されて前へ進み出たところで、いきなり困ったことになった。

 食堂のテーブルを用意してもらったんだけど、どうも後ろの方にいる子供たちからは見えないようだ。

 テーブルの上にカードをさらりと一直線に並べて見せたけど、まったく反応がない。

「え、上手じゃん」

 一番びっくりしているのは後ろにいたマユだった。

 意外なところからの反応で気持ちがほぐれる。

「じゃあ、よく見えないみたいだから、持ったままやりますね」

 私はいったんカードをまとめてから、上に掲げてくるりと扇形に広げて見せた。

 ほうっと食堂に居合わせた大人たちから感嘆の声が上がる。

 でも、やっぱり子供たちは手品を見たことがないのか、あまりよく分かっていないようだった。

「じゃあ、誰かにカードを引いてもらいましょう」

 私は一番前にいる小学校低学年くらいの男の子にカードを差し出した。

 付き添っている先輩と一緒に、どれにしようかなと一枚選んでもらって、私が後ろを向いている間にみんなに見せてもらう。

「おねえちゃんに見えないように、数字とマークを覚えておくんだよ」

「それ八?」と、口に出して言ってしまう子がいて、まわりのみんなが笑うところは、予想通りのお約束だ。

「じゃあ、もう一回、別のを選んでね」と、シャッフルをやり直して差し出す。「他のみんなは内緒にしててね」

 カードを確認した後、先輩が男の子からカードを受け取って私に戻す。

「じゃあ、これをよく混ぜまーす」

 シャッフルしたカードの山を男の子に差し出す。

「一番上のカードをめくってみて」

 きょとんとした表情の男の子がカードをめくると、『ダイヤの六』が現れた。

「あ、ほら、さっき選んだカードだね。大当たり!」と、先輩が少し大げさに驚いてくれる。

 本人の反応はいまいちだけど、まわりの看護師さんたちが拍手してくれてなんとか場が持ちそうだった。

 ――大丈夫、できる。

「じゃあ、もう一度ね」と、次は頭に包帯を巻いた高学年くらいの女の子に選んでもらった。

 私に見せそうになってしまうのを、付き添っていた先輩が慌てて隠してくれる。

 口に指を立てて、『シーッだよ』と、みんなに覚えてもらってカードを戻し、よくシャッフルする。

 そして、さっきと違って、今回は左腕にカードを一列に並べてみせる。

 おっ、と大人たちから感嘆の声が上がるけど、子供たちの反応はやっぱり鈍い。

 裏返しのカードの中で、一枚だけ表のカードがある。

「はい、あなたの選んだカードはこれですね?」

「あ、ホントだ」と、先輩が驚いてくれる。「すごいね、ほら。『スペードの三』だよ。さっきのカードだね」

 女の子も頬に片えくぼを作ってくれた。

 いちおう喜んでもらえているみたいだ。

「じゃあ、今度は、選んでもらって、さらにその人自身にシャッフルしてもらいましょう」と、私はカードを上に掲げた。「誰かやってみたい人はいませんか?」

 シーン……。

 あらら。

 どうしよう。

 全くの無反応は予想してなかったな。

 と、そこにさっきのヒロトくんがまた戻ってきた。

「おねえちゃん、何してんの?」

「ヒロトくん、この中から好きなカードを一枚選んでみて?」

「やだ!」と、元気よく即答だ。

 はい、ありがとう。

 ある意味、私も見習いたい姿勢だ。

 でも、おかげで子供たちもクスッと笑ってしまって、固まっていた空気がほぐれた。

 私は一番前の椅子に座っている眼鏡の男の子にカードを差し出して選んでもらった。

「私には見せないようにして、みんなに見てもらってくださいね。じゃあ、いったん戻してもらいますね」

 私はカードを受け取って何回かシャッフルしてから、もう一度その子に返した。

「絶対に分からないくらい、自分で好きなだけシャッフルしてみてね」

 男の子は慣れない手つきで一生懸命シャッフルしてくれる。

「あ、そうだ。もっとごちゃ混ぜにするために、看護師さんにもお願いしようか」

 男の子はうなずいてトシキさんにカードを差し出した。

 いいのかな、という表情で私に視線を合わせるトシキさんに、頬を最大限につり上げて笑顔を返す。

