マスク・ド・オークvs◯◯◯◯

藤井 三打

VS山田健介

 プロレスとは、予定調和であり、受け身の格闘技である。

 ある程度の取り決めの元に、お互いのやりたいことを読み合う調和の格闘技。

 こちらが攻めることよりも、どう相手の攻撃を受けたのかが評価される、過激に見えて穏当な格闘技。

 実のところ、ただひたすらに競い合う他の格闘技よりも、安全が保証された格闘技。いや、もっとスポーツ寄りの競技と呼ぶべきものなのだ。

 プロレスをオリンピック競技にするのは無理だろう。しかしながら、争いではなく型を重視することでオリンピック競技となった空手があるように、スポーツ制と競技性を高めつつ、エンターテインメントから距離を取れば、プロレスをオリンピック競技にするのは決して夢ではない。

 こんな夢を、大真面目に語ったプロレスラーがいた。おそらくこれは叶わぬ夢だろう。だが、そのプロレスラーには、国会で大真面目に語る資格と数々の人脈、そして自分自身が国民的スターとして長年振る舞ってきた信頼があった。

 かくして、高校生による高校生のためのプロレス機構「ハイスクール・プロレスリング協会」が設立される。それと同時に、提唱者となった件のプロレスラーは姿を消した。


                  ◇


 地方大会を経て、全国大会へ。この構図は、野球でもサッカーでもプロレスでも変わらない。

 とある県の地方大会の控室にて、一人の高校生レスラーが体を温めていた。

 一人だけではなく、複数人がいる、広い控室。ストレッチをしている選手や、軽いスパーリングをしている選手もいる。そんな若者の中でも、彼は異彩を放っていた。


「1250……1251……1252……」


 直立姿勢から、太ももが床と平行になるまで腰を落とすスタンダードなスクワット。かかとを上げ、動きに合わせ両手を動かす。呼吸も含め、一切手を抜くこともない。そしてこれだけの回数を重ねても、彼には疲れによるゆらぎがなかった。

 遠巻きで見ている他の選手も、その逞しさに驚いている。


「山田! お前、何やってんだ! 試合までもう30分切ってんだぞ!」


 他の選手のセコンドについていたコーチが、スクワット中の山田を止める。

 山田はうっすらと出てきた汗をタオルで拭い、コーチに一礼する。


「これくらいなら、ウォーミングアップですから」


「いやいや、スクワットなんてせいぜい1000回でいいんだ! なんなら、500回でもいいくらいだ!」


「でもコーチが若い時は、一日3000回はやってたって」


「そりゃ、何もわかってなかったからだ! やりすぎたら膝ぶっ壊すなんて、俺も知らなかったし、先輩も知らなかった。知った以上、止めるに決まってるだろ!」


 元レスラーであるコーチは、自分の歪んだ膝を指差す。ハイスクール・プロレスリングの設立にあたり、もっとも重用されたのは現役、もしくは元プロレスラーの面々だった。彼らは部活やジムのコーチとなり、高校生レスラーを指導している。ハイスクール・プロレスリングは、プロレス関係者に新しい稼ぎ口を与えるために作られた。そう揶揄する人間は少なくない。

 山田はコーチに、先に試合に出ていった後輩についてたずねる。


「あいつ、どうなりました?」


「先輩なら、自分のウォーミングアップより、後輩の試合を見てやれよ、まったく。いやー、ひどいもんだった。相手もこっちもスタミナ切れでバテバテよ。かなりヘコンでて、トイレに篭ってずっと泣いてるわ」


 勝ち負けよりも、みっともない姿を晒してしまったのが辛いのだろう。みっともなさを上手く飲み込めない、それが若さである。

 そんな後輩の様子を聞いた山田は、不思議そうに首を傾げた。


「そんなに疲れるもんですかね。俺なんて、そんなん一回もないですよ」


「普通、試合なんて緊張して予想以上に疲れるもんなんだよ。お前は体力がアホみたいにあるから感じないだけで」


「じゃあやっぱり、もうちょっとスクワットしといたほうがいいですね。体力はサボると落ちますから」


 1252……1253……とスクワットを始めた山田を見て、コーチはバカ負けした様子でトイレに戻る。プロレスラーのスクワットは、実のところ精神力を鍛えることを重視している。やりすぎはよくないという理屈を振り切りつつ、延々とスクワットをこなすことで、長時間の試合に耐えられるだけの精神力を得るのだ。

