(2-2)
◇
駅のホームに電車が入ってくる。
ホームの内側に下がって待っていた私の頬をなまぬるい風がからかうようになでていく。
さっきまで激しく降っていた雨がぱたりとやんでいた。
湿気に混じって舞い上げられた機械油の焦げた匂いが立ちこめる。
ドアが開いて中から一人、スーツ姿の男性が降りてきた。
入れ替わりに乗り込むと、席はかなり空いていた。
私は座らずに、あえて反対側のドアわきに立つ。
そこが私の定位置だ。
座るとすぐに眠ってしまう。
ほんの二駅だから寝過ごすと困るし、勉強も進まない。
だからいつも私は立ったままでいる。
この電車は、特急列車の通過待ちで三分間停車する。
さっそく私は手に持っていた英単語帳を開いて続きを読み始めた。
通学電車で勉強なんかできないという人もいるだろうけど、私はこういう細切れの時間の方が集中できる。
英単語なんかは、むしろ毎日少しずつコツコツやる方が結果として頭の中に残りやすいと思う。
それに、集中していれば、周りの目が気にならない。
自意識過剰?
そんなんじゃない。
地味な眼鏡女子のことなんか誰も気にかけてないってことは分かってる。
だけど、無関心でいてくれればいいのに、無意識の悪意は容赦なく私を突き刺す。
どうせ良く思われないなら、誰からも見られたくないのに。
『地味だよな、アイツ』
『勉強なんかしたって無駄なのにな』
『え、アイツ、無理無理、論外、勘弁してよ』
――分かってる。
かわいくないし、要領も悪い。
人と合わせることができないし、好き嫌いがはっきりしてるくせに、それを主張することもできない。
協調性というものが皆無だ。
相手の何気ない言葉ですら、毒薬を拒むように抵抗するから、すぐにドン引きされる。
だったら――だからこそ、かまわないでほしい。
ふと、電車の窓にうっすらと映る自分と目が合う。
その瞬間、風圧でドアを殴りつけるように揺らしながら特急列車が通過して、自分の顔が震えて歪む。
物心ついた頃から、鏡の中の自分以外の誰とも目を合わせたことがない。
私は結界を張る呪文を唱えるように、英単語のリストを目でたどっていった。
「電車遅れまして申し訳ございません。お待たせいたしました。各駅停車まもなく発車いたします。ご利用のお客様はご乗車ください」
ふうん、遅れてたんだ。
地元の駅についてからのバス接続は多少の余裕がある。
数分程度なら大丈夫だろう。
バスは三十分に一本だけど、乗れなかったら、次のバスまでその分覚える英単語を増やせばいいだけだ。
ドアが閉まる寸前、誰かが飛び込んできた。
私は英単語帳から目を離さずに、発車を待った。
「やあ」
――え?
顔を上げると同時に、ドアが閉まった。
目の前で、同じ学校の制服を着た男子が私をまっすぐに見つめていた。
梅雨時でもサラサラヘアの清潔男子だ。
――誰?
誰で、誰に話しかけてるの?
私……なの?
そんなはずはないと、思わずまわりを見回してみても、学生は私しかいなかった。
臙脂色のネクタイは一年生の学年色で私のリボンタイと同じだ。
でも、今まで学校でも通学途中にも見たことがない生徒だった。
電車が動き出す。
ゴトリとした揺れに合わせるかのように彼が顔を近づけてくる。
どういうことなの?
同じ高校とはいえ、知り合いでもないし、なんで私に話しかけてくるの?
全身の血の巡りが逆流したかのようなめまいを感じる。
私は思わず手すりをぎゅっと握りしめた。
「どうしたの?」と、いたずらっ子のような笑顔が私の視界をふさぐ。「他に誰もいないだろ」
私より頭一つ分くらい背が高いから、ちょっと背中を丸めて私の顔をのぞき込むようにしている。
「そんなにキョロキョロ目をそらそうとしなくたっていいじゃんか。ルーレットじゃないんだから」
私はいつもそうだ。
人と視線を合わせられない。
なのに、彼の深みのある澄んだ瞳が罠のように私の視線を引き込もうとする。
あまりにも近すぎて、視線をさけようとしても逃げ場がない。
「しゃべってるだけで、そんなに目が回っちゃったら、乗り物酔いしちゃうんじゃないの?」
全くその通りだ。
英単語帳に逃げようとしても、文字が揺れて気持ちが悪くなる。
「ボクを見てよ」と、彼がドアに手をつく。
か、壁ドン?