「たっぷり混ぜちゃってください」

「トランプなんて久しぶりでうまく切れるかな」

 言葉通り、男の子よりもつたない手つきで落としそうになったり、見ているみんながハラハラしている。

「ははは。ものすごく下手くそで格好悪いな」

 自虐的に照れているけど、なんだか本当に着ぐるみのゆるキャラがシャッフルしているみたいで、食堂が和やかな笑いに包まれる。

 トシキさんから戻ってきたカードの束を、私は上に掲げてみんなに見せた。

「はーい、では、私がカードを当てて見せます」

 右手の人差し指で一番上のカードをたたくと、そこにみんなの視線が集まる。

「さっき選んだカードはダイヤのキングですね?」

 なんで分かるの、とはっとした表情の子供たち。

「選んだカードはなんでしたか?」と、私はさっきの子にたずねた。

「えっと、ダイヤのキングで間違いないです」

「じゃあ、一番上のカードをめくってみて」

 今度はみんなからどよめきが沸き起こる。

 もちろんめくったカードはダイヤのキングだ。

 よし、大成功。

 やり方を変えながらの三回めで、ようやく手品の意味が分かった子もいたようで、小さな手で拍手をしてくれる。

 私はお辞儀をして後ろに下がった。

 良かった。

 うまくいった。

 先輩たちが交代して紙芝居が始まる。

 後ろに控えて子供たちの様子を眺めていると、ミサキが私に耳打ちしてきた。

「ちゃんとした手品だったね。この日のために練習してきたの?」

「そういうわけじゃないよ。前からやってたんだ。誰かに見せようと思ってたわけじゃないんだけどね」

 そもそものきっかけは小学校の図書室で手品の本を見つけたことだった。

 昭和の時代からある児童書で、かなりボロボロで色あせたページはあちこち補修がしてあった。

 小学生の頃は、正座して説教か、部屋で宿題の選択肢しかなかった。

 ゲームやスマホなんて買ってもらえなかったし、百均のトランプ以外に娯楽なんかなかった。

 だから私は部屋にこもって勉強しているふりをしながら本の説明をノートに書き写して、トランプの扱い方を練習していたのだ。

 あの頃の私は鏡を見ながら自分の手さばきを確かめていた。

 話し相手は鏡の中の自分だけ。

 うまくいけば鏡の中の私が笑う。

 私は彼女に笑ってほしくて一生懸命練習していたのだ。

 そこに映っていたのは私ではない私だけど、それこそが本当の自分だと思っていた。

 私の姿が映る鏡をたたき割ってしまえば、笑っている私はそのままあっちの世界にとどまることができるんじゃないかって、何度拳を握りしめたことか。

 でも、今、ちょっと不思議な気分だった。

 これまではこういったつらい過去の記憶が浮かんでくるだけで動悸が激しくなって冷や汗をかいたものだけど、今はまるで別の世界の他人の出来事を窓越しに見ているような感覚なのだ。

 自分とは関係のない鏡の向こうの出来事。

 あれほど自分を閉じ込めたがっていたあっちの世界。

 今の自分は明らかにこちら側にいる。

 その事実を私は冷静に受け止めていた。

 先輩たちの紙芝居が終わって、いったん休憩になる。

 私たち三人はまた談話室へ移動して待機になった。

 ミサキがまだ私の手品のことを話題にしていた。

「チホってふだんは包帯巻くの下手なのに、カードさばきがメチャクチャ器用で驚いたよ。不器用なのかと思ってた」

 それは言わないでほしい。

「ホント、不思議だよね」と、マユまで調子を合わせる。「チホの包帯って迷子になるよね。なんでそっち行く、みたいな」

「ヒロトだ、ヒロト」と、ミサキが手をたたいて笑い出す。「やんちゃな包帯」

「もう、そんなこと言わないでよ」

 まるで私の持ちネタみたいになってるし。

 と、そこへ看護師さんがやってきた。

「あ、ちょうどいいわ。面会のご家族が来てるんだけど、小さい子は感染対策の決まりで病室へは入れないことになっているのよ。それで、ご両親が面会に行っている間、お世話をしてあげてほしいんだけど、いいかしら?」