 理屈を忘れて、ただ自らの精神力と体力を鍛え抜く。当然、受け身のような基礎練習もおこたることはない。山田とは、おそらくプロまで範囲を広げても、もっとも鍛えることに実直なレスラーだった。それでいて他人を気にも留めない姿は、良くも悪くも求道者である。だからこそ、泣いている後輩に同情できない。泣くヒマがあるなら、鍛えるべきなのだ。

 そんな求道者たる山田に、そうそう忘れていたと戻ってきたコーチが声をかける。


「お前の今日の相手、とんでもないやつだからな。試合前に確認しておけよ」


 それだけ言って、コーチは去っていく。結局、山田はずっと練習に没頭していた。相手が誰であろうと、練習を積み重ねた最高のコンディションであれば、劣ることはない。ならば、練習に努めるべきだ。相手が誰であるかよりも、自分が万全であることが大事なのだ。

 その結果、強靭にして無知なる山田は、自分がリングに立った時、相手コーナーに居るレスラーを見て驚愕した。


                  ◇


 ハイスクール・プロレスリングは、部活動の延長線上にある。ジムと部活の混合ではあるが、国の支援を正式に受けているのもあって、基本的には真面目でスポーツライクだ。観客も、リングを見て興奮する層よりも、じっと選手の技を観察するような静かな層が多い。

 コスチュームもショートタイツとレスリングシューズと、ほぼ暗黙のまま統一されており、選手ごとの違いは色ぐらいだ。今現在、リングに立っている山田の格好も、黒のショートタイツに白いレスリングシューズといったオーソドックスなものである。

 しかし現在、山田のコーナー対角線上にいるレスラーはスポーツライクとも、レスラーらしい格好とも真逆の所にいた。


「お前、その格好は何だ!? ふざけてるのか!?」


 試合を裁き、やりすぎを防止するためのレフェリーがくってかかっている。本来のプロレスであれば舞台装置の一部でしか無いレフェリーであるが、ハイスクール・プロレスリングにおいては試合を左右する権限を持っている。高校生にプロレスをやらせる上で、これは必要な措置である。

 そんな権限を持つレフェリーに問い詰められても、山田の対戦相手であるレスラーは腕を組みじっとしていた。その代わり、彼のセコンドがぺこぺこと頭を下げている。

 そのセコンドもまた、件のレスラーに負けず劣らず、いや、むしろ彼に合わせた妙な格好をしていた。


「な? とんでもないだろ。あんな奴ら、プロのリングでもなかなかいやしねえよ。昭和の怪奇レスラーだな」


 ジャージ姿のコーチが笑っている。全身包帯のミイラ男に、生肉を喰らう野人に、口から火を吹くアラビア人。資料に残る怪奇レスラーとは、そういったたぐいのレスラーだ。なるほど、この呼び名はおそらく彼らにふさわしい。

 鬼と豚の間の子のような怪物を模したマスクを被っているレスラーに、麗しい金髪と尖った長耳が特徴的な美女のセコンド。マスクのモチーフはともかく、長耳のほうがエルフだというのは、そういう創作を読まない山田でもわかる。現実にエルフがいないのもわかる。耳も金髪も、そういうアクセサリーで変装だ。

 あのエルフと怪物は、つまるところ令和の怪奇レスラーであり、本来ならばハイスクールプロレスリングには居場所がないはずの存在である。山田以上に、まず観客が戸惑っている。

 数度のやり取りと、審判席とのやり取りを経て、レフェリーは渋々ながら彼らを認めた。審判席にいるリングアナ役のスタッフが、山田の名をコールする。


「赤コーナー。身長178センチ、体重72キロ、山田健介ー」


 観客席の軽い拍手に応えるように、山田は手を上げた。


「青コーナー。身長不明、体重不明、マスク・ド・オークー……」


「ウオオオオオオオオッ!」


 名を呼ばれたマスク・ド・オークは、スタッフと観客の動揺を吹き飛ばす咆哮を上げた。セコンドのエルフがリングの下で耳をふさいでいる。咆哮が強くて仕方ない、そういうリアクションだ。その長耳は作り物だろうに。

