第44話 剣の手ほどき

 それから数週間後、一門の方向性が定まった。

 変化を嫌う封臣家門たちは、再び王家に利用されることや王位争いへ頑なに難色を示していたが、これからの未来図を公爵が説いておおむね合意したのだ。


 その知らせを聞いたシアは、早速セレンに剣の手解きを申し出た。

 とはいえ、本当の狙いは別にあったのだが。


「セレン兄様、剣を教えてくださるとお約束しましたよね? ラナイからも体力がついたとお墨付きをもらったので、早速かただけでも教えてくださいませんか?」

「うん。今日は一日予定が空いたから、いつもの訓練場でいいかい?」

「ふふ、いいえ」


 含み笑いをしてシアがセレンを伴ったのは、この極寒の北部にあって常に青々と芽吹く神域。始まりの森の奥地だった。

 外の世界は一面の銀世界だいうのに、神聖な森には春の気配が満ちている。


「ふん、ふん、ふーん」


 シアはセレンと手を繋ぎ、花々が咲き乱れる新緑の小道を鼻歌交じりにサクサクと進む。

 あきらかにご機嫌な様子の妹に、セレンもまたいつになく目元を和ませた。


「随分と機嫌がいいね、シア」

「へへ。だって兄様から剣を習うのですよ」

(まあ本当は、ピクニックの方が楽しみなんだけど)


 一体何年ぶりだろう。

 クロヴィスたちとの野営をピクニックというのなら、それほど昔のことでもない。だが、こうして自然の中でなんの警戒もなくゆったり過ごせるのは、本当に久しぶりだ。

 ちなみにお茶や料理長が張り切って用意したお弁当、ピクニック用品は、魔法で作った亜空間にしまってある。


(何か口実をつけないと兄様は全く休まれないし、一応、手ほどきも受けるから嘘はついていないもの)


 普段から後継者としての責務や騎士団の管理に忙殺されているセレンだったが、ここ数日は本当に休む暇もなかった。

 原因は、化石のように頑固な家臣たちが「納得する理由を提示してくれ」と、ごねたせいだ。


 公爵家の傘下にはかつて公国を治めていた頃のまま、財政を担当するマクベス家と、内政を担当するヒルエン家、そして軍部を担当するノーマン家の、代表的な封臣家門が存在する。


(その中でもマクベスの当主は、とくに頑固一徹だものね)


 だがその問題もようやく決着したいま、少しくらい休んでも罰は当たらない。


(始まりの森の中でも混じりけのないマナが満ちる聖域は、ソードマスターであるセレン兄様にとっても、きっといい休息地になるもの)


 とはいえ、少しだけ問題もあったが。

 奥地へ進むに従い、シアの口数がぽつりぽつりと減り始める。


「……」


 木の葉の隙間から差す木洩れ日や、少し湿ったモミの匂い。

 視界の端で瑞々しく咲き誇る花の香りや、美しく囀る小鳥の声。

 そういった、五感を刺激し生命にあふれた景色は、本来気持ちを安らげうきうきとした気分にさせてくれるものだ。シアも、最初はそう思っていた。

 けれども奥へ進むうちにわかった。

 今のシアにとってこの場所は、安らぎを得られるだけの場所ではなくなっていたのだと。


「平気だと、思っていたのに……」

(血の、匂いがする)

 

 奥地から吹いたひんやりとした一陣の風は、なぜか遥か昔においてきた死の気配を運んでくるような気がする。

 気が付けば足が止まっていた。


「シア?」

(この先に行くのが怖い)

「どうした?」

(もしも、そこにあるものを見てしまったら——)

「……シア?」

「あ」


 訝し気な灰緑の瞳に覗き込まれ、そこでシアははっと我に返る。


「すみません。ちょっと考え事をしてしまって」

(そうだ、これはただ脳が勘違いを起こしているだけ。錯覚しているだけ)


 この先に、セレンは眠ってはいない。

 兄の大きくて温もりを宿した手は、シアの手を確かに握り返しているのだから。


(あの過去はもう存在しない。だから……)


 シアは短く息を吐いて吸い、心を落ち着かせる。


(今日は過去を克服するのよ。そのためにも、兄様とこの場所を選んだのだから!)