「はい。ここで見ていればいいんですか?」

「うん、そう。そこのテレビでDVD見ててもいいし、遊び道具も自由に使えるからよろしくね」

 看護師さんに連れてこられた女の子はアオイちゃんで、まだ幼稚園の年少さんらしい。

 見知らぬおねえちゃん三人が待ち構えていたのが怖かったのか、いきなり固まってしまった。

 唇を接着剤でくっつけたかのようにギュッと閉じて、肩に首を埋めるような姿勢で、私たちをにらみつけている。

 マユがしゃがんで目線を合わせようとしたけど、プイッとそらされてしまう。

「アオイちゃん、ちょっとの間、おねえちゃんたちと遊ぼうよ」

 返事がない。

 ミサキも一緒にしゃがんで手を差し出してみても、両手を後ろに隠してしまう。

「何して遊ぼうか。それとも、DVDでアニメでも見る?」

 さっきマユが主題歌を歌ったアニメのパッケージを見せても、ちょっぴりほっぺが赤くなっただけで、やっぱり返事はない。

「じゃあ、おねえちゃんとトランプする?」

 私は扇形に広げたトランプをアオイちゃんの前に差し出して見せた。

 突然現れたカードに驚いてマユの腕にすがりつく。

「トランプで遊んだことある?」と、私は聞いてみたけど、やっぱり返事はない。「ババ抜きとか知ってる?」

 年少さんだと、まだ数字とかマークの意味が分からないのかもしれない。

 私は扇形のカードを反転させて表側を見せた。

「ほらね。赤と黒のカードに数字とかマークが書いてあるでしょ。絵が描いてあるカードもあるの。一枚一枚全部違うカードなんだよ」

 アオイちゃんはじっと見つめている。

 興味がないわけではないらしい。

「じゃあ、いい?」と、表のまま差し出す。「好きなカードを一枚選んでみて」

 言われていることの意味が分からないのか、手を出そうとしているけど、結局もじもじして止まってしまう。

「どれがいい?」と、マユがアオイちゃんの肩を抱きながらカードをいくつか指さす。「これがいいかな? それとも、こっち?」

 アオイちゃんが首を振った。

 ようやく返事をしてくれた。

 マユが私にウィンクする。

 よし、この調子でもう少し押してみよう。

「どれにする?」と、ミサキも横から話しかける。「アオイちゃんが選んでいいんだよ」

 それでもまだマユにすがりついたままだ。

「これ?」と、ミサキがダイヤの七を指すと首を振った。

「じゃあ、こっちは?」と、マユがスペードのクイーンを指す。

 また首を振る。

 またか、と二人はちょっとあきらめかけているけど、違うという意思表示をしていることは間違いないんだ。

 だから、たぶん、アオイちゃんの心の中には答えがあるんだ。

 それから何枚か根気よく繰り返しているうちに、ついにアオイちゃんがうなずいた。

「お、ハートのエースだね」と、マユが扇形からカードを抜き取ってアオイちゃんに示す。「ハートのマークが真ん中に一つあるね。あれ……?」

 カードには下手な字で、『チホ』と、私の名前が書いてある。

 小さい頃、自分の持ち物には名前を書きなさいと言われていたからなんだけど、ちょっと恥ずかしい。

「ずいぶん長いこと使ってるんだね」と、ミサキが笑う。

 手になじんでるのよね。

「じゃあ、そのカードをおねえちゃんに戻してみて」

 私がカードをそろえてその上にハートのエースを返してもらおうとすると、アオイちゃんは首をフルフルッと振って、カードを後ろに隠してしまった。

 あらら、困ったな。

 これじゃあ、手品を見せられないな。

 ミサキがぷっと吹き出して私を見ている。

「アオイちゃん、おねえちゃんにトランプを返してあげてよ」と、マユが背中をさする。「チホおねえちゃんが魔法を見せてくれるから」

 それでもアオイちゃんはかたくなにカードを背中に隠そうとする。

 と、そこへアイツがやってきた。

 駆け回っているヒロトくんだ。