 ハイスクールプロレスリングにおいて、マスクもリングネームも禁止されてはいない。身長不明や体重不明も、非公表を頼めば許される。ただ、スポーツライクかつ過度な演出が好まれないハイスクールプロレスリングで、わざわざそんな芝居じみたことをやろうとする人間が居ないだけだ。

 それに、しっかり呼吸孔があると言っても、マスクを被って動くことは、身体に中々の負荷がかかる。覆面レスラーが過不足なく動けるのは、プロのレスラーだからである。まだ未熟な高校生レスラーが被るのは、相当なハンデだ。

 コイツは、プロレスをナメてるんじゃないか。山田は目の前のオークを見て、そう判断した。演出を考えているようなヒマがあるなら、鍛えることに時間を費やすべきた。リングに立つ以上、鍛え過ぎなどという単語は無いのだから。

 そんな山田の侮りを留めたのは、マスク・ド・オークの肉体であった。身長体重は不明と言っても、目の前にいる以上、推察は出来る。身長178センチの山田が若干見上げているということは、おそらくオークの身長は180の中盤から後半だろう。ハイスクールプロレスリングの中では、かなりの高身長である。

 身長に比べ、体重を見た目で測るのは難しい。三段腹のぶよぶよでない以上、180キロや200キロのような肉でリングが埋まる体重ではないだろう。なにせ、マスク・ド・オークの身体は引き締まっていた。たくましくも引き締まった大胸筋に、割れた腹筋と形のわかる背筋。山田も筋肉がハッキリとしている方だが、オークの肉体は山田に見劣りしない。存在はナメていても、肉体はナメていない。ガチのガチだ。


「ファイト!」


 レフェリーの合図とともにゴングが鳴り、山田はまず両手を軽く前に構える。まずはロックアップ、互いに組み合ってからの力比べが、プロレスのセオリーである。ハイスクール・プロレスリングにおける初手の常識だ。

 しかし、オークはロックアップの素振りをまったく見せなかった。腕を組み仁王立ちのまま、山田を見下ろしている。

 実のところ、オークの話は山田も聞いたことがある。それは怪奇派レスラーとしてではなく、しょっぱいレスラーとして、いわゆる下手な塩レスラーとしてだ。

 オークは相手の技を受けず、こちらを叩き潰してくる。自分の好きなことしかせず、相手に乗ろうとしない。ハイスクール・プロレスリングのセオリーに従う気もなく、審判団の評価も低い。実際今、山田はそのしょっぱさを体感していた。

  ロックアップしようとする山田と、応じる気配のないオーク。

 ハイスクール・プロレスリングのルールで言えば、セオリーに合わせる気の無いオークが悪いのだろう。だが実際は、悠然と構えるオークに向け、両腕をわかりやすく向けている山田の側が間の抜けているように見えている。

 まるで俺が悪いみたいじゃないか。そんな気持ちが、山田の正確な動きに僅かな隙を作る。その隙に突如ねじ込まれたのは、剛腕による喉輪であった。


「ぐっ!?」


 喉が締め付けられ、呻く山田。オークの片手が、山田の喉を締め付けていた。山田がとっさにオークの片腕を掴むと同時に、山田の身体は重力を失った。

 観客がざわめき、コーチが唖然としている。オークが山田に繰り出したのは、ワンハンドネックハンギングツリーである。両腕で相手の首を掴み、頭上高く差し上げる技であるネックハンギングツリー。その、片腕版である。

 技に必要なもの、それは片腕で人間一人を持ち上げ続ける腕力である。この求められる腕力の高さ一つで、ワンハンドネックハンギングツリーは幻の技となっていた。ハイスクール・プロレスリングではまず見れる技ではない。


「馬鹿野郎ー! 外せー!」


 コーチの絶叫が、驚きと締め付けで虚ろになった山田の意識を引き戻す。とはいえ、ネックハンギングツリーですら、ハイスクール・プロレスリングではレアな技であり、仕掛けられることを想定していない。山田はただ必死にワンハンドネックハンギングツリーを外そうとする。

