二十七話 黒と赤(8)
永禄三年(1560年)
5月19日。
西暦だと6月12日なので、晴れの日でも天気の急変があり得る時期だと留意して読み進めて欲しい。
前日の夜まで、清洲城では軍議が重ねられていた。
軍議といっても、
「今川の隙を見て、本陣に総攻撃を仕掛けます」
なんて大博打の事は全く言わずに、
「籠城だね」
「籠城しよう」
「籠城しかないね」
「籠城している間に、今川がプレデターに襲われる事を期待しよう」
とっても消極的な軍議で、信長が死んだ魚の目をして雑談しながら時間を潰した挙句、寝るからお開きになった。
5月19日の明け方前に、待ち望んだ情報が、清洲城に届けられる。
「大高城を囲む丸根砦と鷲津砦に、今川の軍事が攻撃を開始しました」
信長が飛び起き、小姓に飯と戦支度を指示すると、『敦盛』を舞って時間を潰す。
用意が整い、馬廻も集まり始めた頃に、第二報が届く。
「丸根砦には松平
その情報の意味に、信長が目を剥いて近くにいた
金森
「一時、離れているだけです。まだ、浮かれてはいけません」
今川からの釣り餌ではないかと、可近は危ぶむ。
先代が似たような状況で踊らされ、太原雪斎に奇襲をかけるはずが、包囲殲滅を喰らった事を忘れていない。
「うちで例えるなら、攻めの三左(森
信長は聞くには聞いたが、構わずに出た。
小姓を五人だけ連れて、先に出陣した。
その中に、小姓なので付いて行くしかなくなった佐脇良之もいた。
「金森さん、早く追い付いてくださいね〜〜」
「早く行け!」
可近は後続全員に、行き先は熱田神宮であると周知させながら、この都合の良過ぎる情報の信憑性を考える。
(何故、朝比奈泰朝が、鷲津砦に? 丸根砦と一緒に、三河勢に任せればいいのに)
(三河勢を、信用していない?)
(
松平元康。
かつて竹千代として面倒を見た子供は、三河勢を束ねる将として、今川の軍勢に加わっている。
既に先日、包囲されて飢えに苦しむ大高城に、兵糧を運び込むという難しいミッションを成し遂げたばかり。
普通なら付近の複数の砦から出てくる軍勢に阻止されて、満足な兵糧を運べないか、少なくない犠牲を出しただろう。
松平元康は率いる手勢に、兵糧を運び込む事だけに専念させ、織田の軍勢が到達するよりも早く大高城に移動し終えた。
自軍と敵軍の速度を読み切り、無傷で敵中を突破して、兵糧を無駄なく目的地に運び込んだ。
まだ十七歳で、この采配が揮えるのであれば、飼うつもりの方が畏怖し始めるだろう。
(
最も警戒していた朝比奈泰朝が、今川義元の側から、離れている。
計画したよりも遥かに都合良い状況が、もたらされている。
今現在、今川義元の本陣には、三千の兵しかいない。
八時。
熱田神宮に、織田の全将兵が集結し終える。
信長はじっと、南の空を見詰めている。
約10㎞先の、丸根砦と鷲津砦が燃えているであろう黒煙を、見詰めている。
これから起きる「桶狭間の戦い」で信長を褒めるなら、この段階でまだ情報を待った事だ。
今川義元が進路の安全を確認して、前夜に泊まっていた城を出発し、大高城に向かったという情報を。
その情報から、道中で大軍が陣地を整えて小休止可能な、桶狭間に腰を下ろす時刻が確定出来る。
そのタイミングを逃せば、今川義元は引き返すか、先に進んで朝比奈泰朝と合流してしまう。
つまり可能なら、今川義元が腰を落ち着けている、ランチタム直後を奇襲したいのである!