「あ、トランプじゃん!」と、アオイちゃんが握っていたハートのエースをかすめ取ったかと思うと、思い切り上に放り投げた。

「こら、ヒロト!」とマユが声を抑えながらしかる。「もう、さっきから人の邪魔ばっかりして」

 アオイちゃんはそれほど驚いた様子もなく、二人のやりとりをおとなしく眺めている。

 ヒロトくんに拾われて面倒なことになる前に、私は自分で手を伸ばしてヒラヒラと床に落ちたハートのエースを回収した。

「じゃあ、いい?」と、手品を再開する。「このトランプをよく混ぜるからね」

 シャッフルしていると、めずらしくヒロトくんは私の手さばきをじっと見つめ始めた。

 チャカチャカ動いてばかりいるから、じっとしている様子がなんか新鮮だ。

 よく切ってそろえたトランプの山をアオイちゃんに差し出す。

「じゃあ、この一番上のカードをめくってみて。何が出るでしょうか?」

「ハートの一!」と、横からヒロトくんが叫ぶ。

「先に行っちゃだめだよ」と、マユが顔をしかめる。

 アオイちゃんはカードの一番上を指さしただけで、めくろうとはしない。

「めくるって、こうするんだよ」と、ヒロトくんが手首をひねる動作を見せる。

 ああ、そうか、『めくる』って意味が分からなかったのか。

「そう、ヒロトくんみたいに、カードをひっくり返す……逆さまにして表にしてみて」

 アオイちゃんは恐る恐る手を伸ばして、一番上のカードをひっくり返した。

 ハートのエースだ。

「ほら言ったじゃん」と、ヒロトくんが大声で叫ぶ。

「病院だから大きな声を出しちゃだめって知ってるでしょ」

 マユが口に人差し指を立てるけど、ヒロトくんにそんなのは通じない。

「当たったもーん。オレ、当たりぃ!」

 私はハートのエースを裏返してからシャッフルして、もう一度扇形に広げた。

「じゃあ、今度は裏側にしたまま一枚選んでみて」と、アオイちゃんに差し出す。

「これ!」と、いきなりヒロトくんが横から手を出す。

 ま、予想通りだけどね。

 キミはそうすると思ってましたよ。

 私はアオイちゃんにたずねた。

「これでいい?」

 コクンとうなずくので、私はそのカードをパシッと勢いよく抜き出してアオイちゃんに渡した。

「さあ、何のカードでしょう?」

「ハートの一だよ!」と、ヒロトくんがまた大声で叫ぶ。

「ネタバレ禁止!」と、マユまで声が大きい。

 実際、アオイちゃんの手の中にあるカードはさっきのハートのエースだった。

「あれ、おんなじだ!」と、ヒロトくんが声は大きいけど、きょとんとした表情でハートのエースを見つめている。

 本当にハートのエースだとは思っていなかったらしい。

「じゃあ、またやってみるよ」

 ハートのエースを受け取ってシャッフルすると、ヒロトくんはじっとそれを見ていた。

「いい? おねえちゃんがおまじないをかけたから、アオイちゃんはね、もうハートのエースしか引けなくなりました」

 扇形に広げたカードを差し出すと、今度はアオイちゃんが自分で一枚指さした。

「じゃあ、これね」と、私はピシッと抜き出して一枚渡す。

 ハートのエースだ。

「すげえ!」と、ヒロトくんが飛び跳ねる。「おねえちゃん、魔法使い?」

 手品だよと言いかけたけど、『しかけのある手品』なんて説明しなくちゃならないのは、せっかくの夢を壊すことになる。

「うん、魔法使いの見習いだよ」

 本当は看護師の見習いだけど、物は言い様だ。

「見習いって何?」と、ヒロトくんが首をかしげる。

「まだ勉強中ってこと。いっぱい練習して、本物になるの」

 と、そこへ大人の男の人がやってきた。

 騒いでいて怒られるのかと思ったら、それはヒロトくんのお父さんだった。

「こら、ヒロト、こっちに来てはいけないんだよ。アオイに病気がうつったら大変なことになるんだからね」

 あれ?

 アオイちゃんとヒロトくんは兄妹なの?