 自身の両手でオークの手を外そうとするが、オークの手はビクともしない。山田は宙に浮いた両足で、オークの腹を蹴る。三発目の蹴りで、ようやくオークの手が緩んだ。

 脱出に成功した山田の胸に、オークの逆水平チョップが突き刺さる。こちらの身体を後ろに吹き飛ばす衝撃と、全身を痺れさせる痛みの合せ技。くらった瞬間、喉から息と一緒に胃液まで吹き出しそうになった。プロレスの一撃は、とにかく響く。そんな基本を思い出す一撃である。

 よろめく山田の両肩を、オークの両手が掴み上げる。山田の体が前のめりの体勢でリングに叩きつけられる。ただ力任せに相手を激しく押しつぶす。昭和の時代、巨躯と怪物性を合わせ持つレスラーが好んで使った技である。

 オークはうつぶせになった山田の首根っこを掴みあげると、リングにそのまま叩きつける。山田の眼に、正真正銘の火花が散った。


「ブレイク! ブレイク!」


 あまりのオークのラフファイトを見て、レフェリーが止めに入る。反則カウントもなく、ロープ際の関節技のような状況でもない。本来、ブレイクなんて言葉が使えるタイミングではない。

 プロレスに慣れているレフェリーですら、今の時代では見ないオークの怪物性を目の当たりにして動揺していた。山田を守るようにして、オークの前に立ちはだかっている。

 山田はくらくらする頭をなんとか抑え、立ち上がろうとする。膝をついた所で、山田の動きが止まった。山田をレフェリーごしに見下ろすオークの視線が、山田を射抜いていた。

 オークは何も言わない。ただ眼で、山田に伝えている。


”もし立ち上がれば、更に痛めつける”


 殺意なんてものはない、ただひたすらに純然たる力が、オークの有りようには込められていた。

 萎縮する山田の耳に入ってきたのは、心無い声であった。


「そのまま寝ていればいいのに」


 クスクスと、笑い声までついている。囁きの主は、いつの間にか山田に近い位置、リング下まで近づいてきていたエルフであった。


「少し鍛えているようだけど、御主人様に勝てるわけがないのに」


 可憐な外見に似合わぬ嘲笑とハスキーボイスが、山田の耳に忍び込んでくる。きっと他の人間には聞こえていない。もし観客やコーチの耳に聞こえていたら、もっと仰天しているはずだ。

 少し鍛えている。勝てるわけがない。そんなエルフの言葉が、萎えかけていた山田の闘志に僅かな火をともした。


「ふざけるなぁ!」


 一度火が付けば、燃え上がるのは早かった。過剰なまでに鍛えていることによる自負は剥げ、後に残っているのは剥き出しの肉体と感情である。山田はレフェリーを押しのけると、オークの胸に逆水平チョップを叩き込む。

 スパン!と、小気味の良い音がする。オークの逆水平チョップが豪快なら、山田の逆水平チョップは鮮烈である。切るような一撃が、オークの胸を赤く染める。


「ウオオオオオッ!」


 オークもまた激怒して、山田にお返しの逆水平チョップを放つ。先程までいいように体幹を崩してきた重爆の一撃を、山田は真正面から受け止めて見せた。受け止めたまま、お返しの逆水平チョップを放つ。わずか数分、いや数十秒での急激な進化。山田の意地に肉体が応えた結果である。

 山田の一撃を受け止めたオークは再び逆水平を放ち、オークの一撃を受け止めた山田も逆水平で答える。逆水平の輪舞曲、バチンバチンと繰り返される痛みが会場に響き渡る。


 ウォォォォォォォ……


 輪舞曲をかき消すような唸り。てっきり山田はオークの叫びかと思ったが、唸りは先程のオークの絶叫よりも遥かに重々しかった。

 観客が哭いていた。静かでじっと選手を見定めるような観客が、技の攻防ではなく、攻め合いのチョップ合戦を楽しんでいた。

 山田にとって、プロレスは予定調和の中で自らを発揮するスポーツであった。相手が受け、こちらが受け。相手のことを理解するものだと思いこんでいた。

 だが今ここで、その考えは変わった。相手を理解しつつ、自分のわがままを押し付ける。いわばプロレスとは、理解と強引が同居しているものなのだ。それを理解していなかったから、先に理解していたオークに危うくやられるところであった。

