風の魔法使い

森野フミヤ

第1章 風の魔法使い

第1節 全てを運ぶはじまりの風

第1話 異世界へ

 俺は暗闇くらやみの世界をただよっていた。


 俺の目の前には大きな黒い犬ニンゲンがいた。犬の顔をしているくせに身体はニンゲンで、古代エジプトの神々を連想させるような黄金の装飾でその身体を覆っている。俺はアヌビス神は本当に実在したのかと目を疑った。


 犬ニンゲンは俺に告げた。


「おまえはたったいま死んだ。そして抽選の結果、異世界転生に向かってもらうことになった。」

「死んだ……それに抽選って、どういうこと?」


 はっきりとは覚えていないが、確かいつものような通勤でオフィスに向かっていた時、イヤホンをしていたから気が付かなかったけど、右の方からトラックみたいな大きな影が猛スピードで迫ってきて……


 待てよ、そのトラックにかれたってことなのか。ならば、これはまさか異世界転生イベントなのではないか。


「あの、俺って死にましたか?」

「ああ、トラックにかれて跡形あとかたもなくなったぞ。ケチャップみたいに。」


 表現が三流すぎる。


「言っておくがお前の心は私に筒抜けだ。いま私を心底バカにしただろう?」

「いいえ、何も。」

「誤魔化しても無駄だぞ。」


 犬ニンゲンは言った。すると俺に具体的な文句も言わせないまま、手に持っていたへびの杖のようなもので床をトンと叩くと、なぜだか俺の身体は下の方へと、とんでもない重力を受けて吸い込まれていきそうになった。


 これはもしかして、どこかの世界に飛ばされる前触れじゃないか。


「ま、待って!」


 俺が叫んだ。すると、地面の下に吸い込まれる感覚がいったん止まる。


「わたしを侮辱したことを謝るか?」


 自意識過剰だな、こいつ。


「……そんなことより、ひとつお願いが。」

「なんだ?」

「あの、もしよかったらでいいんですけれども。もしこれが本当の異世界転生イベントなら、なんとかして、俺に最強の能力をくれませんか?」

「例えば?」

「最強の剣士になれるとか、俺だけが使える魔法があったりとか、いろいろあるからさ?」


 ここまで言うと、犬ニンゲンはゴミを見るような目で冷たく言い放つ。


「情けないな。」

「……どういうこと?」

「ないものをねだってばかり。あれもほしい、これもほしい、だが自分が頑張ることや、辛い思いをすることのないように、楽して力を得たい。楽して稼ぎたい。自分が落ちこぼれだと知っておきながら、その事実から逃げるように自分を正当化し続け、すべて周囲のせいにして、俺はまっとうに生きているんだと詭弁きべんを振りかざす、哀れでみにくいニンゲンだ。魔法を欲しがるのも、どうせそんな魂胆こんたんだろう。」


 ちょっと頭に来た。


「なんだそれ、過大解釈にも程があるだろ!」

「いいや、わたしは事実を言っている。お前の人生は、この目で見させてもらったからな。お前は自分で、誇らしい人生を歩めたと思うのか?」

「……」

「結局、お前は自分の力で何かを成し遂げたことはないし、何も成し遂げることのできないニンゲンなんだ。お前みたいな落ちこぼれた魂だから、天国へ行けずに、こうやってまた下界をさまようことになるんだ。自分のことを哀れに思うがいい。この大バカ者め。」


 あまりにも言い過ぎだ。しかし犬ニンゲンの言っていることも、あながち嘘ではないのだ。


 大学受験に失敗し、浪人するも勉強に身が入らない、まだ時期じゃないとか言い訳ばかりこぼして、結局一年を棒に振った。就活もそんな楽観的な思考で大失敗して、しばらくニートを経験し、三年たってやっと会社に勤め出した時には、もう同期だった奴らも俺を同じ人間として見ていない気がした。


 そういう意味では、悔しいがこの憎たらしい犬ニンゲンの言う通りだ。今まで俺は自分に矢印を向けて来なかった。だから友達とも喧嘩別れしたし、彼女にも浮気された。そんなあわれな自分から必死に目を背けようとしていた。悔しいけど、それが事実だ。


 そんなことを思うと、ふと叫びたい衝動に駆られる。俺が何をしたって言うんだ。どうして、人生ってこんなに不平等なんだと。


 叫んでも無意味なのだ。単に現実を直視できないから辛くて叫びたくなる。情けなくてたまらない。


「言っておくが、わたしにはお前の心は筒抜けだ。人生は不平等で、自分は恵まれていなかった。だから仕方がない。そういう思想で生きているから、いつまでたってもお前は成長しなかったんだ。」


 俺は思わず顔をしかめた。


「人生はいつだって公平だ。決して不平等ではない。そんなものはただのいい訳だ。」

「そんなもの、分かってるよっ!」

「分かっているなら、どうして上手くいかなかったと思う?」

「……それは。」

「全部お前の責任だ。違うか?」

「ああ、うるさいなっ!」


 本当は分かっていた。こんなはずじゃない。もっと誰かの役に立って、努力して、誇らしい自分でありたかった。


 でも、いつから全部投げ出してしまったのだろう。社会人は辛かった。浮気されたことも、友達をなくしたことも、辛くてたまらなかった。思えば人生、辛いことばかりだった。それもぜんぶ、不平等な社会が悪いとか、俺をブサイクに生んだ神が悪いなんていう言い訳して、泥船から抜け出そうとすらしなかった。


 そんなこと自分が一番よく分かっている。結局、俺は現実を直視することを避けてきたんだ、死ぬまで、そして死んだ後も。


「でも、お前はもっと強くなれる。」


 犬ニンゲンは蛇の杖をトンと鳴らす。


「お前はまだ死ねない。未熟な魂は下界にさまよい続ける。異世界を転々としながら、色々なことを学び、魂の次元を高めていく必要がある。そうしないと天国には行けない。そういう仕組みになっている。」

「簡単には死なせてくれないってことですか?」

「そうだ。だがわたしも冥界の神として、お前の魂の成長を助けたい。だからお前にとって為になる世界を選抜してやった。ありがたく思え。そこにお前を飛ばしてやる。」

「どうせ、どこもろくな世界じゃないさ。」

「さあどうかな。前の世界でお前はゲームが好きだっただろう。」

「ああ。そうだけど?」

「もし魔法がある世界だとしたら、お前はどうだ?」


 俺は反射的に笑みをこぼした。犬ニンゲンもしめしめと思った様子で、その口角を少し上げた。


「確かにそれは面白そうだ。」

「なら問答無用で決まりだ。」


 犬ニンゲンはそう言うと、再び蛇の杖を地面にトンと打つ。すると俺の身体が重力に圧迫されて下の方へ押し潰される。今度こそ俺は飛ばされるのかもしれない。


「待ってくれ。せめて、前の世界よりもイケメンで!」

「ないものをねだるなバカ者め。とにかく行ってこい。あとはお前の力でなんとかするんだ。」


 犬ニンゲンが言った。とたんに身体がすうっと軽くなり、しばらくすると白く光るトンネルのような場所を進んでいた。ああ、異世界に飛ばされるのだと俺は確信する。まもなく白い光が俺の全てを覆うと、俺は安らかな眠りにつくように意識を失っていた。


「強くなれよ、少年。」


 意識を失う直前で、犬ニンゲンが最後に言い残した気がする。そうして白い光の向こう側にある、新しい世界での冒険がいま幕を開ける。

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