(1-3)
◇
今日は帰りのホームルームがほんのちょっとだけ長くて、校門を出たのがいつもの時間より遅れていたから半ばあきらめかけていた。
でも、駅前のロータリーまで来たところで、ちょうど電車がホームに入ってきたところだったから、思わず心の中で拳を振り上げた。
間に合うのかって?
各駅停車はこの駅で特急列車の通過待ちをするから、三分間停車する。
だからこのタイミングなら、まだ間に合うのだ。
こういう偶然の巡り合わせがオレは好きだ。
もちろん、調子に乗って口笛なんか吹いたりしない。
オレはただ淡々と階段を上がって橋上駅舎の改札口を通過し、下り線のホームを一段一段しっかりと踏みしめながら下りていった。
ホームに出たところでちょうど特急列車が通過していった。
何もかもがいいタイミングだ。
まるで指揮者のオレがこの世のすべてを操っているかのようだ。
「電車遅れまして申し訳ございません。お待たせいたしました。各駅停車まもなく発車いたします。ご利用のお客様はご乗車ください」
どうやら、ダイヤが乱れていたらしい。
他の乗客には迷惑だったかもしれないが、オレにしてみればラッキーだ。
アナウンスを聞きながら乗り込んだところで、ちょうど背中でドアが閉まった。
ドア横の手すりにつかまったところで、ゴトリ、と電車が動き出す。
どこまで完璧なんだ。
と、思ったのがいけなかったんだろうか。
一息ついたその時だった。
「あれ? 雨降ってた?」
――え?
向かい側のドア脇にうちの高校の制服を着た女子が立っていた。
背中に回した肩掛け鞄、臙脂色のリボンタイ。
オレと同じ一年生だ。
肩までのふわっとした栗色の髪の毛先をいじりながら、瞳の大きな目でこちらを見ている。
ほんの一瞬目が合っただけなのに、心臓が二倍速で高鳴り、冷房が効いているのに汗が噴き出す。
とっさにオレは車内の知り合いを探そうとしていただけなんだと強調するように視線をそらした。
――ボッチなのはバレバレだろうに。
急に声がしたから反射的にそっちを向いてしまっただけで、もちろん話しかけられたなんて思っていたわけじゃない。
同学年とはいえ同級生でもないし、こんな分かりやすい美人なのに、うちの学校にいたかどうかすら分からない。
それに、どうも奇妙だった。
夕方のこの時間、ドア周辺の席に座っているのは年寄りばかりだし、立っているのもオレだけなのだ。
他に高校生は誰もいない。
どう考えても彼女は一人だ。
じゃあ、いったい誰に話しかけたんだ?
もちろんオレじゃない。
非モテボッチ陰キャ男子のオレに、こんなゆるふわモテ女子の知り合いがいるはずがない。
ラノベのタイトルみたいなことをつぶやきながら、周囲の様子をもう一度確かめた。
――いない。
どう見ても他に誰もいない。
もしかしたら、まるでオレが彼女に近づきたくてわざとこの扉から乗ってきたみたいに思われてるんじゃないだろうか。
いや、待ってくれ。
オレはいつも階段から三つ目のこのドアから乗ることにしているんだ。
オレが降りる駅ではここがちょうど改札口の前で、最短距離なんだ。
だからオレは悪くない。
でも、これじゃあ、キモいストーカーみたいに思われてしまう。
まあ、いい。
次の駅でオレは降りる。
たった一駅、三分間の我慢だ。
扉が開いたらダッシュで逃げればいい。
カン、カン、カン……、ンゴン、ゴン、ゴン。
通過した踏切の警報音がドップラー効果で音を変えて流れていく。
――まるで世界が切り替わるように。
「ねえ」
また声がする。
オレじゃないことは間違いないのに、オレ以外に学生はいない。
これじゃホラーじゃないかよ。
オレは手すりに縛りつけられたかのように、身動きがとれなかった。
「ねえってば」
明らかに、返事をしない相手に焦れている呼びかけだ。
誰だよ。
いったい誰を相手に話しかけてるんだよ。
知り合いがいるなら、早く答えてやれよ。
そいつはちょっと離れた席でスマホでも見てるのか。
だが、やはり誰も返事をしない。
いったい何が起きているんだ。
ドアの前で進行方向に向かって立ったオレに、彼女が一歩、また一歩と近づいてくる。
なんで近づいてきた?
