第39話 三人で
それがわかっているからこそ、
「おい、病み上がりがなに夜更かしして……と、兄貴?」
いきなりパンッ——と扉が開け放たれて、シアは不覚にも飛び上がった。
いま、すごくいいところだったのに。
おかげで出かかった涙も引っ込んでしまった。
「イリオ兄様、ノックくらいしてください」
どきどきと早鐘をうつ心臓を宥めながら、シアはじとっと乱入者を見据える。
だがあいにくと、イリオスの視線はシアに向けられてはいなかった。
目ざとくも、シーツの上に転がった紅結晶を見つけてしまったのだ。
「そ、それ……!?」
「だめです! これは私がセレン兄様からいただいたんですから」
花の蜜に引き寄せられる蝶のように、ふらふらと近づいてくるイリオスに、シアは素早く結晶石を拾うと手の中に隠す。
「う、くれとはいわない。せめて見せて! いや、触らせてくれないか?」
「……」
(ふうん?)
必死な様子のイリオスが少しだけおかしくて、シアはついつい、悪戯心を刺激されてしまう。
「だめです、減ります」
「いや、減らないだろ!?」
「そんなこと言って、魔力を味見したら減っちゃいますよ」
「たしかに。……はっ、いや、それはたしかにな、って意味だ! そこは我慢するって」
ぷいっと素っ気なくあしらうシアに対し、イリオスは今にも迫る勢いだ。ベッドに両手を突き「お願いだから!」と身を乗り出す。
そんな彼の首根っこを押さえ遠ざけたのは、あきれ顔のセレンだった。
「ほら、ふたりともそこまでにしなさい」
「うあっ、だって兄貴! シアが——」
(ふふん。甘いですね、イリオ兄様。セレン兄様はいつだって私の味方よ)
だが。
「——シアも。それだけ元気なら、もう悪い夢も見ないだろう」
(あ……)
内心でほくそ笑んでいたら、思わぬ反撃にあった。
「さあ。怒られたくなかったら、ふたりとも大人しく寝る時間だ」
「……」
その瞬間、シアは咄嗟にイリオスと視線を交わす。
『触らせてあげるから、ここに寝て』
『オーケー』
普段から悪さをしているふたりである。たとえシアに何年のブランクがあろうと、言葉なくともその息はぴったりだ。
「あ~……おれ、急に眠くなっちゃった。部屋に戻るのも面倒くさいし、ここで寝てもいいよな?」
わざとらしくそう告げて、イリオスはセレンの手から逃れると反対側に回り込む。
一方のシアは、
「そうしてくださいイリオ兄様。ベッドは広いので、三人寝ても大丈夫」
もぞもぞとベッドに入るイリオスのためにシーツを持ち上げながら、ちらっとセレンを見つめる。
「セレン兄様? もう寝る時間ですよ?」
「……」
「兄貴がいなかったらおれ、紅結晶を奪っちゃうかも」
「……ふたりとも」
「ん?」
「なんですか?」
キラキラと悪戯っぽく輝く、二組の緑柱石の瞳に見つめられ、セレンはかつてないほどに深いため息を零した。
「ああ、もう……」
片手は腰にあて、もう片手で顔を覆い。がっくりと俯いたその姿は、厄介なのが二人に増えた、と全身で語っている。
だが二人がもう一度、無邪気さを装った瞳で「はやく、はやく」と訴えると、セレンはとうとう折れたのだった。
* * *
薄闇に浮かび上がる天蓋の装飾。春の野花を模した様子を眺めながら、隣からすやすやと聞こえてくる寝息に、セレンは微笑みを漏らした。
起きているときは小悪魔かと思うほど手を焼かせるのに、こうして行儀よく寝ている姿は二人とも愛らしい天使のようだ。
(まったく。悪い夢を見そうで心細い、だなんてどの口が言うのか)
シアがそう言って添い寝を強請った理由は、もちろん彼もわかっている。
自分のためだ。
セレンが悪夢を見ても、すぐに『現実』を確かめられるようにそばにいる。まっすぐで意志の強い瞳からは、そんな決意が伝わった。
(あんな過去を経ても、シアはシアなんだな)
どれほど叩かれようとも折れることはなく、たとえ汚れて濁った水の中に揺蕩っていても、その瞳からフエゴ・ベルデらしさを失わない。
セレンが視たシアの過去は、想像を絶するものだった。
(昼間、シアが語った過去は、ほんの一部に過ぎなかった)
あれは両親が耳にしても差しさわりのない、ほんの一部分。悲しみと孤独に満ちた人生は、世間から彼女を『白い悪魔』と呼ばせ、恐れ慄かせた。
だが、セレンは知っている。
そこには妹なりの正義もあったことを。
——お願いです! 女神アウラコデリスよ!
あのとき流された涙を知っている。
——このひとを連れて行かないで! 復讐なんてしないから、忘れるって約束するから……っ。だからお願いです、助けて、このひとを助けて……っ。
胸を引き裂くようなあの慟哭を知っている。
(あのときのように、もう二度とシアを悲しませることはできない)
「……うかうかしていられないな。もっと力をつけないと」
小さく零し、セレンは二人を起こさないように、そっと右に寝返りを打つ。
そのまま行儀よく寝入っているシアを見つめながら、彼はぼんやりと思考を整理する。
(シアの記憶によれば、黒魔法使いは魔物のように狡猾で臆病者。正面からでは渡り合えないとわかっているから、不意を突く)
眠る前にその日のことを反芻し、整理するのはセレンの癖だった。
(それに中央貴族は、厳しい自然と向き合う実直な北部貴族とは違って、かなりの曲者ぞろいだ。社交界に姿を現したのが俺と母上だけだとわかれば、腹を探り、付け込み、あるいは追い落としにかかるだろう)
「……それでも、負ける気はしないけれど」
負ければ何が待ち受けているのか理解しているからこそ、絶対に負けられない。
これは戦いなのだ。黒魔法使いと対峙するのとは別の、自分にできる戦い。
そのとき、「ううん」と寝返りを打ってくっついてきた小さな体に、セレンは思わずくすりと笑う。
顔にかかった髪を優しく撫でつければ、ピンク色の唇がむにゃむにゃとなにか言葉を紡ぐ。
幼い頃からセレンがその腕で抱いてあやしてきた妹は、いくつになっても幼いものだと思っていた。
「それが……すべてをかけてでも救いたい主を見つけたなんてね」
嬉しいようなどこか寂しいような、そんな思いを抱きながら、セレンが眠りに落ちたのはもう少し後のことだった。
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