緑色の光 2

 ふたりは人でごった返す市場の大通りを歩いていた。屋台や敷物の上にさまざまな商品が並んでいる。獣肉、魚、野菜、果物。それから、棚に載った壺や食器、色とりどりのアクセサリー、服や織物。


 威勢のよい売り子の声があちこちで聞こえる。そんな中で、メイナはとつぜん指先を前に向けて、


「ねえ、リティ。見てよ!」


 リティが顔を上げると、人混みの中に、緑色の蝶が見えた。


「もしかして、あれって! ヒスイチョウだよ!」


 そう言ってメイナは走り出す。リティはそれを追いかける。


「もう、待ってよ! メイナ!」


 レンガ造りの鍛冶屋の壁を横切り、女神ミュートの聖堂に続く白い石畳を横目に、人々をすり抜けて。


 道はどこまでも続いていた。無鉄砲に走る赤髪を追いかけて、リティはあきれるほどに走った。


 街の外れには丘があった。


 よく手入れされた緑色の下生えが、なだらかな斜面を彩っている。メイナは丘の上の、三つの石碑の前にいた。丘の上からは光る海が見えた。草と海風のにおいが風に乗って漂う。


 リティは肩で息をして、かすれる声で、


「やっと追いついたよ! もう、なんなのよ……」


 そう言いながら、リティは石碑を見た。中央の石碑には、女神ミュートの横顔が彫られていた。北の彼方に住まい、氷の静寂から産まれたとされる、この世界を見守る、慈悲深い女神。


 女神ミュートの石碑の両脇には、太陽神アルガーダ、戦神レガーダの、ひとまわりちいさな石碑があった。


 中央の女神ミュートの頭の上に、緑色の蝶――ヒスイチョウがいた。


 リティはしばらく、石碑と蝶と海を見ていた。


「ちょっとだけさ、憶えてるんだ」


 と、メイナは言った。


「憶えてる?」


 するとメイナはうなずいて、


「アズナイさまがさ、あたしを引き取る前にさ、パパが…………。ねえ、リティ、アズナイさまのところにくる前のこと、憶えてる?」

「え、うん。ちょっとは、ね」

「そう。あたしはさー。ヒスイチョウのことは、ずっと憶えてるんだよね。……パパが、ヒスイチョウを見つけたときに、言ったんだ。『ママが、逢いにきてくれたんだよ』って」




 倒木の前で立ち止まっていたメイナは、ぐるりと振り返って、リティの横にきた。そして、無言のまま通りすぎて、道を引き返しはじめた。


「メイナ……」


 リティが呼びかけても、反応はなかった。メイナは力なく、赤髪をゆらして、暗い緑の中を歩いてゆく。


 リティはためらいながら、倒木へと近づいて、右手を持ち上げた。


 『リティ。きみの力は、むやみに、使ってはいけないよ。とっても、繊細な、注意が要るものなんだ。わかっているよね』


 師匠のアズナイの言葉を忘れたことはない。白く輝く髪の中に見える、藍色の瞳は、冬の凍った湖のように静かに光っていた。


 リティは倒木の、荒々しい樹肌に右手をのばす。


 森の空気を吸いこみ、右手に意識を向ける。



 倒れていた巨木は、真ん中で分断されたことでバランスを失ったようだ。道の左右の木立の中から、メキメキと大きな音がした。リティの眼前の倒木には、人が十分に通れそうなほどの切れ目ができていた。足元には灰が溜まっていた。


 背後からメイナの、息を飲むような声がした。


「え、リティ……」


 リティは横によろめくように歩き、倒木に手をついた。そして、めまいと吐き気を噛み殺しながら、


「行きなさいよ。逢いに……」

「リティ……」

「いいよ。行きなって」

「うん。ありがと」


 そう言ってメイナは、倒木の断面に入りこみ、服とバックパックをこすりつけて、向こう側に出た。リティは呼吸を整えながら、それを追う。


 と、メイナは目の前の茂みの中に飛び込んだ。うんざりしながら、リティも茂みに体を入れた。


 体じゅうを枝や蔓に引っかかれながら、茂みを進んでいく。髪に絡まる枝を振りほどき、マントをひっぱって進む。


 やがて視界が開けた。


 緑色の光の中、石造りの祭壇が見えた。


 下には石畳が広がり、その中央に石碑があった。その石碑には、女神ミュートの横顔が彫られていた。


 メイナは石碑の手前に立ち、中空に目を向けていた。


 ――緑色の光。それは、無数に飛び交うヒスイチョウの群れだった。


 数えきれないヒスイチョウの緑色の輝きが、エメラルドの渦をなしていた。ほとばしるような緑色の光が、ちかちかとまたたき、森や空を覆っていた。


 何匹かのヒスイチョウはリティの顔の近くにもやってきて、頬をかすめ、光の尾をひいて、また空へ飛んでいく。


「レガーダ……!」


 と、メイナは声をもらした。


「きれい! すごいよ、これ!」


 リティはそこに、


「そうね。きれいだねえ」

「うん、ほんと……」


 メイナはため息をもらして、


「こんなに、生き残っていたなんて。あの、氷の年を。……信じられないよ」

「そうね。もしかしたら、海を越えてきたのかも」

「海を……」

「そうよ。蝶って、海を越える種類が、いるみたい。遠くの、南のさ、凍らなかった世界から、やってきたのかもねえ」

「そうね。そうかもね」


 メイナはそうつぶやいてから、ふと、白い石碑へ視線を向けた。


 そこには、やさしげな女神ミュートの横顔が彫られていた。メイナはずっと、それを見つめていた。



 リティはふたたびヒスイチョウの乱舞を見上げ、それから、森の切れ目の先に目を向けた。


 遠くにそびえる、灰色の塔のシルエットが見えた。



 緑色の光 おわり

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