寝取られ男と寝取らせ女

すばる良

俺たちの戦いはこれからだ。


「ごめん、好きな人が出来た」


 白化粧が施された山の稜線を眺めながらのことだった。年の瀬の公園のベンチはひんやりと冷たい。吐き出す息は白く、手に持った缶コーヒーの熱も、直ぐに奪われていくようだった。


 大事な話があると呼び出されて来てみれば、やっぱり、そんな話か。

 

「そうなんだ」

「うん。……驚かないんだね」

「薄々察してたから」

「そっか。ごめん」


 謝られる筋合いはないと思う。

 不甲斐ない僕が悪いのだ。


 彼女とは高校卒業直前に付き合い始めて、もう少しで三年になる。

 僕は市内の私立大学に通っていて、彼女は都内の芸術大。

 彼女が帰省して来た時に会うくらいで、恋人らしいことはほとんどしてこれなかった。

 当初こそマメに連絡を取り合っていたものの、だんだんとレスポンスが悪くなってきていたから、これはひょっとするとひょっとするんじゃないかと覚悟していたところだった。

 

 お互い、遊びたい盛りの大学生だ。

 離れ離れに生活していれば、三年というのは愛想を尽かされるのに十分すぎる時間だった。

 むしろ長く持った方だと感心するくらいである。


「その人は僕の知らない人?」

「……うん。ゼミが一緒になって、合宿で、その……」

「ああ、うん。いいよ、それ以上は」

「ごめん……」


 間が詰まると余計なことまで喋ってしまう癖は、どうやらまだ治っていないらしい。

 口下手な僕からすると、それは転じて長所にも思えるところだけど。


 いずれにせよ、この口ぶりからすると、片思いという訳でもなさそうだ。


「実は僕の方も、気になっている人が出来たところなんだ。だからお互い様」

「……そうなんだ。あはは、お互い不誠実だったね」


 まあ、僕に気になっている人なんて居ないけど。

 そういうことにしておいた方が都合が良い。


 僕はベンチから立ち上がって言った。


「これからはまた友達として、よろしくね」

「……うん」


 恋人という縁が切れれば、もう僕と彼女を繋ぎ止めるものはない。

 高校が同じ、地元が一緒、なんていう共通点はすぐに意味を無くす。

 仲の良い友達として振る舞うことは、おそらく永劫ないだろう。

 せいぜい同窓会で青春の思い出として消化するくらいだ。


「……じゃあ、また」

「うん。良いお年を」


 彼女は立ち上がって、僕に背を向ける。


 そうして、あっさりと、僕は人生で初めての彼女を失ったのだ。






 立ち去る“元”彼女を見送って、僕はまたベンチに座り込むと、ぼんやりと山並みを眺めていた。

 

 毎年、年末年始は彼女のウィンタースポーツに付き合うのが恒例になっていたが、今シーズンはたぶん行かないだろうな。

 スキーもスノボもスケートも、彼女が居ないと楽しめない。スキーウェア新調しないでよかった。


……そういえば、仲良くなるきっかけも冬のゲレンデだった。

 高校の冬合宿で、下手くそな僕に嫌な顔ひとつせずにレクチャーしてくれたことは、今でも覚えている。


『――くんって、意外と運動オンチだよね』

『意外とってなんだよ。仕方ないだろ、やったことないんだから』

『いやあ、なんでも卒なくこなすイメージだったから、新鮮で。ペンギンみたいなよちよち歩きになってるよ』


 本当はもっと上の方まで登って滑りたいだろうに、周りに子供しかいないような初心者コースで苦戦する僕に、彼女は楽しそうに付き合ってくれた。


『……別に、無理して僕に付き合わなくたっていいんだぞ。みんなと一緒に上級者コースに行ったって』


 同じ班になった人たちは、ひとしきり僕の下手くそさ加減を笑ってから、ゴンドラで上の方に行ってしまった。

 それは決して悪いことだとは思わないし、僕としてもみんなの足を引っ張るよりは、一人で滑っている方が気楽だ。

 こうして僕に合わせて一人残った彼女のことが不思議だった。


『無理なんてしてないよ。こっちの方が楽しそうだったから、こっちに居るだけ』

『はあ? そんな訳ないだろ』

『んー、じゃあ、ほら。はやく上手くなって私を上まで連れてってよ。今日の目標!』


 それから、僕はメキメキと上達して、合宿が終わる頃には北アルプスを一望出来るほどの高さから、はやぶさの如く滑り降りるほどになっていた――などということはなく、中級者コースをおっかなびっくり滑るのが関の山だった。


『あはは、あんまり上手くならなかったねえ』

『……正直に言うのはやめてくれ。悲しくなる』

『まあ、また今度がんばろ!』

『今度も何も、合宿は今年だけでしょ』

『え? せっかく学校で無料券もらったんだから、また来るでしょ。行かない? 一緒に』

『なんで……』

『悔しいじゃん、だって。笑われっぱなしなんて』


 僕は別に……と否定しようとして、真っ直ぐ僕を見つめる目に射止められた。


『……みんなと一緒に滑ること、もうないと思うけど』

『いいの! きみがちゃんと上手くなって、これなら見返せるなって、私が思えれば』

『なんだそりゃ』


 僕は笑った。


 思い返せば、この時にはすでに、僕は彼女のことが好きだったような気がする。

 真っ直ぐで、前向きで、優しくて、明るくて、そういうところに、僕は好感を抱いたのだ。

 