オレの隣に誰かいるのか?
いや、いない。
オレは追い詰められていた。
ちらっと視線を横に向けると、もうすぐそばに彼女が立っていた。
高校生男子の平均的な身長にやっと届くオレより少し低いくらいの目線で、まっすぐにオレを見つめている。
なんかいい匂いまでしてきて、思わず深く息を吸い込んでしまいそうになる。
――ち、違うんだ。
今のナシ。
あくまでも思春期男子の無意識的反応であって、ヘンタイじゃねえから。
オレは口を固く閉じ、息をピタリと止めた。
そんなことをしても何の意味もないことは分かっているけど、無実を証明するためなら何でもするぞ。
電車はもうすでに半分くらいの区間まで来ている。
あと少しで逃げ切れると、ほっと一息つこうとしたときだった。
「ねえってば、雨降ってた?」
――はあ?
彼女は間違いなくオレに話しかけていた。
なんで話しかけてくるんだよ。
ゆるふわモテ女子と非モテボッチ男子に接点なんかないだろうに。
意味が分からない。
知り合いでもないし、こんなにもオレが必死に空気になろうとしているのに。
いったいさっきから何が起きているんだ?
「誰と話してるんだって顔してるけど、他に誰もいないに決まってるじゃん」
え、やっぱりオレ?
でも、だから、どうしてオレなんかに話しかけるんだ?
「同じ学校なんだし、べつにいいじゃん」
考えていることが筒抜けらしい。
「アハハ、見抜かれて焦ってるって顔してるよ」
いや、だから、どうして分かる?
「あたしね」と、彼女が一歩踏み込んできた。「魔法使いなんだ」
ほえ?
思わず変な声が漏れてしまった。
いや、だけど、しょうがないだろ。
こんな美人に変なことを言われて冷静に対応できるような余裕なんてあるわけがない。
からかってる……んだよな?
「あたしね、カードを引くと、いつもハートのエースなんだよ」
それって、魔法って言えるのか?
むしろ、呪いじゃないか。
「それじゃあ、トランプで遊べないじゃん。たいして便利でもないし」
言ってから後悔した。
すげえ、つまんねえセリフだ。
ただ、これでも非モテ男子の精一杯なんで勘弁してください。
でも、彼女はべつに不愉快そうな表情にもならず、むしろオレに微笑みを向けた。
「疑ってる?」
オレは首を振った。
――ウソだ。
話の内容どころか、彼女と話しているこの瞬間の現実すらオレは疑っていた。
「トランプ持ってない?」
「学校に持ってくるやついないだろ」
「あー、あれか。なんでもスマホアプリでやっちゃう派?」
そういうわけじゃなくて。
「信じてないでしょ」
そりゃ、まあ、そうでしょ。
嘘をついてるとは言いたくはないけど、素直に信じられる話ではない。
「そっちはさ、魔法使えないの?」
んなわけあるかよ。
もしかして、あれか、カノジョいない歴が長いと魔法が使えるようになるっていうネットによくある都市伝説。
「あ、ごめん、あたしそっち系の分野、あんまり詳しくないんだよね」
そっち系男子に認定されてしまった。
まあ、間違ってはいないからいいけど。
――ていうか、さっきからなんで考えてることが筒抜けなんだ?
「キミね」と、カーブにさしかかった電車の揺れに合わせるように彼女が顔を近づけてくる。「魔法使いにはなれないよ」
――どうして?
と、聞くべきだろうか。
「だろうね。それが当たり前というか、現実は元々そうだし」
つまらない受け答えかもしれないけど、オレは常識的な見解を述べたつもりだった。
「そうじゃなくて」
彼女はじれったそうに口をとがらせる。
「じゃあ、何?」
「キミにカノジョができるからだよ」
じっと見つめられて、オレは慌てて車窓に流れていく景色に視線をそらした。
いつの間にか重たそうな雲が消えて青空が広がっている。
新興住宅地を離れると、一気に田園風景になる。
田んぼの中を線路と併走する県道沿いにコンビニやホームセンターが並んでいるような日本中どこでも見かけるような田舎の風景だ。
――カノジョができる?