「うつんないもん」と、ヒロトくんはだだをこねる。「オレ、病気じゃないから」

「外の病気を中に持ち込んでもいけないんだよ。入院している子たちがもっと病気が重くなったら困るだろ看護師さんに怒られるから、あっちに行こう」

「やだ」

 と、そこへお母さんもやってきた。

「すみません。ご迷惑ばかりおかけして」

「いえ、大丈夫ですよ」と、マユがアオイちゃんの肩に手を置いたまま立ち上がる。

「ヤッホー!」と、叫びながら談話室を飛び出していくヒロトくんをお父さんが追いかけていった。

 お母さんがため息交じりに話してくれた。

「あの子、生まれた時から落ち着きのない子で、治療もしてたんですけど、ちょっと目を離した隙に鍋をひっくり返してやけどしてしまいましてね」

 ああ、それで入院しているのか。

「アオイの方は人見知りが激しくて。二人とも極端なんですよ」

 なんと返事をしたものか、何も思い浮かばない。

 マユもミサキも黙り込んでいる。

 お母さんが手招きしながらアオイちゃんに声をかける。

「じゃあ、下の売店でお菓子買っていこうか。おねえちゃんたちにバイバイしようね」

 ところが、どういうわけか、アオイちゃんは私の服の袖をギュッと握りしめて離れようとしない。

 なんだろう?

 何か言いたいんだ。

 何か言いたいのに、言えないんだ。

 まるで私自身の小さい頃の姿を見ているような気がして、急に鼓動が激しくなってしまった。

 冷や汗が吹き出てくる。

 なんだろう?

 全然分からない。

「もっと手品が見たいのかな?」と、マユがしゃがんでたずねると、コクリとうなずく。

 なあんだ、そうなのか。

「じゃあ、最後にもう一回ね」

 私は扇形にカードを広げて差し出した。

「好きなカードを選んでね」

 アオイちゃんは今度は即座に手を出して、一枚指した。

「じゃあ、はい、どうぞ」と、抜き出して渡す。「さあ、これは何のカードでしょうか?」

 と、その時だった。

 アオイちゃんの口が動いた。

 声は出ないけど、間違いなく口の動きがハートと答えていた。

「うん、ハートのエースかな?」と、ミサキにもそう見えたらしい。

「表にしてみようよ」と、マユも応援する。

 アオイちゃんがひっくり返したカードはやっぱりハートのエースだった。

「あら、すごいのね」と、お母さんがびっくりしている。「魔法みたいね」

 アオイちゃんはハートのエースをギュッと握りしめて私を見ている。

 その口元は、かすかに口角が上に向いていた。

 私も頬を引き上げて笑顔を返した。

「そのカード、持ってていいからね」

「え、いいんですか?」

 私はお母さんにも笑顔を向けた。

「どうぞ、魔法のカードですから」

 マユが横からアオイちゃんにささやく。

「ほら、これ、魔法使いのおねえちゃんのサイン入りだからね」

 あ、そうだった。

 私の名前が書いてあるんだった。

 下手な子供の字ですみませんね。

 でも、かえって、崩した感じがちょっとサインぽいかも……なわけないか。

「どうもありがとうございました」と、お母さんがお礼を言ってアオイちゃんを連れていった。

 別れ際に、アオイちゃんはカードを握りしめながら私にバイバイしてくれた。

 私たち三人も手を振って送り出す。

 姿が見えなくなると、三人そろって、ふうとため息が漏れてしまった。

 思わずみんな笑い出す。

「もう、どうなることかと思ったよ」と、ミサキ。

「チホのおかげだよ」と、マユが私の腕をつつく。

「ヒロトくんのおかげかもよ」

 私がそうつぶやくと、ミサキもうなずいた。

「ヒロトって、あいつ、妹想いの案外いい兄貴だったんだね」

 すると、すかさずマユが重ねてくる。

「うちの兄貴ほどじゃないけどね」

 思わず苦笑してしまう。

「え、なんか変なこと言った?」と、マユが私たちをにらむ。

 ミサキが私に耳打ちした。

「自覚のないところが正真正銘のブラコンだよね」

「あ、何よ?」と、ますますマユの機嫌が悪くなる。

「はいはい、なんでもありませんよ」と、ミサキがおどけた様子で場の空気を流す。「それよりさ、チホの手品、本当にすごいよね」

「うん、魔法かと思っちゃったよ」と、マユも表情を変える。「タネとかあるの?」

 もちろんただの手品だ。

 実は、さっき最初にみんなの前で披露した手品と、アオイちゃんにやって見せたのは、どちらも同じトリックだ。

 相手の選んだカードを受け取った時に、手のひらに隠しておいて、そのカードだけシャッフルしないのだ。

 そして、一番上にカードをのせて相手に見てもらう。

 だから、常に相手の選んだカードが現れることになる。

 そして、そのバリエーションとして、相手の選んだカードをシャッフルした山の中に表側にして差し込んで並べてみせれば、一枚だけ表になった当たりカードが現れたり、わざわざ相手にシャッフルしてもらった場合も、当たりカードは常に私の手の中にあるから、やはり一番上に当たりカードが来るようになっているのだ。

