第三話
聖女として求められることは多い。
傷つき、あるいは病に倒れた人々を癒すこと。国に豊穣や平穏をもたらすこと。そして聖女の存在を公に示すためのパーティーに出られるようになるための勉強などだ。
あまり詰め込み過ぎるのはよくないと俺が教育係に言って、二年計画で勉強を進めていくことになった。
十三歳にして初めてまともな教育を受けることになったビアンカ。彼女は最初こそ戸惑っていたが、教わったという内容を俺が噛み砕いて教えてやるうち、着実に教養を身につけていく。
王子様の友達として恥ずかしくないようにしないといけないから頑張る、と、
「ご、ごきげんよう。この度、聖女になりましたビアンカです」
(足がプルプルする。えーっと、これでいいかな……? 間違ってない?)
昼下がりのあたたかな陽光が窓から差し込む、王宮のとある客間にて。
ちょこんと聖女の衣装であるローブの裾を摘み、ぎこちなくお辞儀して見せるビアンカを眺め、俺は思わず唇を綻ばせていた。
読み書きなどの筆記ができるようになってきたので近頃は所作を勉強中だ。
まだまだ立派と言うには程遠いが、日を重ねるごとにずいぶんと様になってきていたし、俺のためにとそこまで努力してくれたことが本当に嬉しい。
――たとえ、彼女の中で俺が親友扱いでしかないとしても構わなかった。
「うん、しっかりできてる。飲み込みが早いな、ビアンカは」
「王子様が教えてくれるおかげだよ。わたし一人じゃ絶対わからなかった。ありがとう、王子様」
はにかむように微笑するビアンカ。
礼を言いたいのはこちらの方だ。俺の勝手な想いのために聖女になってくれて感謝しかないのだ。
彼女が王宮に来てからというもの、俺の毎日は格段と華やかなものになった気がした。
未だ婚約者候補たちと会わなければならない時間は設けられているし、その時は頭痛がするが……ビアンカの純粋無垢な心で癒してもらえるのなら、それくらい我慢できる。
……だからこの時間がいつまでも続いてくれれば、それで良かった。ビアンカと共に過ごすひとときさえあれば他に何もいらないと自分に嘘を吐けた。
それなのに。
俺とビアンカ、そして護衛しか出入りを許されていないはずの客間の扉は、突然開かれた。
どこまでも禍々しい心を持つ女によって。
「あらまあダイオニシアス殿下、お姿が見えないので探しておりましたら……こんなところにいらっしゃったのですね」
侵入者――高貴なる公爵家の姫は、ビアンカをゴミを見る目で一瞥する。そうしながら一歩、また一歩とこちらに近づいてきた。
この場所については誰にも知らせていないはずだった。
ビアンカと二人きりで会うのが一番安心だが、それだと不貞だの何だの言われかねない。その代わり護衛を立ち合わせているものの、万が一のことさえないように護衛の心の中を覗いて常に監視している。
もちろん公爵家の手の者が部屋の中に忍んでいるというのもあり得ないのだ。
「どうして、という顔をなさっておりますね。情報源はいくらでもございます。どれだけ隠し通しているつもりであったとしても噂というのは回るものです」
(
ゾッとするほど冷たい心の声。
すぐ目の前で向かい合っているのにまるでこちらのことを一人の人間として見ておらず、彼女の瞳の奥には暗黒が広がっているかのように思えた。
「聖女ビアンカの頼みで彼女の礼儀作法を見ていたんだ」
「それが婚約者である
「エカテリーナ嬢、貴女はまだ俺の婚約者候補だ」
俺がそう言えば、美しき姫君は口を三日月型に歪める。
歪めるだけで少しも笑ってはいなかったけれど。
「公爵家の姫たる
それは彼女の本心からの言葉だった。そして同時に紛れもない事実でもある。
だって――もしも他の候補が妃に選出されそうになったら、家ごと、あるいは国ごと潰す準備はすっかり整ってしまっているというのだから。
彼女の目的は俺の妻という地位を手に入れることによって国家を乗っ取ること。そのために手段は選ばないつもりらしかった。
それでも彼女が婚約者候補であることに変わりはない。故に、俺とビアンカの関係性の口を出せる立場ではないのだ。
「聖女とのご関係は存じ上げませんが、いつもそうしていらっしゃるのであれば少々目に余ります。お気をつけくださいませ」
彼女にとっては神に寵愛されている聖女ですら相手にならないという認識だ。
そして一度知られてしまった以上、俺とビアンカの憩いの時間を幾度も破りに来るのだろう。
部屋を出ていく後ろ姿に、思い切り唾を吐きかけたくなるくらい腑が煮え繰り返る。
俺が何をした。ビアンカが何をしたというのだ。
王子という名の傀儡として求められているのは知っている。だからビアンカと過ごすこのひととき以外は婚約者候補とだってしっかり会っていたのに。
(……わたしのせいで王子様が怒られた? わたしが王子様を困らせてる?)
不安そうな顔をするビアンカに、俺は「大丈夫だ」と力なく笑いかけてやるしかできない。
そんな自分がどうしようもなく不甲斐なかった。
俺とビアンカは顔を合わせる場所を毎日のように変えた。
『手に入れられないものなど何一つない』と考え、実際に王家の影を買収している公爵家の姫君には全て筒抜けになっていただろうが、彼女に憩いの時間を邪魔されないための時間稼ぎにはなったと思う。
――だが、ビアンカと過ごしたい一心で、その代償がどうしても生まれてしまうことを俺は失念してしまっていたのだ。
ある日、ビアンカはいつもの笑みをしおれさせていた。
彼女の心を覗き見て……俺はゾッとする。
朝方、差出人不明の手紙を受けて、ビアンカが王宮の一角に赴いた時のこと。
そこに現れた公女は延々とビアンカへの嫌味をぶつけ続けたあと、脅してきたようだ。
『あなた、孤児院の出なのでしょう。
『……どういうことですか?』
『孤児風情が
ビアンカは孤児院に友人はいなかった。
でも、優しい彼女が気に病まないはずがなくて。
「ビアンカ、何かあったか?」
「……大したことじゃないよ。それより王子様、わたしね、聖女のお仕事で少し忙しくなるみたいなの。だから」
ビアンカは声を詰まらせ、言葉を続けられなかった。
(『会えなくなるかも知れない』なんて言いたくない。だってわたし、王子様のためにここに来たんでしょ。でもあの女の子が怖い。孤児院のみんながひどい目に遭わされたらどうしよう)
伏せられた金色の瞳から彼女の苦悶がありありと伝わってきて胸が締め付けられる。
ビアンカが悪いことなんて一つもないはずである。彼女ほど純粋でいい子は他にいない。
でも俺が力強い言葉をかけてやっても、手を差し伸べても、全てを聞かれてしまう。
そうなれば我が婚約者候補に喧嘩を売ることになるわけで、それをビアンカは望まないのだ。
ビアンカに手を出した時点で俺にとっては敵以外の何者でもなくなっていたが。
――どうしたら。どうしたらいい?
わからない。何か手を打たなければならないとわかっているが、あまりに八方塞がり過ぎた。
ビアンカも俺もお互い離れたくなくて、ひっそりと関係は継続。
日を重ねるごとに激しくなる、敵からの悪意と警告から目を背けるように。
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