蜃の夜
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蜃の夜
街に夜が訪れていた。
街灯の暗い光が街路を淡く照らし、建物の窓から漏れる暖かな光が歩行者たちの影を引き立てている。街は静謐な雰囲気に包まれ、薄く立ち上る排気ガスの匂いさえどこか上品だった。
レンガ造りの駅に降り立った乗客たちは、街に散っていく。それぞれが今夜の宿を目指して歩いているのだ。
それは家であり、宿泊施設であったりするのだが、そうでない者が一人いた。
左手に鞘袋を手にした、学生服の少年が歩いていた。
身長は170cm程。
育ちのいい近ごろの子供からすれば、決して高い方ではない。
痩せた体つきをしていたが、ひ弱な印象はない。
樹木が持つ柔らかで、温もりを感じさせるせいだろうか。どことなく大きく、根が張ったような落ち着きが感じられるのだ。
顔立ちは整っているが、表情がない。
無表情という訳では無い。
顔も姿も含めて直感的なものを、あえて言葉にするなら巌、だろうか・・・・。
四季が移り変ろうと、雲が流れようとも、霧に包まれても、雪に覆われても、動かない、動じない。
そんな静けさと力強さを感じさせた。
少年の名前を、
聖治は長い前髪を掻き上げながら、街を見渡す。
この街では、異様な現象が起こっていた。
それは走行中の自動車が突然、歩道に飛び込んだり急停止をすることで追突事故を引き起こすというものだ。
道路や交通の設備に欠陥があるのではない。
自動車にも問題がなかった。
警察の事情聴取に対し、事故を起こしたドライバーは各々が妙なことを口にしていた。それは目の前に人が飛び出た。あるいは、車が突っ込んで来た。それは、もっともらしい状況だが、中にはビルが現れただの、後部座席から津波が迫ってきただの、まるでお伽話のような内容だった。
無論、飲酒や薬物の疑いがあるため検査を受けるが、異常は認められなかった。
ドライブレコーダーや街の監視カメラを確認しても、人が飛び出し、車が進路妨害をするような状況は確認できなかった。
つまり、まったく原因不明の事故が起こっているのだ。
死者こそ出てはいないが、すでに何人ものケガ人が続出しており、看過できない状況だった。
聖治がスマホを手に地図を確認していると、足を止めた。
目的地に着いたのだ。
そこは街中にあって、時間に忘れ去られたように木々や池が残る場所だ。
聖治が目を向けると少し入った先に小さな鳥居が有り、その先には古ぼけた
聖治は鳥居の前で一礼し、参道を通り
するとそこに、一人の少女がいた。
夜の中で尚、淡く光る桜色の髪に透けるように白い肌。
年の頃は10代後半だろう。
垢ぬけた美しさと、陶器のような優美さを感じさせる。
シンプルなワンピースを身にまとい、肩には羽織るようにストールを巻いていた。
少女は聖治に気づくと、小走りで駆け寄る。
「古神道で知られる、天神さんですか?」
その問いかけに聖治は頷く。
【古神道】
それは、太古の昔から受け継がれた日本人の知恵。
教義も経典もない。あえて宗教とするなら、教祖は神であり、大自然が経典、教義は大自然や人から謙虚に学びながら自分を作っていく。
その歴史は古く、旧石器・縄文時代に遡る。
古墳時代以降、天皇家や有力豪族は伯家、物部、中臣、吉田(卜部)、出雲などそれぞれの古神道を創設する。
しかし、大陸から陰陽道や仏教が伝わると、その霊性は地下水脈として潜り、日本人の表面上から消えていった。
現在の神社神道は、明治時代に祭式が統一された儀礼中心の神道。
それに対し、古神道は、神道の持つ普遍的な霊性や幽冥観を重視し、まじないや呪文、印、呼吸法・行法もある。
「
聖治は、美幸と呼ばれた少女は笑顔を向けると、深々とお辞儀をした。年相応に見えてしまうが、どことなく優雅で上品な物腰だった。
「立ち話も、何ですから……。社務所へ」
美幸が案内しようとするが、聖治は手で制した。
「構いません。ここで」
すると美幸は申し訳なさそうにして、言葉を選んでいる。
