闇に堕ちた獣は月に吠える

館野 伊斗

闇に堕ちる者

第1話 闇の者

 松本まつもと良子りょうこは、暗い路地を一人、歩いていた。

 アスファルトを叩くヒールの音が、静寂に包まれた闇空に、響く。

 人気のない路地を足早に抜け、家路を急ぐものと思われる彼女の顔には、微かないきどおりが浮かんでいた。


あつしの奴・・・・・・)

 篤とはたった今別れて来たところだ。

 発端は些末さまつな事。

 しかし、篤の煮えきらぬ態度にごうを煮やし、店を出てきた彼女であった。


 そのまま大学の寮に帰ろうと思ったのだが、納得のいかぬ良子は寮とは逆の、友人の聡子さとこの家まで、愚痴を聞いて貰おうと歩き出していた。


(今日はせっかく外泊届けまで出してきたのに・・・・・・)


 深夜23時。


 こんな夜中に聡子の住むアパートへ行くときには、いつもは少し遠回りをして大通りを歩くのだが、早く聡子のアパートへ着きたい気持ちが、彼女を裏通りへと向かわせていた。今夜は聡子を寝かせぬつもりだった。


 ふと、眼を前に戻すと、見慣れぬ神社が目に入った。


(やだ・・・・・・こんな所に神社なんてあったかしら・・・・・・)


 いつの間にか、曲がるはずの路地を見過ごしていたようだ。

 良子は道に迷っていることに気付いた。


 しかしそれほど目的地かられてはいないだろう。

 神社ここを抜ければすぐのはず。


 苛立たしさから、道を戻る気にはなれなかった。

 早く聡子に愚痴を聞いてほしい。

 怒りが、普段の慎重さを奪っていた。


 神社を通り抜けることにし、敷地に足を踏み入れる。

 その瞬間、大気の温度が下がった気がしたが、苛立っている良子は歯牙しがにもめなかった。


 神社の石畳は、曲がりくねりながら奥へと続いている。

 ハイヒールで歩くのは多少困難だ。


 人気は無い。こんな時間に神社に来る者など、いるはずが無いと思われた。


 が────。

 

 彼女の脚が、凍り付いた。


 石畳の両脇には桜の木々が、立ち並んでいる。


 その木々の間に、黒い塊がわだかまっていた。


 それはあやし気にぬらぬらとうごめき、かすかに荒い呼気こき耳朶じだを打った。


 女の顔が青褪あおざめる。

 木の間にうずくまる大きな影は、人のようであった。

 しかもかなり大柄な────。


 本能は生物的レベルでそれを、恐怖の対象として捕らえた。

 わずかな労力を惜しんだことを、そして選択を誤ったことを後悔した。


 肉塊の動きが止まり、そしてゆっくりと立ち上がる。


 明らかに「それ」が自分の存在に気付いたからだと直感した。

 彼女は声を上げることさえ忘れていた。


 立ち上がった男のからだは優に2メートルを越し、そのシルエットは人型だが、人ではあり得ぬ程の肉が盛り上がっていた。


 手に、何かがぶら下がっている。

 それは粘液のようなものを、したたらせていた。

 そこから滴る液体は、粘りつきながら糸を引き、静かな境内の石畳に音を立てる。


 鼻孔を生臭い臭いが刺激し、良子は眉をひそめた。

 男の手から「それ」が離れ、地面に重く、鈍い音を立てる。

 桜の木々が覆い隠した、枝のわずかな隙間から漏れた月の光が、ちょうどそこだけに届いていた。

 懲らした瞳に映ったのは、犬であった。


 一瞬、黒犬と思われたそれは、全身、血に濡れていた。

「ひっ!」

 喉がひきつり、無様な声を発した。


 バランスを崩し、腰が石畳を叩く。


 ヒールが脱げて、転がった。


 男はゆっくりと近づいてくる。


 思考は逃避を叫んでいたが、全身金縛りにあったかの如く、自分の意志では指一本動かすことが出来なくなっていた。


 逆に意志とは関係なく、全身が震える。


 既に自分は、自分で自分の運命を選ぶことが出来ないと悟った。

 篤に謝りたいと思った。

 自分が一方的に我儘わがままであったことにも気付いていた。


 男は止まることなく、目前まで迫ってきた。

 枝から漏れる月明かりの中に、男の姿が入る。

 月光に映ったその顔を見た瞬間、抱いていた僅かな望みも、断たれた。


 良子に残る最後の希望は、自分の運命を握るこの男の、人としての理性や良心だけであった。

 眼前の者に良心があれば、自分を傷つけることも無いかもしれない───。

 そう、人ならば。


 しかし良子はそこに、人外のモノを見ていた。


 男の額には、人ではあり得ぬあかしがあった。


 分厚く、硬く大きな手がゆっくりと近づき、自分の頭を挟み込む。

 放心状態に陥っていた良子は、冷静にそれの正体を認めていた。

 そして、それがもたらす運命も・・・・・・。


 いにしえよりそれは、人をらう者として畏怖いふされてきた。

 目の前に大きく開かれた、紅く濡れた牙を見た瞬間。


 ───幸運にも、良子の意識は・・・・・・途絶えた。

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