たしかに、こんなオレでも、何かの間違いでカノジョの一人くらいできることだって、ないわけじゃないだろう。
確率がゼロってわけじゃない。
――限りなく近いだろうけど。
未来の予言というほどの大げさなものではない。
当てずっぽうでもそんなにハズレはしない……んじゃないかな……ハズレないといいけど。
ていうか、これ、魔法じゃなくて、占いじゃん。
「少しは慣れた?」
え?
「女子とおしゃべりするの」
あ……、ああ、そういえば。
「でさ、雨降ってたの?」
そういえば、さっきから聞かれてたっけ。
また電車がカーブにさしかかって、窓から明るい光が差し込んできていた。
もうたずねるまでもなく雨なんかずいぶん前からやんでいたじゃないか。
「いや、べつに降ってないけど。なんで?」
「頭びっしょびしょだからさ」
しまった。
油断していた。
というよりも、こんなことになるなんて考えてもいなかったからなんだが、気づいた途端、顔面に汗の滴が垂れ始めた。
オレは滝のような汗をかく体質で、中学の時についたあだ名が『ゲリラ豪雨』なのだ。
あだ名禁止の学校が増えているなんて世間では言うけれど、禁止したところでみんなにそう思われている事実が消えるわけではない。
実際自分でもそのまんまだと思うし、男子連中に、「おい、ゲリラ」なんて呼ばれると、心の中ではちょっとかっこいい呼び名だなんて思っていたくらいだ。
――どこまでもそっち系男子なんだな、オレは。
「ふきなよ」と、いきなりオレの視界が遮られた。
一瞬何が起きたのか分からなかったけど、彼女がタオルを頭にかけてくれたのだ。
いい匂いがして思わず深く吸い込む。
結局、堂々とヘンタイみたいなことをしてしまった。
頭に血が上って一段と汗が噴き出す。
何やってんだよ、オレは。
女子のタオルがオレの汗でぐっしょり濡れてしまった。
このふんわりタオル、どうやって弁償したら良いんだろうか。
洗って返すったって、知り合いじゃないし。
「いいじゃん。べつに気にしなくて」
またオレの心の中を読まれてしまった。
「いい匂いだって思ってくれたんだし」
いやいや、なんで分かる?
魔法使いだからなのか?
また顔が熱くなってしまって、おさまるどころか汗が止まらない。
ゲリラ豪雨の大災害だ。
もう、遠慮とかそんなのどうでも良くてオレはゴシゴシと汗を拭いた。
あんなにいい匂いがしたタオルが雑巾みたいになってしまった。
「髪の毛、ペッタリ渦巻いてるよ。お笑い芸人みたい」
彼女がオレの額に手を出してくる。
思いっきりのけぞると、おもしろがってよけいに調子に乗って迫ってくる。
「じ、自分でやるから」
オレはうっすらと窓に映る自分の姿から目を背けて手櫛でかきわけた。
どうせちゃんと整えたところで、イケメンになるわけでもない。
校内カーストど底辺のそっち系男子なんだ。
そんな俺の慌てた様子を眺めて彼女がふふっと笑う。
見てはいけないと思うのに、見たらますます焦ってしまうと分かっているのに、オレの目はその頬の丸みに引き寄せられていた。
「カーストとか、ヒエラルキーとか、どうでもいいじゃん。みんな世界史の時間寝てるくせに、そういう言葉を使いたがるよね」
「自分は居眠りしないみたいな言い方だね」
「まあ、しちゃう時もあるけど」
「じゃあ、その間は他の人が寝てるかどうか分からないじゃん。みんな真面目に授業受けてるかもしれないだろ」
「鋭いね」と、彼女の目が一段と開く。「ホームズじゃん」
――いや、そこまでじゃないから。
「じゃあ、あたし、ワトソンね」
なんでよ?
