第5話 そこで出会ったのは

「そなたは……ジェフリーが雇った魔法使いか……?」


 初めて会ったクロヴィスは、そう言った後で怪訝そうに眉を顰めた。


「その様子では花を眺めていたわけではなさそうだ」

「……?」


 指摘されて初めて、シアは自分が薔薇を握りしめていたことに気が付いた。


「ああ……」


 本来真っ白であった花弁は、滲んだ血で赤くまだらに染まっている。


「これもまた、花の愛で方の一つですよ」


 そう言ってシアが肩をすくめると、クロヴィスの顔から表情が消えた。

 だがシアはかまわず彼を振り返り、自身も冷ややかに礼を取った。


「気高き帝国の星。クロヴィス殿下へ、お初にお目にかかります」


 普段は笑顔で素顔を隠すシアだったが、この時ばかりは笑う気分でもなかったし、美辞麗句を並べる気分でもなかった。

 だから。


(はやく、どこかへ行ってくれないかな)


 ぼんやりと地面を眺めながら、シアはそんなことを思う。

 だが残念なことに、クロヴィスは立ち去るどころかむしろ、ずかずかと庭園へ足を踏み入れて、シアから一メートルほどの距離を保った所でゆっくりと立ち止まった。

 よく見れば彼の手には、高貴な身の上に似つかわしくないほど、素朴な剪定ばさみが握られている。


(なに? この国の第一王子様が、手ずから花を摘みに来たの?)


 それは驚きであり、衝撃でもあった。

 だからそれまでの不愉快な気分も忘れ、無言で見つめられている意味にも、すぐには気付かなかったわけだが。


 シアよりも頭一つ分高い王子の眉間にしわが寄り、彼の背後に控える赤毛の騎士が「ごほん」とわざとらしく咳払いをしてようやく、シアは状況を悟った。


(ああ、どけってこと?)


 シアがすっと身を引くと、クロヴィスは白い薔薇の垣根に歩み寄り、一つ一つ丁寧に摘んでいく。

 その手慣れた仕草にシアは思わず見入ってしまった。そしてこれ幸いと、パチパチという茎を断つ音を聞きながら、クロヴィスの横顔を存分に眺める。


(この人がクロヴィス・フォン・ディザイン。あのタリア・モルゲナーダが血眼になって消そうとしている第一王子……)


 静かな威厳と威圧感を纏った彼は、シアが知る中で、最も美しい男性だった。

 歳はシアよりも三つ年上の、二十二歳と聞いている。

 黒い髪は襟足がうなじにかかるかどうかの短さで、切れ長の瞳はその冷淡たさが窺えるような淡いブルー。


 鼻筋は真っ直ぐ通り、肉の薄い唇は常に引き結ばれ、秀麗で知られる王家の面差しに氷のような冷ややかさを添えている。

 どうやら日常的に、微笑むことはないようだ。


(お綺麗なのに勿体ない。う~ん、微笑み一つでもっと味方を増やせそうなのに。財産を持て余している未亡人とか、年ごろの娘を持つ中央貴族に辺境伯。……豪商、はさすがにないか)


 現実はおとぎ話とは違う。

 王族が平民を妃に迎えれば、同じ平民の支持は高まっても、支持を得ている貴族の信用を失いかねない。


「……」


(ああ、でも。東部の領民から聖女様が選ばれたって聞いているし、そういう平民ならありか。あとは……)


「なにか、俺に用でもあるのか」

「え……?」


 シアが無意識に、想像の中でクロヴィスの勢力図を拡大していると、冷ややかな眼差しに見下ろされた。


(おお)


 普段から見下ろすことはあっても見下ろされることの少ないシアにとって、これはとても新鮮な構図だ。


(見下ろされるのは気に食わないので、跪いて下さいませんか、と言ったらどういう顔をするかしら?)


 思わず嗜虐心が疼いたが、冷ややかな彼の態度を受けてやめた。

 ここで冗談でも言おうものなら、本気でその腰に差した立派な剣で、切り捨てられかねない。第一王子はこの国でも名高い、ソードマスターなのだ。


 だからシアは、当たり障りのない話題を選んだ……つもりだった。


「白薔薇に水色のリボンだなんて、どこかのご令嬢に贈り物でしょうか?」


 実際、手ずから摘んだ花に自分の瞳と同じ色のリボンを結んでブーケにするなんて、どこの気障野郎かと思ったほどだ。

 だが、何が彼のタブーだったのか。


「……」


 クロヴィスは何の感情も窺えない瞳でシアを一瞥すると、そのまま無言でその場を立ち去った。


「ははん? 答える価値もないって?」


(どうせママへの贈り物か、植物を愛でる心優しき王子様なんでしょうよ)


