理由
松野さんの家のそばまで来たとき「お姉さんの部屋、見せてもらってもいいか」と言った。
松野さんはうなずいた。
2人で家の中に入り、綾乃さんの部屋がある2階へ上がった。
「掃除はしているけど、基本的にお姉ちゃんが生きていた時のままだから。なんか、まだ死んだって感じしないんだよね」
松野さんの言う通り、制服はまだかけてあったし、ベッドも置いてあった。帰ってこない人を待っているようで少し怖い気持ちになった。
おれは本棚を見た。
「本当に参考書や問題集くらいしか、本がないんだな」
「そうでしょ。小さい頃からなの。図鑑とか辞書とかは色んな種類のものを買っていたけど、小説とか物語があるものには興味がないようだった。小さい頃は姉の部屋に入るのが嫌だった。なんだか理由はわからないけど、空虚な空間に見えたから。でも、今の私の部屋はこんな感じなんだけどね。私の部屋も見る?」
「いや、今日はいいよ。あの事件まであまり本を読まなかったおれでさえ10冊程度部屋に持っていたけどな。流行っていた本で友達と話しを合わせるためだけに買ったやつだったけど」
おれは松野さんの話を聴いた時からずっと、考えていた。綾乃さんはなぜ死んでしまったのかを。少なくても松野さんだけのせいではないはずだ。
「お姉さんから言われた言葉で印象に残っていることとかってある?言葉じゃなくてもいい。何でもいいから印象に残っていることがあったら教えて」
松野さんはおれの質問に戸惑っているようだった。しばらく考えているようだったが「読書感想文…」と小さな声で言った。
「読書感想文?」
「私、本を読むのは好きだったけど、読書感想文を書くのは苦手だった。お姉ちゃんはすごく上手で、どうしたら、お姉ちゃんみたいな文が書けるのって私が言ったら、お姉ちゃんは『読書感想文は法則なの。大人が喜ぶようなものを書けばいいのよ』って言った。そのコツを聞くと『理央ちゃんには教えてあげない』ってはぐらかされた。その時の顔がなんだか寂しそうだったのが、印象に残っている。そう、その時だけじゃない。友達の作り方とか成績の上げ方とか尋ねてもそんな顔された。意地悪でとかそんな感じじゃなかった」
おれは松野さんの言葉を頭の中で何度も繰り返した。法則、大人が喜ぶ。どうして松野さんには教えなかったのか。
おれの中で一つの考えが思い浮かんだ。でも、これを言ったら松野さんを混乱させてしまうのではないか?
しかし、黙っていることが正しいのか。
「これは全部、おれの推測で不愉快な気持ちになったら言ってほしい。お姉さんは松野さんのことうらやましかったんじゃないか」
松野さんはその言葉に「どういうこと、わけがわからないんだけど」と言いおれの顔をみつめた。
「そうだよな。お姉さんは優等生で周囲の人間から絶大な信頼を寄せられていた。でも、それは裏返せば、自分がしたいようにできないってことだよな。常に周りが安心できる行動しかできないわけだから。読書感想文だって、自分の気持ちではなく、周囲が気に入るようなものを書いただけかもしれない」
おれもかつては優等生でクラスメイトや大人たちから信頼されていた。幸せだったが、時々、きつく感じることもあった。もし、お姉さんもそういう気持ちだとしたら…。
おれは国語の教科書を持ち「この中に、読書感想文の例が載っている。これを見れば頭のいいお姉さんなら十分なプロットが組み立てられたはずだ。後は文章に肉付けをしていけばいい」と言った。
「でも、それで周りから評価されるならいいと思うけど…」
「普通だったらそう思うだろう。でも、お姉さんはそれが辛かったんじゃないか。いつも自分の本当の意見を書けない。友達だってそうだ。たくさんの友達がいたって言っていたけど、その中には気に入らないやつもいたと思う。そんなやつとも上手くやっていかなきゃいけない。お姉さんはいつも自分の心を殺していたのかもしれない。誤解を覚悟で言うが、お姉さんは、他者評価は高くても、自己評価は低かったのかもしれない」
松野さんは混乱した表情を続けている。当たり前だ。おれの考えは推測でしかない。もしかしたら言ってはいけないことを言っているのかもしれない。
「松野さん…言いにくいけど、松野さんは、お姉さんに比べれば確かに劣等生で不器用な性格だ。でも、本が好きだという絶対的なものがあった。松野さんが受けていた境遇は大変だったと思う。でも、両親から疎まれ、学校ではいじめられながらも、本を支えにして生きる松野さんを強いと思っていたんじゃないか。お姉さんだったら耐えられないことだったから」
そうだ。松野さんは強い人なのだ。松野さんはそれに気が付いていない。
「『アキの友達』に出てくる充が、自分がモデルだってことも、お姉さんにはわかった。でも、お姉さんと充に違う点があった。それは充が挫折し学校に通えなくなったところだ。でも充にはアキという存在がいた。自分がどんなに弱くても、傷ついても、そばに寄り添ってくれた存在が。お姉さんはそれが自分にいないことに気が付いた。いや、気付けなかった。だから辛かったんだ」
「それじゃあ、やっぱり、お姉ちゃんは…私の小説がきっかけになって」
「正直、それもあったかもしれない。でも、松野さんはお姉さんを傷つけようと思って書いたわけじゃないんだろ」
「もちろんだよ。お姉ちゃんの明るくて優しいところが大好きだったから、それを充に反映させたかった。お姉ちゃんがそんな思いを抱いていたなんて知らなかったから」
「これは、おれの推測だ。混乱させてしまって申し訳ないとは思っている…。けどな、松野さん、これだけははっきり言える」
この言葉だけは松野さんに伝えたかった。
「どんな表現をしても傷つく人はいる。それはその人の気持ちだったり、たまたまその日の気分かもしれない。小説家が、読者全員の気持ちを思いやるというのは不可能だ。それでは物語が生まれない。お姉さんだってそう考えられたら良かったんだ」
綾乃さんのことをせめてはいけないとは思う。でも、松野さんを絶望に追いやったことを考えると、綾乃さんの決断は間違っていた。
「でも、そう言われても、私があれを書かなかったらと思ってしまう。春原君の言っていることは理解できるよ。でも…」
松野さんの様子に後悔の気持ちが少し芽生えた。でも、このことを伝えなければ前には進めないような気がしたのだ。
部屋が薄暗い。でも部屋の電気をつけたいという気持ちではなかった。
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