第10話 賭けの結末は-2
獣の咆哮と共に、風が腐臭を運んだ。
「剣を構えろ! 寝ている者は叩き起こせ!」
突如と迫ったインバルの群れの気配に、クロヴィスは己の失策を悟った。
(くそっ、群れは一つではなかったのだ……)
情報の出所が討伐を依頼した辺境伯自身であったために、完全に油断していた。
「くそったれの、あんちくしょうめが!」
交代で仮眠をとっていたアイガスが、吠えながら火を囲むクロヴィスたちに合流する。
「あの禿狸めっ、よもや我々を売ったのではあるまいな!?」
「今はそんなことをぼやいている場合ではありませんよ、アイガス殿」
「だがリフ——……」
口の悪い老将へリフが目を回して天を仰いだその背後で、額を突き合わせていたジュノーと影のように物静かな騎士ザノックス、それから魔塔主マギステルが、ぱっと顔を上げる。
「殿下、おびき出す進路は確保しました」
「よし。ジュノーとリフは騎乗して俺に続け」
クロヴィスは頷くと声を張った。
「アイガスとザノックスの部隊は、D地点で二班に分かれて群れを左右から追撃。残りと魔法使いは負傷者とルヴォン侯爵の保護に全神経を集中しろ!」
「は!」
クロヴィスの鋭い指示に合わせ、統率の取れた隊列が一斉に動き出す。
宵闇の山中で獣と交戦など正気であれば絶対に避けたいところだが、あのままでは負傷者たちに気を取られ、余計な被害を生んでしまう。
獣は弱った獲物から襲う習性があるのだ。そして、背を向けた獲物を追う本能も。
「はっ」
障害物の多い山中を危険なほどの速度で馬を駆り、野営地をはるか彼方に置いていく。
(インバルは、ついてきているか……?)
馬の脚であの俊敏さからどこまで逃げ切れるか、確信はなかったが、成功させる意思は十分にあった。
(でなければ、ここで死ぬだけだ)
こみ上げる激情に、クロヴィスがぐっと手綱を握りしめたその時だった。
「あと数十メートルのはずです!」
ジュノーがそう声を上げるのと同時に、視界の先に月の光が差し込んだ。
鬱蒼と茂る森の中は薄暗かったが、月の光が差す平地であれば勝機はある。
さらに、背後が険しく切り立った崖ならば。追い詰められない限り、背後は自然の要塞が守ってくれる。
はたして、クロヴィスの読み通り、三人はどうにかインバルの群れに先んじると、素早く馬から降りて剣を構える。
三人とも、場数を踏んだソードマスターである。
特に、クロヴィスとジュノーは王国でも五指に入る実力者だ。
それでも、
「……くそっ、数が多すぎる」
焦りを滲ませそう吐き捨てたのはリフだった。
他のふたりの胸にも、同じ台詞がよぎる。
暗闇の向こうでうごめく影は、先に討伐したあの群れよりもはるかに多い。
計画通りアイガスとザノックスの部隊が挟み撃ちにし、好戦しているようだが、包囲網から逃れた先頭集団が確実に近づいている。
おそらくは、ボスの一団が。
「まさか、コラッド伯爵はこれを予想して……」
「立案者は令嬢の方だろうがな。だが、ここで嘆いている暇はない」
クロヴィスの一言を受けてジュノーがさっと顔をこわばらせる。だが、主君の言う通り、嘆いている暇はなかった。
「——来るぞ!」
その号令と共に、鋭い無数の牙が、三人を目掛けて襲い掛かった。
* * *
シアは難なく木の上に着地し、ひくっと鼻をひくつかせた。
「腐臭がする。これは……インバル?」
(やはり別の群れが残っていたか……)
クロヴィスがひときわ大きかったボスの頭を切り落とし、あの群れを壊滅させた後、シアは微かにどこかの茂みからこちらをじっと見つめる視線を感じていた。
インバルは魔物の中でも特に知恵の回る個体だ。
襲撃者の正体を見極め、森の中で息をひそめ、反撃の機会を窺っていても不思議はない。
(……それに)
シアは再び鼻をひくつかせ、はっと唾棄するように息を吐いた。
——薬草と木香の入り交じった魔力の匂いもする。
『魔物は魔力の気配をことさら好む。そしてなによりも、生みの親である魔道の神、ラギメスの気配に惹きつけられる』
魔法使いくらいしかこの事実を知る者はいないが、逆を言えば、魔法使いなら誰でも知っている知識である。
つまり魔法使いか負傷者の中に、魔物を引き寄せるような囮が、紛れ込んでいたということだ。