 山田は突如身を引き、オークのチョップを避ける。あの野郎、逃げやがった。そんな評価が観客の中に広まるよりも先に、山田はオークの胸板にその場飛びのドロップキックを突き刺した。ダッシュ抜きのノーモーションでのドロップキックは、見た目以上に難易度が高い。瞬発力にセンスに練習、すべてが揃ってこその一撃は、山田のとっておきである。

 今まで不動であったオークの体がついに揺らぐ。これは、効いている。即座に立ち上がった山田は、次の一発を打とうとする。

 胸板に、ドロップキックが突き刺さる。もんどりうち倒れたのは、オークでなく山田であった。オークは、山田以上の巨体を持ちながら、その場飛びのドロップキックを披露してみせた。怪力だけでなく、センスも見せつけたのだ。

 吹き飛んだ山田は、勢いを殺さぬまま跳ね起きると、今度は走り込んでのドロップキックを放つ。オークの胸板がぐわんと揺れる。鋼鉄の筋肉を歪ませるほどの一撃からも、オークは逃げなかった。

 なんだ、この男、ちゃんと受けてくれるじゃないか。おそらく今までの相手は、コイツが受けていいと思う段階に至らなかったのだ。

 仰向けにどうと倒れるオークを見て、山田は初めてリング上で笑った。


                  ◇


 試合後、控室に戻った山田を待っていたのは、コーチによる小言であった。

 控室に居る選手たちは、試合前以上に山田と距離を取っている。彼らにとって今の山田は、やらかした上にわけのわからぬレスラーであった。


「ったく。俺の声なんて、まったく聞きゃしねえ。チョップにドロップキック、チョップにドロップキックの繰り返しで時間切れ。俺が教えたことの大半を忘れやがって」


 ハイスクール・プロレスリングの試合時間は15分。プロレスにしては短いが、体力面にまだ不安のある高校生のプロレスならば妥当だろう。

 結局、オークと山田の試合は15分のほぼすべてをチョップとドロップキックの攻防で終えた。叩き、怯み、蹴り飛ばす。投げや関節技や寝技などはない。ただひたすらにお互いの肉体を叩き合うことで時間を消費してしまった。


「ハイスクール・プロレスリングは、どれだけ綺麗に技ができるか、相手の技を上手く受けるかが重視されるってのは覚えてるよな?」


「はい」


 眉を歪めながら、山田は返事をする。ハイスクール・プロレスリングの選手は、審判団により技の綺麗さ、受け身の正確さなどを評価され、評価の高い者は地方大会から県大会、そして全国大会へとステップアップしていく。


「おそらくさっきの試合じゃ、評価点は低いだろうし、上に呼ばれることもないだろう。甲子園で言うなら、一回戦負けってところだ。まったく、お前は上に行けると思ったんだがなあ」


「すいません」


「まったく、ハイスクール・プロレスリングの理屈じゃどうしょうもない試合だった。レスラーってのは、そのリングの色に合わせなきゃいけない。ハイスクール・プロレスリングの場合は、運営ってプロモーターの定めたルールに乗らなきゃいけないってことだな。プロモーターの要望を無視するようなヤツは、レスラー失格だ。次の仕事にゃ、まず呼ばれない」


「わかってます。いくら鍛えても、本番で発揮できなきゃ意味がないんですから。情けない」


「いや。それは少し違う。お前は間違いなく、今までで一番、鍛錬の成果を出していた。そこは間違っていない」


 落ち込む山田、だがコーチは、そんな山田の落ち込みを否定した。否定したうえで、説明を付け加える。


「知り合って随分経つが、お前があれだけリングの上でさらけ出しているのは初めて見た。お前はなんて言えばいいかなあ、普段からリングの上で鎧をまとってたんだよ」


「……いつも上半身は裸ですけど」


「そういう意味じゃねえよ。普段から鍛えているから、並大抵の相手には揺らがないし、鍛えているからとにかく自信にあふれている。筋肉と自信のアーマーだよ。そんな鎧を、あのマスクマンに引っ剥がされたのが、今日の試合だよ。素っ裸で何も考えず殴り合うのは、楽しかったろ?」