……ていうか、ドアドン?
「ドアに手をついてはいけないんですよ」
なんとか絞り出した声が震えていて情けない。
「どうして?」と、彼がまっすぐに私を見つめている。
「安全上の理由です。走行中にドアが開いたり、戸袋に手を引き込まれる恐れがあります」
「じゃあ、キミもドアにもたれかかってはいけないね」
「それは……」
そっちが迫ってくるからじゃないのよ。
汚れた窓にうっすらと困惑顔の自分が映っている。
いっそのこと、窓の向こう側へ行ってしまえたらいいのに。
こちら側にとどまるしかない自分がもどかしい。
「じゃあ、これならいいだろ」
彼が横に回り込んで、ロングシートのわきに二人並んで立つ。
圧の強い視線から解放されて、私はようやく息を整えることができた。
「おしゃべりは嫌い?」
私はしっかりとうなずいた。
それは男子だからというわけではなく、全般的に人と話すことが苦手だ。
だから話しかけられないために常に英単語の本を持ち歩いているし、歩いている時以外は、それを開いて勉強しているふりをしている。
小説を持ち歩いていることもあったけど、恋愛小説だと、モテないくせに恋愛に興味があるのかと思われるのが嫌だったし、難しい小説だと格好付けてると言われそうでどっちにしろ落ち着かないし、話しかけられないことに意識を向けているせいで、そもそも読んでもいないから、本の内容は全然頭に入ってこなかった。
だから、今は英単語の本にしているのだ。
英語学習なら学生にふさわしいから、あまり自意識過剰にならなくて済む。
そういう自分をめんどくさいと思うけど、どうにもならない。
いちおう落とし所を見つけられただけでも褒めて欲しいくらいだ。
そんな私は校内だけでなく、信号待ちの交差点ですら、気を抜くことはない。
つねに壁を作って他人を拒む。
私のバリアに穴などないはずだった。
――これまでは。
なのに彼は空から舞い降りたようにそんな壁を簡単に乗り越えてくるのだ。
「少しは慣れた?」
何に?
「人と話すこと」
「ますます嫌いになりました」
明らかにきつい口調で拒絶の意味を込めたのに、彼はひるまない。
「でも、ボクはキミとおしゃべりがしたいんだ」
なんで?
どういうこと?
そもそも知らない人と、こんな状態でいることすらおかしいのに、なんで親しげに話しかけてくるの?
こんな時に限って、まわりの乗客は無関心を装っている――というより、本当に関心がないんだろう。
同じ学校の制服を着ているから、高校生がいちゃついているくらいにしか思われていないらしい。
「からかって楽しいですか?」
うん、と彼はうなずいた。
ためらいもなく、まっすぐに、そして、優しく微笑みながら。
ずるいくらいにイケメンのオーラを放って私を取り囲もうとしている相手に対して、なんとか言葉を絞り出してぶつける。
「私は嫌です」
ふだんなら言えないのに、言えた。
「やめないよ」と、彼はようやく肩をすくめるように背筋を伸ばして私から少しだけ間合いを取った。「でも、いつかは終わるだろうね。やまない雨がないように」
電車がカーブにさしかかって、彼が空を指す。
「ほらね、やんだ」
確かに重たかった雲も淡い色になっている。
――ん?
あれ?
