流転時代

橘 香澄

酒と金貨

 何かを忘れるためにビールを飲むようになったのは、いつからだったろう。思考が鈍って、うまく思い出せない。


 おどけて替え歌をする若手社員に、同世代の連中が腹を抱えて笑っていた。元の歌詞すら知らない俺は、薄く笑っている畑中に、なあ、と声をかけた。

「わかる、お前」

「知らないんすか。結構有名ですよこの曲」

ふうんと相づちを打って、俺は生ビールをあおる。

暖房がきき過ぎだ。氷が溶けて、いつもより苦い。

「今どきの曲は分からんな」

「清水さん、まだ若いじゃないですか。まだまだ現役っすよ」

締まりのない態度だ。最近、『役職名で呼ばない』『目上の人にはさん付けを』という社内方針が、会社に貼られた。若い頃の時代に合わせ続けるだけで、俺は簡単に時代から振り落とされていく、気がする。

「畑中さん、次ぃ」

「はーい」

 同年代の女子社員に呼ばれ、畑中が「すみません、ちょっと歌ってきます」と会釈して、席を離れていく。置き去りにしたソファのくぼみが、浅すぎる。そのことがまた、ビールのジョッキに手をかけさせる。

 会社での飲み会では、飲みすぎないようにしている。『飲み会でも相手を思いやる』ように、『円滑なコミュニケーションを実現する』ために。だが今日は、守れないような気がする。

知らないイントロが流れて、アップテンポな曲が場を奪っていく。マイクの握るのは、畑中だ。周りにいる社員が、お決まりの黄色い声をあげた。

シャツに汗がにじんで、程よく筋肉の付いた背や肩まわりが浮き出ている。そこには、俺にはもう見えなくなった、夢とか希望とか新時代とかが乗っかっているようで、目の奥がずきずきと痛む。周りに気づかれないように、眉間をさすった。


「楽しんでるか」

 同期の牧島が、肩を叩いて畑中のいた席に座った。もう五十を過ぎているのに、肩にかかる衝撃が重い。眼球だけを動かして、その横顔を眺める。

「ジム通いは健在か」

「おう。嫁と顔突き合わせんのもな、あれだろ。疲れるだろ」

息子が一人暮らしを始めて、子育ても一段落したらしい。

「で、どうなんだ、飲み会は」

体格がいいのも相まって、「ああ、まあ」と答える俺が、なんだか小さく思えてしまう。

「お前はどうだ」

「そりゃあ楽しいけど、まああれだ、世代間ギャップってやつだな。空気に慣れんのも一苦労だよ」

 年だ年、とぼやきながらを傾ける。同じように飲んでるはずなのに、喉の鳴らし方もうめき声も、俺より貫禄がある。奥歯を嚙まないと、社会人としての自制が、利かなくなりそうだ。

 それでも、深い深いところで、牧島と俺はつながっている。

 ズレている側だというところで。

 時代に取り残されている側だというところで。

だからまだ俺は、自分を保つことができる。

「なあ、終わったら飲み直さないか」

 いつの間にか曲がアイドルものに変わっていた。畑中はというと、前側にいた社員と談笑している。マイクを握る女性陣に意識が削がれたようで、「あぁ?」と牧島が聞き返してきた。

「だから二人でもう一杯いかないかって」

「行かねえよ」

 どん、と腹に重たいものが落ちる感覚がした。よほど驚いた表情をしたのだろう、牧島が俺の顔を見て、気まずそうに息を漏らした。

「なあ清水。俺らはもう昔の俺らじゃない。肉食ったら胃がもたれるし、酒もそんな飲めねえ。俺さ、この前飲みすぎて、電車で吐いたんだ。こりゃあダメだ、って思ったね」

 肩を引き寄せる仕草に、さっきの鋭さがなかった。目も焦点が合っていなくて、強がる子供のように小刻みに揺れている。昔俺に絡んできた上司に似てるな、という声が、頭の中を通り過ぎていった。

「人生これから長いんだから。少しは自分の身体のこと考えてみたらどうだ」

 腕を押し込んで、牧島が立ち上がる。「じゃ、歌ってくるわ」と音源に向かっていく背中は、なんだか、気圧に押し曲げられているようだった。

 一人になったが、誰も話しかけてこない。もうお開きの時間だろう。話しに行くのが面倒で、瓶ビールも自分で注ぐ。いや、部下がいても自分で注ぐのが当たり前なのか、今は……。