「あ、もしかして、こだわりのワトスン派?」
どっちでもねえから。
そもそも、シャーロック・ホームズの本なんて読んだことないし。
と、踏切の音が聞こえてきた。
カン、カン、カン……、ンゴン、ゴン、ゴン。
ドップラー効果で音が切り替わる。
遮断機のない、歩行者用踏切だ。
電車がようやくオレの地元駅に滑り込む。
短いホームに改札口の小屋があるだけの無人駅だ。
正直ほっとしていると、彼女が一歩間合いを詰めてきて、思わずのけぞってしまったけど、オレの手からタオルを取り戻しただけだった。
――あ、ありがとう。
言ったつもりが焦りで喉が詰まって声にならない。
電車が止まる直前、慣性の法則通り少し揺れ戻しがあって、彼女がオレの胸ポケットをつついた。
入れてあった交通カードから硬質な感触が伝わる。
「ねえ、気がついた?」
「何が?」と、オレはちゃんと声に出して聞き返した。
「たった一駅なのに、ずいぶんいろんな話をしたでしょ」
あ!
そう言われてみたらそうだ。
「キミは知らないうちに魔法にかかっていたんだよ。時間が止まる魔法」
魔法?
これが?
「電車は動いていただろ。なのに時間だけ止まってるってへんだよ」
「えへへ、バレた?」
なんだよ、冗談かよ。
屈託のない女子の笑顔を真っ正面から見たのは初めてだった。
なんだか正体不明の変わった女子だ。
魔法とか、不思議ちゃんてやつか。
そっち系男子のオレだけに見える存在だったりしてな。
彼女は軽く首をかしげながらささやいた。
「でも、いろんな話をしたのは本当でしょ」
「うん、そうだね」
ドアが開く。
本当か嘘か分からないまま、オレは電車を降りた。
ホームの上で振り向くと、すぐにドアが閉まる。
畑に囲まれた田舎の駅に立っているのはオレだけだ。
そのまま他人のフリで逃げても良かったけど、なんとなく立ち止まって彼女を見送った。
動き出した電車のドアの向こうで彼女がオレに手を振っている。
ついとっさにオレも手を振り返した。
ば、馬鹿じゃないのか。
カレシ気取りかよ。
せっかく拭いたばかりなのにまた汗が噴き出してきた。
電車が去って静かになったホームには、遠くのセミの鳴き声だけが、誰かの忘れ物のように取り残されていた。
オレは夢を見ていたんだろうか。
いったい、なんだったんだろう。
学校では見かけたことがない女子だ。
名前も知らないし、聞かなかったし、聞けなかった。
――また、会えるのかな?
気を取り直して、無人の改札口を通り抜けようと、胸ポケットからカードを取り出し、機械にタッチしたら、なぜか反応しない。
――ん?
故障か?
よく見たら、それはハートのエースだった。
あれ?
いつの間に?
さっき、彼女が胸ポケットをつついたのは……。
なるほど、そういうことか。
なんだよ、手品じゃんか。
魔法じゃないじゃん。
うまくだまされたけどさ。
ただ、どうやら彼女との出会いは夢ではなかったことになる。
手のひらにある重みのないトランプの存在感がそれを証明していた。
オレは改めて交通カードを取り出して駅を出た。
――えへへ、バレちゃった?
なんとなく笑顔で呼ばれたような気がして空を見上げる。
と、オレは思わず声を上げてしまった。
うわっ!
地面から垂直な角度でまっすぐな虹が天に向かってのびていたのだ。
それはまるで俺の頭上を越えて世界をくっきりと半分に切り分けているかのようだった。
――なんだよ。
こっちの方が魔法みたいじゃんか。
気がつくとオレの頬はゆるんでいた。
それもまた魔法なのかもしれない。
先週から駐輪場に置きっぱなしだった自転車のサドルも乾いている。
オレは勢いよくスタンドを蹴って自転車にまたがった。
虹に向かってこぎ出すなんて、生まれて初めてのことだった。
これが本当の魔法なのかもしれない。
きっとそうに違いない。
オレは彼女の魔法にかかってるんだ。
それは決して悪い気分ではなかった。
――また会えるのかな。
気がつくとオレは口笛を吹いていた。
なんだよ、らしくもないことしちゃってさ。
だけど、ペダルを踏む足取りは空に浮かんでいるかのように軽やかだった。
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