「ご存知でしょうが。今、この街で起こっている現象は、この神社のせいかも知れません」
美幸は俯く。
聖治は心配そうに美幸を見て、躊躇いがちに尋ねる。
しかし、それはあくまで不安や疑問をぶつけるというより、まるで道を訪ねる程度の聞き方だった。街で起こっている不可解な現象の根幹が、この神社のせいだとしても、この少女には、まったく悪意があるようには見えなかったからだ。
聖治は美幸に尋ねた。
「事情を聞かせてください」
美幸は頷いて、静かに語り始めた。
「当神社では毎年、
ですが、今年は儀式を務める、お祖父ちゃんが、最中に急病で倒れる事態になってしまいました」
すると美幸は悲し気な表情になる。
聖治は、その心を察したのか言葉を遮る。
「お爺さんのご様態は、どうですか?」
美幸は驚いて聖治を見た。
仕事の内容や街で起こっている現象よりも、人の安否を気遣う言葉に驚いたのだ。彼女は、慌てて笑顔を作って答えた。その様子は年相応というより、どちらかと言えば取り繕うような反応だった。
「入院はしていますが、命に別状はありません」
聖治は安堵の息をついた。
「それは何よりです」
美幸も内心、安堵した。
どうやら良い人らしいと分かったからだ。安心したことで、本来の説明を口にすることができた。
「お祖父ちゃんは病院で、儀式が中断されたことに不安をのぞかせました。私は、まさかと信じていませんでしたが、街で不可解な事故や事件が起こっている話を聞きました。これが《龍》の怒りの原因だとすれば、当神社の責任です……」
話し終わると、美幸は心苦しそうに顔を歪めた。
「そんなことはないよ。いままで何も起こってこなかったのは、一ノ瀬さんのお祖父さんが儀式を成功させて、この街を守ってくれていたからです。そうでなければ、もっと以前から危険なことが起こっていました。一ノ瀬さんが責任を背負う必要なんてないですよ」
聖治は優しく言って微笑む。それは他人を思いやる表情だった。聖治は、美幸が自分を責める必要はないと言ったのだ。
すると美幸も、心なしか緊張の糸が切れたようでホッとした表情になった。
「あとは俺に、任せてください」
聖治は、この儚げな少女を安心させる言葉をかけた。美幸には笑っていてほしいと思ったからだ。
聖治は決意表明を述べると池の方を見た。
直径30m程の小さな池だ。
けれど、その中には花菖蒲が咲き誇っている。周囲には楓の枝が茂り、水面に葉を落としている。
聖治が見る限り、鏡のように、とても清らかで美しい光景だ。
けれど、そこに変化は起こっていなかった。
この池こそが、
ならば、ここに《龍》という存在がいるハズだ。
それが、この現象を引き起こしている原因だと聖治は考えていた。
美幸も静かに池に視線を送る。
しかし、変化はなかった。
「離れて」
聖治は静かに、だが威厳と危機感のある口調で美幸に告げた。
美幸は驚いて、聖治を見るが、それ以上何も言うことができなかった。それほどまでに、彼から放たれる威圧感は、迫力に満ちていたからだ。
見れば、池の中央に爛と光る2つの眼があった。
その不気味な眼光に美幸は驚いて、一歩下がる。
美幸は幼子の頃から《龍》という存在について知っていたが、それが祭事場に現れるなんて信じられなかった。
水が沸き立つようにうねり上がる。
今まで穏やかだった池の水が、高波に姿を変え、二人が立つ水辺に向かって突進する。
激しい飛沫をあげた高波は、二人を一瞬で呑みこもうとしたが、聖治は鞘袋から一振りの木刀を引き抜き、垂直に突き立てた。
すると波は二つに分かれて二人を躱し、後方に消える。
聖治の持つ木刀は、桃の木を削ってできた桃木刀であった。
【桃】
古代、桃は邪気を祓う力を持つ霊木とされ、桃の木で作った弓や桃の枝で悪霊悪鬼を祓う風習があり、鬼祓いに桃弓や桃枝が用いられた
『古事記』を参照すると、桃の実が悪霊退散に効いているくだりを確認できる。
黄泉の国で恐ろしい姿に変わり果てた妻、イザナミの姿を見てしまったイザナギ。
イザナミは恥をかかせたと怒り、黄泉醜女や八柱の雷神、