 その決意通り、心配そうなセレンに微笑みかけて、シアはなんでもなかったかのように歩き始める。

 他愛ない話題を口にしながら一歩、また一歩。


「目的地は石碑のある、あの場所がいいでしょうか? あそこなら地面も平らですし開けているので、鍛錬によさそうです」


 セレンの手を引いて、うっそうと茂る森を進む。すると——。


「う? ——ひゃあ!」


 突然ふわりと体が持ち上がり、「なにごと!?」と思った時には、セレンの腕に抱き上げられていた。


「に、兄様!?」

「なんだか歩きづらそうだなと思って」

「え! いえ、大丈夫ですっ! 自分の足で歩けますから、下ろしてください!?」

「うん。でも俺がシアを抱っこして歩きたいんだ」


 だめ?と甘えるような顔で問いかけられ、シアはむぐっと言葉に詰まる。


「だ、だめじゃないですが、この歳で抱っこは恥ずかしいというか」

「そうかな? 誰も見てないし、もし見られたとしても今のシアは十才だから、恥ずかしがる必要はないんじゃないかな」


 にこにこと微笑むセレンは最強だ。

「いつもみたいに、甘えていいんだよ」と。邪気のない笑顔にほだされ、ついつい頷いてしまいそうになる。


(……でも、十歳は微妙な年齢だと思いますが)


 しかも魂は今のセレンよりも年上なのだ。

 回帰して肉体と同じく精神年齢も少しだけ退行したとは思うものの、見た目通り子供らしく甘えるには無理がある。


(ああ、それに兄様を休ませるためにこの場所を選んだのに、逆に疲れさせてしまうんじゃあ……)


 頭の中でぐるぐる悩んでいる間にも、セレンは自分の左腕にシアを座らせるように、軽々と抱き上げる。するとそのまま、すたすたと歩きはじめる。


「……」


 さすが、普段から鍛えているだけある。

 小柄な子供とはいえ、人を一人抱えているとは思えない軽やかさだ。


「重くないですか?」

「うん。重いどころかむしろ軽すぎて心配になるくらい。でもそうだな、もうちょっと寄りかかれる? そのほうが体勢が安定するから」

「はい」


(まあ、兄様が大変じゃないのならいいか)


 いい歳をして兄の優しさに甘えていると自分でも思うのだが、今だけはそんな自分も許すことにする。


「つらくなったら自分の足で歩きますから、いつでも言ってくださいね」


 言われた通り首に腕を回し、肩に頬を押し付けてゆっくりと目を瞑る。

 そうしていると規則正しい鼓動と仄かな体温が伝わってきて、確かな命の躍動を感じられた。


(あったかい……)


 セレンがシアを抱き上げたのも、それが理由だろう。


(私が何に怯んだのか、何に囚われているのか。セレン兄様はきっと気づいていらっしゃる)


 だってここは、かつてセレンが息絶え、シアがその亡骸を埋葬した場所なのだから。


(実際に経験したわけじゃないとはいえ、セレン兄様も同じ記憶を共有したのに。兄様はやっぱり、お強い)


 心が、魂が。

 様々な地獄を経験したシアでさえいまだこの悪夢に囚われているというのに、セレンにはシアを気遣う余裕すらある。

 その精神力の強さには心から感服する。


 セレンの芯の強さを知らない人間は彼の印象そのまま、温和で平和的な性格だと思うだろう。

 けれどセレンはまさに、フエゴ・ベルデの不屈の精神を継いだ、『北部の王アルトヴァイゼン』の後継者なのだ。


(ふふ、でもみんなは別の呼び方もするのよね)