 後になって、それが彼の妹、リリアーナ王女の墓に手向けられるための花であったと知るのだが。

 この時のシアはクロヴィスの過去に疎く、ただ彼のとっつき悪さに呆れ、噂通りガードの堅い『氷の王子様』だと、肩を竦めただけだった。

 

* * *

 

 そして、その認識が覆されたのは、シアが王宮に来て半月が経った頃のことである。


 あの日、言葉もなくクロヴィスがその場を立ち去って以降、触らぬ神に祟りなしと彼のことを意識から排除したシアだったが。見識を変えるような印象的な光景を、偶然、目撃してしまったのだ。


「…………」


(あの……氷の王子が笑って……いる?)


 暑苦しく鬱陶しい第四王子から逃れるため、演武場の目隠しのために植えられた木の上で、静かに鍛錬する騎士たちを眺めていたシアは、思わず木から落ちかけた。

 にわかに足元が騒がしくなったと思って地上を見下ろせば、あの目立つ赤毛の騎士がまず視界に入り、それから遅れてクロヴィスの微笑む姿が視界に入ったからだ。


(ほっ、ほぉう……)


 シアは気づかれていないのをいいことに、思わずまじまじと、その興味深い現象に見入った。

 どうやら気を許した部下たちの前では、氷の彫刻のような口元も僅かに緩むらしい。


(ふうん。そういう顔をすると、だいぶ印象が変わるのね)


 ありていに言えば、こちらの方がずっといい。

 眼光から刃の様な鋭い光がやわらいだとたん、まるで氷が溶かされるように、淡いブルーの瞳が青さを増した。

 透き通った水色の瞳は美しく、目尻が下がるだけでキツめな印象の顔立ちがグッと柔らかくなる。


「……」


 本来はこちらが素、なのかもしれない。


 シアがそう思ったのは、その後も同じ場所で、たびたび同じ光景に出くわしたからだ。


 そのとき、彼の周りにいるのは決まって古参の騎士のようだった。クロヴィスが唯一心を許している部下たちなのだろう。

 味方というには、数は消して多くはない。


(でも、第四王子の烏合の衆よりも、ずっと手練れだ……)


 多くの期待と重責、そして悪意を受けて育ったクロヴィスは、他のどの王子たちよりも幾多の激戦や過酷な状況を経験している。

 そんな彼と人生を共に歩んできた騎士たちが、精鋭ぞろいというのはすんなりと納得できる。


(それに、思ったより味方が少ないのも……)


 彼を取り囲む人数が少ないということが、そのままクロヴィスに信望がないというわけではない。

 彼を慕う騎士や貴族、平民の数も決して少なくはないし、シアの目から見てもクロヴィスは最も王座にふさわしい傑物だ。


 けれど彼が優れた人格者だからこそ、悪意を受けやすいし、その悪意によってひとり、またひとりと、奪われる。


(三年前、夏の終わりに起きた隣国バランとの戦争で、師と仰いでいたイグニス将軍が討ち死に。翌年には辛くも勝利を収めたものの、手ずから育てた騎士団の半数を失い、凱旋の華々しさすらも、第四王子の出現によって追いやられている)


 シアは太い幹の上へ腹ばいになって、馴染みになった光景を眺めつつ、この数日間で仕入れた情報を反芻した。


(それに、あの赤毛の騎士。ジュノーは第一王子と同じくイグニス将軍の弟子だけあって優れた騎士ではあるけれど、西部鉱山で魔物から受けた後遺症を、今でも引きずっている)


 そもそもクロヴィスが多くの家臣を失ったのが、隣国との戦争以前に起こった、この西部鉱山での魔物の襲撃事件である。


 貧しい西部で魔物の襲撃はよくあることだ。

 だから彼が家臣の大半を失うことになったのも、少数の護衛団だけで魔物の群れが確認された西部の鉱山へ視察を命じた王と、それに異を唱えることをしなかった王后の無関心さにある。


(王后にとって王権を取るのに息子の存在は不可欠なのに、ときどき、ぎりぎりまで彼を追い詰めるように見えるのは、反抗的な息子を躾けるためなのか……)


 クロヴィスの第一印象は冷淡な王子、ただそれだけだったが、彼の過去を調べるうちに、冷ややかな身の内にとても強い信念を宿していることに気が付いた。

 もっとも、強くあらねば生き残ることは困難だっただろう。

 そう思うからこそ、シアは尋ねてみたかった。


(あなたはその胸に、いったいどんな未来を思い描いているのですか?)


 その時だった。


「——!」


 まるでシアの声が聞こえたかのように、ふっと彼が頭上を見上げた。

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