 それから仲を深めていった僕たちは、それなりに甘酸っぱい青春を経て付き合うことになり――今に至る。


 つらつらと彼女との出来事に思いを巡らせていると、僕を現実に引き戻すように、前方から足音が近づいて来た。


「あーあ。可哀想。せっかく美人な彼女さんだったのに。寝取られちゃうだなんて。あ、美人だから寝取られちゃったのか」

「……きみか」


 もこもこのブルゾンに身を包んだ、大学の同級生だった。

 僕たちの話を盗み聞きしていたことは、問うまでもないだろう。


 どうしてここに居るのか――いや、どうやってここに居合わせたのかは、今後のためにも問いただしておきたいところだけど。


「ね、これでわたしと付き合ってくれるよね?」

「きみの仕業だろう、彼女が浮気したのは」

「……ふふ」


 答えを返さない僕に、にっこりと笑って、さっきまで彼女が座っていた位置に座る。


「なんのことか分からないかな。わたし、そもそもあなたの彼女さんのこと、初めて見たくらいだし」

「そっか。でも、彼女はたぶん、きみのことを見たことがあっただろうね」


 おそらくは僕とツーショットの写真か何かで。


 確証はない。

 だけど僕には確信があった。


 この女が、僕を貶めて、彼女に過ちを犯させた。


 僕も気になっている人が居ると言った時の彼女の反応は、既知の情報に落胆――或いは安堵した時の反応だった。

 友人時代も含めれば、六年近い付き合いだ。そのくらいは分かる。


 彼女からすると、先に浮気したのは僕の方だったのかもしれない。

 僕としては清廉潔白に過ごして来たつもりだったけれど、それを言葉で伝え切ることが出来なかった。

 態度で示すだけの時間は、僕らには許されていなかった――だから、そこを付け込まれた。


 いまどき一人の男のプライベートを偽造することなんて簡単だ。それが知り合いなら尚更だろう。

 虚実を織り交ぜ、都合の良いように改ざんし、一人の女にそれを見せ付ける。

 いかにもメンヘラ女がやりそうな手口だ。


 或いは彼女の傷心に付け込んだ男すら、こいつの息が掛かっているのかもしれない――そう思わせるに足る妖しさが、この女にはある。


 にこにこと笑みを浮かべたまま、何も言わない。


「……いいさ。悪いのは繋ぎ止められなかった僕だから」

「あはっ。わたし、あなたのそういうところ好きだなあ」

「僕はきみのそういうところが苦手だよ」


 最低だ。本当に。

 これまで出会った人の中で、一番。


 深海を思わせる瞳に見つめられると、純粋な恐怖が湧いてくる。


「……なんでこんなことをしたんだ」

「さっきも言ったよね? 付き合ってほしいって」

「だから僕が彼女と別れるように誘導したのか」

「うん。……あ、うんって言っちゃった」


 軽薄な反応にふつふつと怒りが湧いてくる。

 罪悪感なんてカケラも感じられない。


「あなたが浮気してるって知って、相当ショックだったんだね。落ち込んでるところに優しくしたら、ころっと堕ちたみたい。あなたは浮気なんてしてなかったのにね」

「――……」


 今のは、危なかった。

 思わず手が出てしまうところだった。


「それで、返事は聞かせてくれないのかな。それとも、ちゃんと言った方がいい? あなたが好きです。わたしと付き合ってください」


 ああ。

 僕の負けだ。

 観念する。

 こんなサイコパス女に勝てる訳がない。


 だいたい、僕がこいつと知り合ったのはつい三ヶ月前のことだ。

 複数サークル合同の交流会に参加したら隅っこの方にこの女が居て、一度話しかけたのが運の尽き、気付くと付き纏われるようになっていた。

 その頃から彼女との仲に暗雲が立ち込めて、今日に至っている。

 たった三ヶ月で、僕と彼女は破局させられたのだ。


 これから僕が別の彼女を作ったとして、こいつはまた同じことをするだろう。

 手を変え品を変え、破局するように誘導するのだろう。

 飽きるまで。

 僕への執着が消えてなくなるまで。


……だったら、そう。

 もう諦めて、いっそのこと、この女と付き合ってしまってもいいかもしれない。

 どうしてこんなにも僕に執着するのか分からないが、一度手に入ると途端に飽きて捨ててしまう、なんていうのもよく聞く話だ。


 僕は立ち上がった。


「分かった。いいよ、付き合おう」


 ただし、と僕は言う。

 偉そうに、上から目線で、見下すように。

 宣言する。


「僕は浮気をする。めちゃくちゃする。彼女が居ることなんて気にもせず、可愛い女の子が居れば手当たり次第に声を掛けるし、上手くいけばそのままホテルに行く。さらに相手が床上手なら、そのまま寝取られてしまうかもしれない。それでいいなら、僕ときみは恋人同士だ」

「…………ふぅん」


 僕はこいつに、大切な彼女を奪われた。

 だったら、今度は僕が奪う番だ。


 今度は――僕が僕を奪わせる。

 能動的に、僕は僕が寝取られるように仕向けよう。


 この女にも、僕と同じ目に合わせてやる。


「あは。いいよ、それでも。わたし、絶対にあなたを奪われないから。誰にも渡さない。寝取りなんて許さない。他の女なんて目に入らないくらい、わたしにイカレさせてあげる」


 立ち上がった女に、きつく抱きしめられる。

 甘ったるい香りと共に口腔を犯される。

 ぞっとするほど昏い瞳に、僕への好意だけが溶けていた。

 

 立ち向かう勇気も、振り払う力も、受け入れる度胸もない。


 ただ、他の女の腕の中で、ざまぁ見ろと、見返してやるくらいは、出来ると思うから。


 僕は諦めて、力を抜いた。




 こうして。

 彼女を寝取られた僕と、僕の彼女を寝取らせた女の戦いが、始まった。


 

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