 コーチに言われ、山田は自覚する。

 オークとチョップを打ち合っていた時、オークをついにドロップキックで倒した時、とにかくその瞬間は楽しかった。揺らがぬ岩を叩き続けて、ついに砕いたかのような快感。日頃の練習の成果をああも実感できたのは、これまでになかった。

 コーチが言う。


「審査員やレフェリーは渋い顔をしてたが、客は盛り上がってたぜ。一応ハイスクール・プロレスリングの審査項目には客の盛り上がりもある。これが評価されれば、次に繋がるかもしれねえ。きっと、あのマスク野郎もそれで生き残ってるんだろうしな。あの野郎に至っては、最初からルールのことなんざ考えちゃいねえ」


「でしょうね」


「何がでしょうねだよ。いい顔しやがって。俺が教えたこと以外で、レスラーらしくなりやがって。お前らは引き分けで、俺は負けた気分。とにかく世の中は不公平だ」


 疲れを表に出しつつも、どことなく嬉しそうな山田に背を向け、コーチは部屋から出ていく。不公平だと言いつつ、コーチの顔は不機嫌ではなかった。山田の位置からコーチの顔は見えなかったが、コーチの機嫌の良さを山田は察していた。

 一人になったところで、山田は自らの顔を軽く揉む。うっすらとした笑みを消したところで、一つの疑問を思い浮かべる。

 いったいレスラーらしさとは、なんなのだろうか。

 これまでの山田にとってのレスラーらしさは、日々の鍛錬により、正確なパフォーマンスをこなすことであった。だが今の楽しかった試合は、正確さも何も無いがむしゃらで無茶苦茶な試合であった。元レスラーであるコーチも、山田をレスラーらしくなったと評した。そんなことを言われたのは始めてだ。

 レスラーらしさとは、もっと突っ込んでしまえば、プロレスとはなんなのだろうか。とにかく、この火照った頭では考えられない。山田は控室から外に出ると、外にあった水道で頭を洗う。とにかく今は、水が欲しかった。

 じゃばじゃばと垂れ流しの水道で頭を冷やした山田は、そこで背後の気配に気づいた。

 のっそりと立っている、ジャージ姿の男。山田が軽く見上げるほどの高さかつ、ジャージを着ていてもわかるくらいに磨き抜かれた筋肉。言葉をかわさずとも、彼が何者であるのかは一目瞭然だった。

 オークのマスクを被り、荒々しいファイトをしているわりには、理知的な顔である。意思の強そうな眉に優しげな眼、その上には角張った眼鏡。目の周りに、なんとなく彼のすべてが集まっている。


「どうぞ」


 そう言って、山田は彼に水道を譲る。


「ありがとう」


 簡潔に礼を述べた後、彼は山田と同じように水道で頭を洗う。そこにいる彼は、粗野でも粗暴でもない、普通の、ちょっと大きいだけの男子高校生だった。

 洗い終え、オールバック気味の髪を撫でる彼に、山田はたずねる。


「なあ、そっちにとって、プロレスってなんだい?」


 思わず口にしてしまった言葉。先程までリングで戦っていたとはいえ、ほぼ初対面の相手に聞くことではないだろう。だが、この男ならもしかして答えを持っているのでは? そう思ってしまった時点で、問いかけは口から漏れていた。

 彼は髪を撫でる手を止め、しばし考える。考えることができる人間が、ああもリングで荒れ狂う。プロレスとは、不可思議である。


「わからない」


 考え抜いた結果、出てきた答えはこれであった。それはそうだろう。おそらく、本職のプロレスラーですらレスラー人生全部で出る答え。いや、最期までわからぬ問いかもしれない。

 だか、彼の言葉はこれで終わらなかった。


「俺はそこまで頭が回らないし、プロレスに対して立派な見識があるわけじゃない。だから、他人からの受け売りになるけど、それでもいいなら」


「ああ。別に構わないって言うか、聞いてるのは俺なんだから、そっちが気を使うことはないだろ」


「ああ、それもそうか。なら遠慮なしに言うけど、プロレスは己のわがままを貫くことだって聞いてる。我慢のスポーツじゃなくて、ワガママのスポーツだって」


 ワガママのスポーツ。あまりに認識と違うことをぶつけられ、山田は固まってしまう。むしろプロレスは、毎日じっくり鍛えて、相手の技を受ける、わかりあいのスポーツだと思ってたが。ハイスクール・プロレスリングの理念も、そう言っている。