イザナギが逃げる時、最後に投げた3つの桃で、悪霊達は力を失っている。
桃は中国では仙木とも呼ばれ、邪気を払う呪力があると考えられていた。元旦に飲む桃湯は邪気を退け、桃膠(桃の木のヤニ)から作られる仙薬は、万病に効くとされていた。
桃木刀は、そんな桃の霊力を宿す神木から作られた霊器であった。
霊力を纏った桃木刀は、水の攻撃を防いだのだ。
聖治は池を凝視する。するとそこには龍がいた。
全長10m程の体躯を持つ青い鱗を持つ龍だった。口先から鋭利な牙が覗いていた。
美幸は、その姿を見ると失禁しそうになる恐怖を感じたが、グッと堪える。聖治はそんな美幸をチラリと見ると視線を戻す。
龍の眼が鋭い眼光を放つと、口腔から水が放たれた。
その攻撃に対して聖治は前へと踏み出す。
「聞く耳を持たないようだな」
聖治は、そう呟くと桃木刀を薙いだ。
桃木刀によって放たれた水が切り裂かれる。それと同時に聖治は前へと踏み出す。
それを見た美幸は信じられなかった。なぜなら聖治は水の上を走っていたからだ。
雨が降った石畳の上を走るように、水面を水飛沫を上げながら駆け抜ける。
龍の放った水は、槍の穂先のように鋭く、細いながらも高速で飛翔する。
しかし、それに対し聖治は縫うように駆け抜け、水面に花を咲かせながらジグザグに躱し続けていた。
その様子は戦いというよりも演武のようでもあった。
聖治は走りながら体を少し屈めた。
刹那、激しい水飛沫を上げながら、聖治の姿が掻き消えた。
美幸には、一瞬のことで聖治を見失ったように思えたが、次の瞬間には龍の背後。それも上空に回っており、彼は空中にあって木刀を上段から振り下ろす。
剣術で、助走を付けずに2m程を高く飛びあがって相手を斬り倒すという術を
桃木刀は、轟音と稲妻を伴っていた。
放たれた木刀の斬撃が直撃すると、龍は真っ二つに裂けた。
だが、そこに血も内臓も見当たらない。
水が龍を構成していたのか、両断された龍は水へと姿を変え池の中へと戻っていく。
(《龍》の正体が水)
水面に降り立った聖治は険しい表情で思考を巡らせた。
(池の水を操作しているのなら、あんな複雑な姿をしていたのはおかしい。ということは、水を身体にして構成する存在……。脳や核といったもの)
聖治が思考を巡らせている中、美幸は彼の背後から水がせり上がるのを見た。
しかも、それは龍の形をしていた。
「天神さん。後ろです!」
美幸が水辺から叫ぶ中、聖治は振り向きもせずに、龍の存在を知っていた。
次の瞬間には新たに水が集まり龍の形を成すと襲いかかって来る。
聖治は、そこに振り向きざまの一閃を繰り出す。
次の瞬間、激しい衝撃音と共に水が砕け散った。
砕けた水は、まるで雨のように降る。
聖治は、桃木刀を腰のベルトに挟み込むと、両手の掌を上にして下腹部に持っていった。
古神道における奥津鏡修行で用いられる、鏡の印と呼ばれるものだ。
一切のものを明々と映し出す鏡は知の理想とするところで、知を曇らす穢を祓うというのが、この行だ。
その間にも、水が沸き立ち人の形をした存在がいくつも出現する。
まるで地獄の亡者を連想させる姿であった。
そして、それらは岸に居る美幸にも迫っていた。美幸は身じろぎをして、後ろに下がる。すると、周囲からも亡者が美幸に迫りつつあった。
亡者は水のように腐汁を滴らせながら、美幸を包囲するように迫っていた。
これでは、逃げ場がない。
美幸は亡者の接近に足がすくんでいた。
(怖い……)
それは今までに感じたことのない恐怖だった。自分が殺されてしまうかもしれないという怖さであった。
それは聖治も同様であったが、彼は静かに鏡の印に意識を注いでいる。彼は亡者の群れを見つめながらも動じなかった。
「
聖治は鏡の印に力を込める。
すると、手と指の隙間から霊光が溢れ出す。
その光は徐々に輝きを増し、光輪を形成する。
そして聖治は力を込めた手を叩き合わせ、横に薙ぎ払った。
その瞬間、鏡の印が光を吐き出すように破裂し、霊光が放たれる。
霊光の奔流は池を照らし出す。
池全体を照らしていた霊光は、水面に反射して亡者へと突き刺さった。
