Vを選んだ理由

 ガチャ。

 浴槽のドアが半開きになった。

 隙間から覗く土井の顔は、照明の角度の問題で真っ暗。


「それで、両親を交えて挑戦しました。お姉ちゃんがずっと庇ってくれて、父とは半ば絶縁状態です。母は姉の説得で、かろうじて頷いているくらいです」


 昔のことを思い出し、オレは恥ずかしくなった。

 認めたくはないが、オレが一番狂ってる説あるな。

 配信のことばかり考えてたから、いつの間にか頭からすっぽり抜けていたのだ。


「アイドル事務所。電話掛け直したのか?」

「無理だった」

「そ、そっか」


 コトン。と、土井は床に包丁を置く。

 刃はオレの方に向けて、姿勢良くして正座をしている。


「でも、あたし、もう一つ受けていて、それがVの事務所だったの」

「へえ」

「一つは、普通のアイドル事務所。もう一つが、V」

「へぇ……。え?」


 ちょっと待て。

 おかしいぞ。

 お前、それじゃ、何かおかしくね?


「あれ? あれれ? 待て。おかしくねえか? お前、春に受かって、したんだよな」

「……うん」

「え、それで、、……人気ぶりなわけ?」

「……え……へへ」

「いやいや、照れないで。オレの困惑を解いて!」


 同時接続数はトップ。

 グッズ販売だってされてる。

 3D化はされてる。

 あんまり、前期と変わらない扱いぶりに、オレはのかと思っていた。


「あ、でも、配信は前からしてたよ。個人で」

「バーチャル?」

「うん。絵はお姉ちゃんと一緒に考えて、OBSの事もその時に勉強したし」

「……中学ではもう始めてたのか」


 浴槽で腕を組み、オレは考えた。

 オレはひょっとして、相当すごい奴と話しているのかもしれない。


「すい星の如く現れてんだけど」

「……へへ」


 歌を聞くと、人気の理由は分かる。

 声は『大人びた少女』って感じで、感情が入ると相手の気持ちまでグイグイ引っ張る魅力がある。


「初めから、バーチャルで配信してたんだよな。どうして、バーチャル選んだの?」

「顔見えないし。秘匿性ひとくせいあるから、いいかな、って」

「あー、……なるほど」


 自身の顔をさらけ出して歌うより、バーチャルとして歌った方が見た目についてアレコレ言われなくて済む。特定だってされにくい。


「それで、お姉ちゃんが安全だよ、って説得してくれた」

「へえ~~~~~~」


 すっげぇ。

 身近にこんなすごい奴がいるんだな。

 言われてみると、土井の配信を見ていないオレでも、何となくすごさが分かってしまい、言葉が出てこない。


 ていうか、男の入っている風呂場に包丁を持って待機してんだけど。

 これ、リスナーが知ったら、炎上の前に困惑するだろ。

 反応に困るぞ。


「で、お前がすごい奴だってのは分かった」

「うん。もっと褒めてほしい」

「はは。ぬかせ。ところで、何が言いたいんだい?」


 昔話をしたからには、何か言いたいことがあるんだろう。


「大したことじゃないけど。あたしは、ちゃんと風見くんをってだけ」


 土井は正座のまま、半開きの隙間からオレを見つめてきた。

 声の調子から真剣なのは伝わってくる。

 でも、再び包丁を持ちなおしたのが気になった。


「風見くん。一度しか言わないから聞いて」

「はい」

「あの女と別れて。たぶん、明日、風見くんは目を覚ます」

「……どういうこと」

「……」

「黙ったじゃん」

「……」

「ねえ。何か言ってくれない?」


 ドアが徐々に開いていた。


「あたし、浮気って嫌いなんだよねぇ」

「待ってくれよ。オレの人生どうしちまったんだよ。周りは話し聞いてくんねえ人ばっかだし。どんどん歯車が壊れていくよ!」


 ヒタヒタと足音を立てて、土井が中に入ってきた。

 包丁をオレの前に置き、耳元で囁くのだ。


「別れて?」

「……でもぉ、相手ぇ、傷つくしぃ」

「ウジウジしないでよ。こういうのは長引けば長引くほど、相手は傷つくんだよ? ね? 勇気出して」


 あと、オレは土井と付き合ってない。

 オレが知らない流れが出来上がっていて、そういう事になってるだけだ。


「できるでしょ?」

「……まあ、うん。そうね」


 どうせ断ろうと思っていたから、そこは素直に頷いておいた。


「いい子、いい子。……んー……えいっ」


 パシャ。

 オレの視界から光が消え、湿った風が鼻に当たった。

 身の危険を感じたオレは、すぐに顎を引いて目の前の物体を掴む。


「う、ぐぐ」

「っぶねぇ! フォロワー300万人のデスキッスがきたぜぇ!」

「ひゃん、ぎゃぐ、ごぎゅう、わんにん(※350万人達成)」

「っせぇよ! 変わらねえわ! 底辺から見たら青空は青空なんだよ!」


 大丈夫。

 オレは絶対に手を出さない。

 昔の事を思い出し、今のこいつのすごさを知ったからには、尚のこと手なんか出さない。


 だって、道を閉ざしたら元も子もないからだ。


「離れて! ああ! 膝に冷たい感触乗ってる!」

「うう! ううううう!」

「そのうー、うー言うの止めなさい!」

「うう!」


 オレは負けない。

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