(は、これじゃあ襲ってくださいと言っているようなものだ。大人しく私の言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったのに)
魔力の気配をかぎ取れるのは魔物だけ。一般的にそう信じられているが、実は少しだけ違う。
フエゴ・ベルデもまた、ある特殊な魔力を『香り』として嗅ぎ分けられるのである。
(それを知るのは、いまはもう、私ひとりだけれど)
エスメラルダ公国を治めてきたフエゴ・ベルデは、女神から生まれた妖精、エタムの子孫だ。エタムは、女神の落とした涙が地に落ちて鈴蘭となり、そこから生まれた神の一員でもある。
故にその血を引くシアたちは、妖精の瞳とも呼ばれる神秘的なグリーンアイと女神の力で、人とは異なった感覚を有しているのだ。
一方で、シュエラ王国に元から存在する魔法使いは、ラギメスという魔道の神が女神の権能の一部を盗んで手を加え、人に与えたのが始まりだった。
シュエラ王国の魔法使いは血縁に関係なく生まれるため、魔塔はこれを『ラギメスに選ばれし魂』と呼んでいる。これにはシアも、あながち間違いでもないと思っている。
なぜなら混沌を好むラギメスは、魔法と同時に魔物をもこの世へ生み出した神だからだ。
(同胞であるが故に、魔法使いも魔物も、似た臭いを放つのか……)
彼らが放つ臭いは思考を絡め捕るように甘く、歪んで淀んでいる。
皮肉にもそのことに気が付いたのは、あの晩。ラギメスと取引をした魔法使いに初めて遭遇した、四年前の襲撃の夜だった。
だからだろうか。
殊更、神経に障るのは。
「魔獣の放つ腐臭と人の血の臭いも加わっているなんて……最高」
誰かが深手を負ったようだ。そう状況を察知し、よりインバルが集中している方向へと移動する。
そして再び木の上に降りたシアは、負傷者の正体を見つけた。
「リフ卿……」
地に倒れ、クロヴィスに庇われているのは、紛れもなくあの騎士だった。
癖のない柔らかな金髪は泥と血に汚れ、あの屈託のない灰緑の瞳は瞼に固く閉ざされている。
その姿がいつかの記憶と重なった。
『お願いですっ、女神アウラコデリスよ!』
暗闇の森に満ちるのは、むせ返るほどの血臭と、薬草と木香のまとわりつくような不快な香り。
冷たくなっていく腕の中で、一人の少女が泣いていた。
『このひとを連れて行かないで! 復讐なんてしないから、忘れるって約束するからっ。だから……お願い。私を置いて、行かないで……っ』
だが、少女の懇願もむなしく、その体を守るように回された腕は力なくこぼれ落ちる。
『——セレン兄さま!』
シアは柄にもなく、四肢をこわばらせた。が、それも一瞬のことでクロヴィスの声ではっと我に返る。
「——リフ! 目を開けろ、獣の餌になりたくなかったら、起きるんだ!」
「は、ははっ……」
ドクドクと脈打つ心臓の音を聞きながら、シアはこみ上げた笑いで喉を震わす。
親指にはめた二連の指輪を、その指でなぞるのは無意識だ。
(落ち着け、あれはリフ卿だ)
もう顔も朧げな、あのひとじゃない。
深く息を吸って吐き、シアはそう自分に言い聞かせる。
それから張り出した枝に腰をかけ、事の顛末を見守った。
(リフ卿のことは気に入っていたけど、それとこれとは別……)
「これは第一王子に懇願させる、いい機会なんだから」
シアには、窮地に陥る前に、クロヴィスが自分の名前を呼ぶとわかっていた。
(誰だって他人の命よりも、自分の命のほうが大切でしょう?)
「だから私を呼んで……」
シアがそう囁いた時だった。
飛び掛かってきたインバルを追って、クロヴィスの視線が上を向いた一瞬、彼の瞳はシアの存在を認識した。
「っ」
だが、クロヴィスはシアの名前を呼ばなかった。
(こんなにも、簡単なことなのに……)
そして次の瞬間、ジュノーの剣から逃れた一頭が、倒れ伏したリフへと向かう。けれどなによりもシアを焦らせたのは、その前に身を躍らせたクロヴィスの存在だった。
「——な!」
「主君!」
シアとジュノーが動いたのは同時だった。
いや、魔法で移動した分シアのほうが一瞬早い。
そして——。
「——シア! 高みの見物を決め込んでいないで、さっそとこいつらをせん滅しろ!」
クロヴィスがそう叫んだのは、シアがすべてを薙ぎ払った後だった。
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