三話 竹ちゃんの、子守(3)

 夕刻前に加藤屋敷(熱田羽城)に戻ると、酒井忠次(二十歳)が可近ありちかに呆れてみせる。

「てっきり、お福と朝帰りすると踏んでいたのに。夕食の支度が、二人分足りぬ」

「握り飯の弁当を二人分、買ってあります」

 頼まれた酒を渡しつつ、可近ありちかは福を馬から降ろす為に、抱き抱える。

 お福が素直に身を任せているので、酒井忠次(二十歳)は目を細める。

「寿退社は、三河から代わりの侍女が派遣されるまで、待って欲しいな」

「そこまで話は進んでいません」

「保留です。保留」

「早速だが、今夜、旦那さんを借りるぞ、お福」

「どうぞ、どうぞ…旦那と呼ばないで」

「意外ですね、自分に飲ませるつもりの酒でしたか」

「腹を割って話しておきたい。早めにな」


 夕食を済ませた後に、可近ありちかと酒井忠次(二十歳)は、屋敷の応接間を酒席に用いた。

 可近ありちかが屋敷の厨房から分けて貰った肴を三品並べ、漆器塗りの箸と朱塗りの酒盃二つを揃えて出す。

 酒の入った瓢箪も、一つ増えている。

「さあ、どうぞ」

 可近ありちかが先に酌をして、酒井忠次(二十歳)の酒盃を満たす。

「気配りで尾張の虎(織田信秀)側近に採用されたというのは、本当だな。噂話だけでは、実感が湧かなかった」

 その一連の動作を気に入ってしまい、酒井忠次は飲む前から口を滑らせる。

「で、自分の客観的な風評は、どんな具合でしょうか? こういう機会に、是非知っておきたい」

「お前さんは平気だろうよ。偏差値の高い、良い奴だからな。金森可近ありちかを悪く言う者がいるとしたら、それは悪口を言う悪癖を持つ者だけだ」

「そこまで評判が良いと、逆に胡散臭いです」

「普通はな」

 酒井忠次は、一杯目の酒盃をペロリと飲み干し、可近ありちかが二杯目の酌をする。

 酒井忠次の方からは、まだ可近へ酌をしない。

「何をしても胡散臭さがしないというのは、それはそれで恐ろしい奴だよ。お主はきっと、裏切る時も寝首を掻く時も、誰にも悟らせずに、上手く実行できる」

「…褒め過ぎです」

「適量だ。いや、足りんな」

 酒井忠次は、二杯目も一息で飲み干すと、可近ありちかの手から瓢箪を奪う。

「裏切られた方は、『金森に裏切られたのであれば、仕方がない』と思うだろう。

 裏を返せば、『金森にだけは、裏切られたくない』と思う。

 そこに、気遣いが生まれる。

 お主は、一種の、妖怪のようなものだ」

「妖怪?」

「信頼の概念が、人の形で顕れたかのような、特異な存在だ」

 そこまで褒められるのは初めてなので、可近ありちかは祝杯をあげる。

 飲んでも変わらず、可近ありちかは酒井忠次の接待を優先させる。

 酒盃を重ね、可近ありちかが酔っても性分の変わらぬ人物と確かめてから、酒井忠次は本題に入る。

「三河の岡崎城から、最新情報だ」

「それ、酔っ払いながら、話していい事ですか?」

 可近ありちかの方も、酒井忠次が酒で態度を変える人物かどうか、見ている。

 可近ありちかの見た酒井忠次は、酒に呑まれない、強靭な人間。

 そういう人が持ち出す真剣な話に、可近ありちかは身構える。

 楽な仕事が面倒臭くなりそうで、身構える。

「松平の殿は、今川に与する事を、変えない事を表明した」

 竹千代は、見殺し。

 竹千代は、実の父に見捨てられた。

 最悪の場合、竹千代は織田に斬られる。

「速いですね。もっと交渉を重ねるべきでは?」

「岡崎の殿は、一貫して今川に与し、織田とは縁を切る路線だ。前妻とも離縁したし、今回は…」

「心配しなくていいですよ。織田と今川の当主が『次の三河の主人』と、竹千代様を見込んでいます。

 父親の存念なんぞ、もう何の影響も与えません。

 松平広忠ひろただは、既に両家の眼中に、入っていません。

 だから酒井殿は、岡崎を気にせずに、竹千代様を最優先に考えて行動すべきです」

 酒井忠次は、惚けたように、可近ありちかの真顔を凝視する。

 続いて、爆発するように哄笑する。

「そうか。確かに。そうだな。妻と子を切り捨てるような男は、要らんな」

「…そこまでは、言っていませんが」

「良い犯罪示唆を、ありがとう」

「変な拡大解釈は、やめてください。自分は、今川と織田のトップが、どういう視点で竹千代様を見ているかを述べただけです」

「その結果、わしも今川や織田と同じ意見を持つに至った」

「…あのう、失念していたのですが、左衛門尉さえもんのじょうさんの、酒井家での立場は…」

「酒井一門を率いて、松平家を支えて家老として活躍するか、三河を直接牛耳るか、迷う立場」

「嘘ですね」

「竹千代様が成長すれば、そうなる」


 事実この頃から、酒井忠次は竹千代の後見人としての立場を強め、後に筆頭家老の立場を固めている。


「お見逸れしました」

「わしの方こそ、お見逸れした。亡命の手伝いをお願いしようと考えていたが…逃げる必要がなくなったのは、有り難い」

「亡命の必要があるのは、松平広忠ひろただの方だと思います。警告をした方が、よろしいかと」

 金森可近ありちかは『お人好し』だが、酒井忠次は違う。

「あ、酔った。もう話が分からない」

「狡いなあ。そんなベタな言い訳で」

「美味い酒だ。ところで、何の話をしておったかな?」

「今期の覇権アニメについてです」

「そうだった。わしは『ダンジョン飯』を推す』」

「自分は『佐々木とピーちゃん』がイチオシです」

 狡くてセコい相手にも、瞬時に順応してしまう、便利な主人公だった。


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