思考が重なって、重なって、瓶口と液体が触れ合う音が、聞こえない。

 気づけば牧島が歌っていた。俺の知っている曲だった。上がっていく泡を眺めながら、俺らはもう「大人」を通り過ぎて、社会に疎まれていくんだということを、淡々と思った。


 九時頃に飲み会が終わって、店を出ると、会社の若手連中がまだ外でしゃべっていた。俺に気づいた一人が、目くばせをして声をあげた。

「お疲れさまでした」

「おう、お疲れさん。遅いからまっすぐ家帰れよ」

「大丈夫ですってばあ」

 あはは、と笑う社員らに、俺は意識して目を細める。

 そう言いながら、違う場所で仲間と愚痴を吐きに行くのだろう。上司がうざいとか、会社が古いとか、そういう話をして盛り上がるのだ。楽しいことは知っている。経験があるから、分かる。

「清水さんこそ、やばいお店とか行っちゃだめですよ」

「ちょっと、ルミさん失礼すぎー」

「うわ、確かにー。すいませえん」

 鞄をぐ、と持ち直して、頭を下げた女子社員に「そんなことしないよ」と笑い返す。この距離感は、いまだに慣れない。父と娘のような、先生と生徒のような。

「じゃ、お気をつけてー」

 しつれーしまーす。間延びした声を残して、靴音が街の人混みに消えていく。後ろ姿が完全に見えなくなって、初めて何かにもたれかかりたい気分になった。残業を何時間もやった後より体が重く感じる。なんとか足を引きずるようにして、歩き始めた。

 

ここは中心街だから、夜でも電光掲示板がまぶしい。でもそれは、眠れない夜に一人テレビを観ているように、気を抜けば寂しさを思い出してしまう。

「帰らなきゃなあ」

アルコールが入っても忘れきれない思いが、心臓のありかを痛いほど教えてくれる。


息子が最近、ネットで知り合った女の子と付き合い始めた。どうも年下らしい。耳に穴をあけ、服装も派手になって、家族を「お前」と呼ぶことも増えた。

 変わってしまった息子を見るたび俺は、息子がもう手の届かない遠くに行ってしまったのではないかと、時々不安になる。

家を空けるときは、連絡してほしい。

少しでいいから、学校のことを聞かせてほしい。

ネットは危ないから、のめり込まないでほしい。

そんなことが、頭をぐるぐる回って、仕事も手につかないこともある。

子供からすれば鬱陶しい父親なのだろう、きっと。でもそうしないと、妄想が本当になりそうで、自分が保てない。


そんな俺に妻は「別にいいじゃない」と言う。

「あなたもそんな時あったでしょ。今どきの子なんだから、なおさらなんじゃない」

ドライヤーで髪を乾かしながらにべもなく言う、その口調が、表情と合っていない。影のある背中が、何かに振り落とされないように、膨張しているように見える。

それでも俺は、いいな、と思う。

妻はまだ、ついていける。分かっている。

だから少し、憎い。


角を曲がると、街明かりの中で一つ、浮いた明かりがあった。思わず、ほう、と息が出る。

「今どき珍しい」

 酒の自販機が、薄暗がりで煌々と光っていた。昔はよくあったが、ほとんど見かけなくなった。昭和の置き土産、という言葉がしっくり来て、腹がぷくぷくと泡立つ心地がした。

「ちょっくら飲み直すか」

 ボタンには300や400の数字が並んでいる。何の気なしに財布から五百円玉を取り出して、自販機に入れた。

 チャカ、チャリン、と乾いた音がした。ランプが点くかと思ったら、釣銭返却口に、金貨がそのまま戻ってきた。

「故障かな」

 腰をかがめて、五百円玉を取り出す。もう一回入れようとして、「あ」と声が出た。

 新五百円玉だったのだ。多分古くて、対応していないのだろう。いつもだと『新機種に移行中です』や『新五百円玉には対応しておりません』と貼ってあるから、気づかなかった。

 無性に何かがこみあげてきて、俺は自販機によりかかった。ディスプレイがひやりと冷たい。急速に酔いが醒めるにつれ、知っている顔が、向けられた言葉が、さまざまと浮かんでは消えていく。でもなぜか今は、自分の中心が、少しもズレない。

「そうだよな……お前も……」

 言葉にならない言葉が、自分の影に落ちていく。この言葉が言い足りたら、きっと俺は、世間一般から蹴落とされるだろう。多数決が少数派の意見を無視するように。

 でも、受け入れられないことは、追いかけても追いつけないことはあるのだ、誰の中にも。気づいているだろうか、個性をたたえる素晴らしい時代に固執して、そっぽを向く人の後ろ指を指す、矛盾があることを。

「なんて、俺が言えた義理じゃない」

 もしかしたら俺は、差別主義者なのかもしれない。これまでも人を傷つけてきたのだ。多分。これからも。そんな俺のぼやきを、自販機は変わらず受け止めてくれる。私は古いので、新しいものを受け入れられませんと言っているような潔さは、俺にとって、確かな救いだ。

「お互い、がんばろーな」

 呟いた励ましの言葉が、少し、畑中に似ていた。わずかに見える白い息が、澄み切った夜に溶けていった。


 

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