そういえば、電車に乗る前からとっくにやんでたじゃないのよ。
危ない。
なんかだまされそうだった。
「そうだね。ボクが何かしたわけじゃない」
彼はまるで私の思考を読み取ったかのように会話を進めていく。
それはちょっとした表情の変化を観察しているからなのだろうか。
私はみんなに表情が硬いと言われる。
それなのに、そんな強固なバリアを突き破って心に直接触れてくるような会話をされると、居心地の悪さが破裂しそうなほど膨らんで息苦しくなる。
彼はそんな攻防を楽しんでいるかのように、私に向けた微笑みを崩さない。
こういう人は苦手だ。
こちらが嫌がれば嫌がるほど、ねえ、どうして、いいでしょと遠慮なく迫ってくる。
そして、そういう人は、質問の内容にも遠慮がない。
「どうしてそんなに他人を嫌うの?」
ほら、やっぱり。
でも、それは間違いだ。
「他人を嫌っているんじゃなくて、あなたみたいな人が苦手なだけ」
「そんなことないでしょ。自分で好き嫌いが激しいって認めてるじゃん」
反論できないのが悔しい。
たぶん今、私、相当きつい目をしてるんだろうな。
「キミは勘違いをしているんだよ」
あなたほどじゃないですけどね。
彼は静かに微笑んでいる。
――こういう皮肉は伝わらないらしい。
声に出して言ってないからだけど。
電車が減速を始めた。
踏切の音が聞こえる。
「キミは人が嫌いなんじゃない」と、彼がドアの方を向いた。「人を好きになるのをめんどくさがっているだけだよ」
どういうこと?
「その証拠に……」
畑に囲まれた小さな駅に電車が停止した。
ドアが開くと彼はホームへ踏み出し、かかとをコンパスのようにして軽やかにターンした。
サラサラの髪が傘のように広がる。
「キミはボクを好きになる」
はあ?
どこの誰かも知らないあなたに言われても困るんですけど。
それどころか、ようやく解放されて安心したくらいだし。
私はドアが閉まる前に深くため息をついて英単語帳に目を落とした。
「ボクの占いは良く当たるんだ」と、彼が外から私に声をかけてくる。
はあ、そうですか。
「疑ってる?」
ええ、もちろん。
なかなかドアが閉まらない。
ただでさえ遅れているんだから、早く出発すればいいのに。
「正解」と、彼が人差し指を振る。「ボクは占い師じゃない」
でしょうね。
「実はね、魔法使いなんだ」と、彼は咳き込むような勢いで言った。「ボクはキミに魔法をかける。だからボクの言ったことは必ず実現するよ」
彼が言い切ると同時に、ようやく電車のドアが閉まった。
ドアの向こうで彼が小さく手を振っている。
私もつい、同じように振り返してしまった。
――魔法使いね。
占い師の方がまだ信じられたかも。
だって、トランプ占いくらいなら、私でもできるし。
電車が動き出すと、彼もくるりと背を向けて交通カードを無人の改札機にタッチして去っていった。
私は窓に流れていくその様子が見えなくなるまで目で追っていた。
たった一駅三分間。
なんだかとても長く感じた三分間だった。
あの人はいったい何だったんだろう。
そういえば、男の子はカノジョがいないといつからか魔法使いになれるんだっけ。
でも、あの人はそっち系じゃないよね。
私みたいなコミュ障どころかリア充ぽかったし。
電車はカーブを抜けて加速していく。
窓の外で、灰色の雲の切れ間がファスナーを開けるように一直線に広がっていく。
真っ白なレースのカーテンみたいな光が空から舞い降りてきて、進行方向が輝き始める。
その光は軽やかなメロディを奏でるピアノの鍵盤となってグラデーションを変えていく。
気がつくと私はそのリズムに乗って鼻歌を歌っていた。
他の乗客に気づかれていないか、チラリと視線を回してから、私は英単語帳に目を戻した。
なぜかさっきの男子の顔が思い浮かんで思わず顔が熱くなる。
ページに光が差してまぶしい。
――もう、邪魔しないでよ。
降りたくせに、まだ私の心を揺さぶろうとするなんて。
そっか、そういうことか。
魔法ってそういうことなのかな。
あきらめて私は単語帳を閉じた。
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