激しい光と衝撃に美幸は怯むが、光が収まる頃には辺りに存在していた亡者の姿は消え去っていた。
何事も無かったように、水面は静かに波打っている。
美幸は腰を抜かしたように、へたり込み信じられないといった様子で聖治を見つめていた。
聖治は、自分の立つ水面を見つめていると、水の中に手を沈めて何かを掬い出す。彼はそれを手にして、美幸の居る岸まで歩いて行く。
「天神さん。龍は、どうなったんですか?」
美幸は聖治を迎えると、さきほどまで存在していた水の龍について尋ねる。
池にあれだけの龍が生息していたにも関わらず、今は跡形もなく消えていたのだ。
だが聖治は気にした様子もなく答えた。
「龍は、これですよ」
聖治は、右手を差し出すと握っていた物をみせた。
そこには、6cm程の小さな二枚貝が乗っていた。
美幸は、それを確認すると驚いた様子で聖治の顔を見る。
「貝。これが龍なんですか?」
聖治はコクリと頷く。
「これは、
と。
【蜃】
古代の中国と日本で伝承されており、巨大な蛤とする説と、龍の一種とする説がある。
蜃を二枚貝とする説は中国の古書『彙苑』『史記』などに確認出来る。それによると「蜃」はハマグリの別名であるとされ、「劫を経たハマグリは春や夏に海中から気を吐いて楼台を作り出す」とある。
蜃気楼という言葉は、この蜃という妖怪が楼台を見せたことからきている。
鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』の一節「蜃気楼」も前述の『史記』に準拠する形で、二枚貝としての蜃が描かれている。
一方で蜃を龍とする説は、同じく古代中国の『本草綱目』に「蛟の一種に属する生き物」とある他、『卑雅』『礼記』にも記述がある。この蛟の一種としての蜃がツバメを捕食する為に気を吐いて幻の楼閣を作り出すのが蜃気楼だとされている。
記述によると、龍としての蜃はヘビに似て角、タテガミ、赤いヒゲを有し、腰から下の鱗がすべて逆さに生えているとされる。
また蜃の発生については、蛇が雉と交わって卵を産み、それが地下数丈に潜って孵化して蛇となり、さらに数百年後に天に昇って蜃になる。
と言われている。
「先程の龍は、水を媒介にして蜃が作り出したものですが、亡者は幻です」
聖治は美幸に告げる。
美幸は自分の周囲に高波によって水に濡れた跡はあるが、亡者が滴らせた腐汁の痕跡がないことに気が付いた。
「では。街に現れていた幻の正体は」
聖治は美咲に答えた。
「儀式が不完全に行われたことで、蜃の活動が抑えられなくなった結果によるものですね。力を使い果たせたことで今の蜃なら殺すことができますが、どうします?」
と聖治は訊いた。
美幸は聖治の問いに悩んだ表情を浮かべ、蜃を見つめながら考え込んだ。
人に幻を見せ混乱させたのは、この妖怪の仕業によるものだ。
だが、美幸の祖先はそれをしなかった。
「天神さん。この蜃も、何らかの理由で生まれ池に住み着いていた。このまま殺してしまうのは何か違う気がするんです」
美幸は答えると、聖治が手にした蜃に向かって話しかけた。
「あなたもまた、この場所で生きているんですね。でも、儀式が不完全だったことで問題が生じました。もう一度正しい儀式を行って、あなたが安息できる方法を選びます」
聖治は美咲の言葉に微笑みを見せる。
「分かりました」
すると聖治は、膝を曲げて蜃を池に、そっと沈める。
「蜃よ。儀式をやり直すそうだ。お祖父さんが退院するまで、今しばらく待て」
と告げる。
すると、沈んでいた蜃が浮かび上がった。蜃は自ら水の上に浮かび上がり、スーっと池の中に消えてゆく。
本の少し前まで龍や亡者が暴れ回っていたとは思えぬほど、辺りは静まりかえっていた。
全てが夢だったかのように思えてくるほど静かな世界だ。
その風景に美幸は安堵した表情で夜空を見上げる。
雲の切れ間から、日差しのように煌々と輝く月が覗いている。
街に平穏が戻ったのだと思えた。
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