 ふと、最近新しく耳にしたセレンの呼び名を思い出し、シアはこっそり笑みこぼす。

 それから兄の顔をにっこりと見上げ、揶揄い交じりに問いかけた。


「兄様はご自分が秘かになんと呼ばれているか、ご存じですか?」


 不意の質問を受けて、セレンが不思議そうに目を瞬く。


「なんて呼ばれているの?」


 どうやら知らないらしい。


「ふふふ。それは——」


 シアが得意満面で答えた直後、セレンはピシッと音が聞こえそうなほど、完璧な笑顔をひきつらせた。


「——『聖人君主』です」

「え。それは誉め言葉?」

「もちろん。ほかにも『微笑みの貴公子』『月下の騎士様』あとは……『完全無欠の鬼団長』もあります!」

「最期のは絶対、緑影たちが面白がってつけただろう」


 シアはそのどれも、セレンを的確に表現していると思うのだが、兄には不評のようだった。




 * * *

 



 それから再び地面に降ろしてもらい、領地の状況や近隣の領主から聞いた噂を話しながら、ふたりは聖域の中でも広く開けたある場所へ向かった。


「さて、本当にナイフじゃなくて、剣でいいのかい?」


 目的地に着くと、足場に障害物がないか確認しながら、セレンが地面を踏み固める。

 その手にあるのは訓練用の木剣だ。


「剣は苦手なんだろう?」


 足元から視線を外すことなく何気なく発された一言に、シアは思わず「う」とうめき声を上げてしまう。


(剣は苦手って、それ、アッシュにした言い訳……)


 作業を終えてこちらに顔を向けた兄は、やはり爽やかな笑顔を浮かべている。けれどもその中に、揶揄いの色が見えるのは気のせいではないだろう。

 セレンが冗談を言うときは、灰緑色の瞳がちょっとだけ悪戯っぽく輝くのだ。


 過去と昔。その中で変わったことといえば、兄が昔の話題で少しだけシアを揶揄ってくることだろうか。


(もしかしてオクルスの力って、とんでもなく厄介なのでは?)


 シアは過去の自分を恥じているわけではないので、セレンに隠すつもりはない。が、ちょっぴ尖りすぎていた時期もあるので、そこを知られてしまうのはかなり恥ずかしかったりもする。


(暴言……吐いてなかった、よね?)


 なんとも言えない心地になりながら、シアは前回アッシュから剣を習ったときのことを思い返す。


 彼は小回りがきくナイフや暗器といった小型の刃物を愛用していた。だが、武器と名のつくものはなんでも器用にこなせた。

 シアもなかなかに器用ではあったものの、そのアッシュにどうしても叶わなかった一つが、剣である。


(しかも才能がない、とまで言われたのよね。そんなはずないのに)


 幼い頃から、優秀な剣士であるセレンや緑影たちが剣を振るうところを見てきたのだ。才能がないはずがない。

 けれど馬鹿にされるのが嫌で、相手から武器を奪う必要があったとき以外、シアが剣を武器に選ぶことはなかった。


 だから今回、改めて剣を学びたいと思ったのには理由がある。


「うむむ。純粋な力比べになるとどうしても不利だから、剣は『苦手』ではありますが、できないこともありません。それに今回は素晴らしい先生がいますので。絶対に弱点も克服します!」


 ちょっとだけアッシュへの当て擦りをこめて宣言すると、セレンが「ははっ」と朗らかな笑い声を響かせる。


「そう。確かにシアは負けん気が強いからね。それに人前で披露するにしても、ナイフや暗器よりも剣の方が何かと問題が少ないかな?」


 聡明な兄には、なんでもお見通しだ。


「ええ。剣は淑女が身につけても教養の一つと説明できますし、兄様に習ったといえば自慢にもなりますもの」


 意図を正確に汲み取ったうえで、含み笑いをよこすセレンへ、シアも思わずにやりとしてしまう。


「当然形だけとは言わず、しっかり手ほどきしてくださいますよね?」

「あんまり危ないことはしないでと言いたいところだけど、そうも言ってられないからね。まずは基礎からいこうか」


 そうして始まった手ほどきは、セレンらしく丁寧で、効率がよく、実にわかりやすかった。

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