 アオイちゃんがどれを選んでもハートのエースになったのは、もちろんカード全部がハートのエースだったわけではない。

 やっぱり同じようにハートのエースだけ私の手の中に隠してあって、相手がカードを選んだら、そのカードを渡すように見せかけて、代わりにハートのエースを渡しているだけなのだ。

 一見バレそうだけど、渡す時には一瞬手がカードと重なるからすり替えたことに気づかれないし、わざとカードを接触させてパシッと派手に音を鳴らすと、人はカードを引き抜いた音だと勘違いして、自分が選んだカードを渡されたのだと思い込むのだ。

 種明かしをしてしまえば単純なことだけど、もちろん簡単にできることではない。

 カードを落としたり、手からはみ出したり、何度も何度もできるまで練習したから、人前で見せられるようになったのだ。

 私には時間だけはあった。

 ずっと一人で、鏡に向かって練習を続けるだけの時間。

 私にはそれしかなかった。

 鏡の中で泣いていた自分を笑わせるための練習。

 その結果が、この魔法なのだ。

 あの頃の私はついに笑うことはなかったけど、今はもう大丈夫。

 最後はアオイちゃんも、たぶん笑っていてくれたと思う。

「チホってさ」と、ミサキがつぶやく。「ポーカーフェイスっていうの? 表情が変わらないからタネが分かりにくいんだろうね。本物の魔法使いみたいに見えちゃうもん」

 ああ、そうなのか。

 表情が硬いのは欠点だと思ってたけど、利点になる場合もあるんだ。

 正直なところ、あんまりうれしくはないし、どちらかと言えば直したいところだけど、他人には真似しにくいことでもあるんだね。

 マユがポンと手をたたく。

「じゃあ、ハロウィンはチホが主役の魔法使いね」

 はあ?

 トランプ手品しかできないんですけど。

「魔法使い見習いから主役に大抜擢」と、ミサキまでからかって喜んでいる。「ちゃんとした衣装作らなくちゃね」

 もう、勝手なことばかり言って。

「でもさ」と、急にマユがしみじみとした声になる。「また今度来た時にあの子たちに会えるかななんて思ったんだけど、それって、退院できなかったってことになっちゃうんだよね」

 ああ、そうか。

「うん、また会おうねって言いづらいよね」と、ミサキもうなずく。「会えない方がいいって、ちょっとつらいね」

「それにさ」と、マユが声をひそめる。「違う意味で本当に会えなくなっちゃう子もいるわけじゃん」

 ――ああ……。

 病院は死と隣り合わせだ。

 小さな子にとっても、それは目の前にある現実なのだ。

「ほら、看護科の授業でもさ、死に対する気持ちの受け止め方とか、いちおう習うじゃん。だけど、頭で理解していることと現実は違うよね」

 また会いたいと思う気持ちと、早く退院してほしいと願う矛盾した気持ち。

 そして、いなくなってしまう子への思い。

 まだまだいろいろ経験していかなければならないことがたくさんあるんだな。

 今はまだ見習いだけど、一人前の看護師になれる日は来るんだろうか。

 うーん、まだ自信はないかな。

 なんだか、先に魔法使いになれそうな気がしちゃうし。

「がんばろうね」と、マユが私とミサキの肩をつかむ。「脱落しそうになったら、愚痴聞いてあげるからさ。チホはまず包帯の練習ね」

「お、優しいねえ」と、ミサキが笑う。「頼れるアニキみたいじゃん」

「いや、うちの兄貴はもっと頼りがいがあるから」

 私の包帯、マユのブラコン。

 いつの間にか、すっかり持ちネタになってるみたいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る