「きっちり鍛えて、相手が何をしてきても対応できるのは当然として。その上で、お互いの個性や理念をぶつけ合う。それに勝ったヤツが、リングの中の世界を作る権利を持っている。俺はそう聞いてる」


「世界を作る権利……」


 山田の口から、言葉が漏れる。舌に乗せておくには、仰々しすぎる言葉であった。

 そう言われてみれば、そうだ。プロレスにはお互いの不文律と常識がある。これは信頼関係がなければ成り立たない。その一方で、相手に勝たなければならないという気持ちもある。相手を食ってやる。レスラーである以上、その気持ちは大なり小なりあるはずだ。

 相手に合わせつつ、凌駕しなければならない。凌駕したレスラーは、己の色にリングを染め、観客に己を知らしめる権利を得る。それは、世界を作る権利と呼べるものではないのか――

 考え込む山田に対し、彼は語った。


「俺はファンタジーが好きなんだ」


「まさか……だからあの怪物のマスクを被ってリングに立ってるとでも?」


「そのまさかだよ。俺がオークで、セコンドのアレがエルフ。オークである以上、無茶苦茶乱暴で強さを見せつけないとダメだ」


 山田はあまり本を読む方ではないが、それでも最近、ファンタジーが流行っているというのは知っている。小説、アニメ、ゲーム、TVやスマホに触れていれば、一日一回はCMを目にするだろう。それだけ人気のジャンルである。

 だが、しかし。


「それだったら、わざわざプロレスじゃなくて、小説とか漫画とか、とにかくどこかに投稿でもすればいいんじゃないか? だいたい、オークは主人公じゃないだろ」


 山田の率直な疑問であった。そんな疑問を真正面からぶつけられた彼は、同じく率直に答える。


「俺だって、そうしたかったんだよ。でも俺には、オークになる才能しかなかったんだ」


 それは、とても、とても悲しそうな顔であった。おそらく文才や絵を描く才能は無いのだろう。その代わりにあったのは、リングでオークになりきれるだけの肉体と熱心さであった。勇者のような主人公をやるにしても、いかんせん身体が立派すぎる。


「おーい。いいかげん、帰ろう」


 遠くからかけられる声、学生服を着た小柄な少女が、こちらに向かって手を振っている。山田が知らぬ以上、きっと彼の知人だろう。遠目でわかるくらいに整った顔立ちをした、カテゴリー美少女である。多少、気が抜けているが。

 それはそれとして、なんだか似た人間をリングで見たような気が、金髪のかつらをかぶせたらエルフになりそうな見目麗しさである。

 彼は少女に向かい軽く手を上げると、頬をかきつつ山田に向き直る。


「えーと、うん、その……今日は今までにないくらい楽しくて、やりがいのある試合だった。俺においそれと潰されない、あんたみたいな人となら、良い世界を作れそうだ」


 照れくさそうな好意と一緒に、今度もまた俺でお前を塗りつぶしてやるという傲慢さがついてきている。謙虚で大人しそうに見えて、ハイスクール・プロレスリングの評価軸など一切気にしていない、この姿勢。

 山田は軽く笑みを浮かべて、返事をする。


「次はいいようにやらせないからな」


 月並みな返事かつバカ負けしてしまった。リング上ではなんとかついていけたが、今この場では完全に呑まれてしまった。山田の負けであった。だいたい、ただひたすらに鍛え、決まった通りのことをやろうとしていた人間が、決まりどころか世界を作ろうとしていた人間に勝てるわけがなかった。

 彼を見送った山田は、スッキリとした顔でその場を立ち去る。コーチでも後輩でもいい、なんなら一人での鍛錬でもいい、とにかく、今しがた宿った感情を吐き出したい。

 出来ることなら、あのオークを倒すにふさわしい勇者に、そして彼からオークの皮を剥ぎ取って、こちらの色に染めてやりたい。まだ色は思いつかないが、まずは思わなければ始まらない。

 これこそが、未だ手探りのハイスクール・プロレスリングに、本物のプロレスラーが一人増えた瞬間であった。


~了~

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