黒煙を見詰めて待っているのは、鷲津砦が確実に落ちたという、情報だ。
砦が炎上しても、その後で織田の軍勢がどのくらい粘ったかで、話が違ってくる。
午後まで抵抗が長引けば、今川義元は出発をもっと遅くする。
落ちたのがこの時点であるならば、信長も熱田を出発して、丁度いい。
せっかちで名高い信長が、ジリジリと待つ中。
鷲津砦から落ちてきた兵が、熱田神宮に辿り着き始める。
その中から、確報を持つ者が、来た。
「茂助!」
敗走して畏まっている
「籠城した鷲津砦は燃え落ち、父は討ち死に。丸根砦の将兵は、外に出て一戦した後、敗走しました」
信長の妹婿は、信長の最も欲しかった情報を、夜明け前から戦い通しの身体で伝えた。
大高城の周辺を完全に制圧した以上、今川義元は予想通りに、出発する。
はずだ。
たぶん。
そうなってくれるんじゃないかな〜。
「よし、総出じゃ! 茂助(
上機嫌で全軍に出発を告げる信長に、
「一緒に行きます」
信長は説得する手間を惜しんで進撃し、
「休んでいていいじゃないですか、喪中ですよ、喪中。ほら、全身血だらけだし」
「返り血だよ」
可近の馬に寄り掛かって歩きながら、
可近は自分の握り飯弁当を渡すと、引き換えに乾飯を貰う。
「これ、愛妻弁当と違うか?」
「そんな暇はなかったよ。熱田神宮で買った」
そう聞いて気兼ねなく握り飯を食べながら、
「…てっきり、熱田で迎撃戦だと思って、逃げてきたのに」
「殿が受け身に回る訳が、ないじゃないか」
「えらい義兄を持ってしまった」
「承知の上で結婚したとばかり」
「ところで、今ところ、勝ち目は何%?」
「意外な事に、100%」
「…本当に?」
「本当に」
ここまで呆れる程に計画通りなので、可近は薄気味悪さすら感じてしまう。
呆れた事に、もっと上手くいく要因が、積み重なる。
正午過ぎ。
歩みを進める織田二千に、更なる都合の良い情報が入る。
中嶋砦(熱田神宮の南の砦)に詰めていた将兵三十名が、信長の出陣に大興奮してしまい、なんと先走って桶狭間付近まで進撃。
今川の本陣と遭遇して反撃され、ほとんどが討ち取られた。
生き残りが信長の軍に合流して、桶狭間山に今川の本隊が陣を敷いてライチタイムに入っていたと、ナイスな情報を持ち込む。
獲物が計画通りに桶狭間に存在しているので、信長のテンションが更に上がる。
「いいか、目標は、義元の首だけじゃ。他の首は褒賞に数えぬ! 義元だけを狙え!」
諸兵がブーイングしそうになるが、今回は格上相手への一発逆転が目的なので、控える。
「…熱田で休んだ方が、よかったかも」
可近の馬に乗せてもらいながら、飯尾尚清が今更後悔する。
「中嶋砦の連中が仕掛けたから、もう奇襲にならないじゃないか。守りを固めた桶狭間山の陣地に、駆け上がる戦か」
その日二度目の戦闘としては、ハードに過ぎる。
「いえ、奇襲に、なるかも」
可近が、空模様を、指差す。
飯尾尚清は、疲労する頭で、この季節に少なくはない、急激な入道雲の成長と接近を見上げる。
丁度、今の織田勢二千が進んでいる一帯が、雷雨に見舞われそうである。
このまま進むと、桶狭間に到着する頃に、雷雨が止む。
桶狭間山の今川勢は、織田勢二千が突如として出現し、奇襲してきたように感じるだろう。
今川勢は、まともな防御体制を取れずに、崩壊するかもしれない。
「…ここまで幸運に恵まれるような、人生だったかな?」
飯尾尚清も、薄気味悪くなった。
「そうでもないよ。義元を討ったら、速攻で清洲まで逃げないと」
金森可近は、この日の大幸運フィーバーに慣れたのか、その先を見据える。
「何せ二万の軍勢に踏み込まれている最中だからね。勝った後の事を、失念していた(本当に勝つとは思っていなかったし)。今から考えておく」
「うん、任せる」
飯尾尚清は、もう運に任せて寝てしまおうかとも思ったが、大粒の雹が降り出したので寝そびれた。
豪雨が、織田の軍勢を包み隠す。
信長は、大喜びで進軍する。
この異常な天才は勿論、この幸運を逃さない。
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