初恋の日 2024/05/07

「クリス坊ちゃん、お待ちください」

「遅いぞ、メアリー。 早く来い」


 雨上がりの昼下がり。

 私は、クリス坊ちゃんの案内で、山道を歩いていました。

 道は雨でぬかるんでおり、非常に歩き辛く、足取りは重い物でした。

 対して坊ちゃんは、ぬかるんでいるにもかかわらず、羽が生えているかのに進んでいきます。


 あの小さな体のどこに、そんなエネルギーがあるのでしょうか?

 まこと、子供というのは不思議です。

 はっきり言って、生命力に満ち溢れた坊ちゃんについていくのは、至難の業です。


 ですが私はクリス坊ちゃんのお世話係……

 なので坊ちゃんの行くところはどこにでも付いて行かねばいけません。

 そして、今日も『行きたいところがある』と言われ、こうして慣れない道を歩いていました。


「ほらほら、早く来ないと置いて行くぞ」

「クリス坊ちゃま。 危ないです、転んでしまいます」

「大丈夫だよ、慣れてるし」

「『慣れてる』ではありません。坊ちゃまは目が見えないんですよ」


 そう、クリス坊ちゃまは、生まれたときから目が見えません。

 医者にも見せたことがあるらしいのですが、治療は無理だと聞いています。

 それでも、まるで『目が見えているよう』に動けるのは、ひとえに血の滲むような訓練をこなされたからです。

 こんな状態の悪い道もスイスイ行くとは、どれほど過酷な訓練をされたのでしょうか……


 しかし、『目が見えているよう』とはいえ、『目が見えないこと』には変わりはありません。

 なので、私は坊ちゃんが危険なことをしないよう諫めているのですが、一向に言うことを聞いてくれないのです。


 ですが今日は様子が違いました。

「仕方ないな」

 なんという事でしょう。

 坊ちゃんはそう言うと、私の隣にまで走り寄り、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩きだしました。

 今までの坊ちゃんからは想像できない行為です。

 今日もいつもの我がままだと思っていたのですが、どうやら違うようです。

 行きたい場所に、いったい何があるのでしょうか。


 ◆


「あそこだよ」

 坊ちゃんが指さしたのは、小高い丘の上。

「そこから屋敷が見えるんだ」

 坊ちゃんに言われた場所に立つと、確かに屋敷が見えました。

 いつもと違う見え方をする屋敷に少しだけ感動します。

 遠くに見える湖は太陽できらめき、そこに虹がかかっており、とても幻想的な光景でした。


「これをメアリーに見せたかったんだ」

「私に?」

「そうだよ」

「なぜ私なのですか?

 私はただの使用人です。

 坊ちゃんに特別扱いをされる理由はありません」

 すると坊ちゃんは苦笑しながら、答えてくれました


「いつも僕のわがままに突き合わせているお詫びだよ」

 ククッと、年相応に笑うクリス坊ちゃん。

 そして私も、『坊ちゃんも、わがままだを言っている自覚はあったのか』と思い至り、一緒に笑ってしまいました。


「それにさ、他の使用人の奴ら、僕が何か言うとすると嫌な顔するんだぜ。

 そこにいくと、メアリーは嫌な顔一つしない。」

 『我がままを言わなければいいのに』と思いつつも、褒められてとても嬉しい気持ちになります。

 

 と、そこで私は違和感を感じました。

 なぜ坊ちゃんは『嫌な顔一つせず』と、まるで見たかのように口にされるのでしょうか?

 よく考えれば、坊ちゃんはなぜここが『ここから綺麗な景色を見ることが出来る』事を知っているのでしょうか?

 自分の心の中に疑問が湧き上がります。

 これはきっと失礼な質問でしょう……

 言葉にすべきか悩みましたが、思い切って聞くことにした。


「坊っちゃん……」

「お、気に入った? もしメアリーがよければ、また見に――」

「坊ちゃんは、まるで目が見えるかのようにお話になられるのですね」

 坊っちゃんは『しまった』と口に出す。


「本当に……?」

「バレちゃ仕方がない。

 うん、僕は目が見えるよ」

 衝撃的な事実に言葉を失う。


「騙したんですか?」

「待って待って、理由があるんだよ」

「理由?」

 坊っちゃんの必死な声に踏みとどまる。


「相手の考えている事を知るためだよ」

「知るため?」

「普通、人は他人と接するとき感情を隠したり取り繕ったりするんだ。

 円滑な人間関係と、自分の野望のためにね。

 でも相手が目が見えないと分かっていれば、言葉はともかく表情は取り繕わない。

 それはもう露骨に」

「なるほど」


 さっき話題に出てきた『他の使用人』の事を思い浮かべます。

 彼らも口では『喜んで』と言ったのでしょうが、きっと顔に『嫌だ』と書いてあったのでしょう。

 なるほど、それではいい気持ちはしないでしょう。


 しかし、人に嘘をついて、試すような事は褒められたことではありません。

 ですが貴族社会では、いろんな陰謀が渦書いていると聞きます。

 そういうことも必要なのかもしれません。


「旦那様と奥様は知っておられるのですか?」

「そうだね。 逆に知っているのは両親とメアリーだけ」

「三人……」

 旦那様と奥様も知っていられるようです。

 たしかに、家族が知らないと言うのは不自然でしょう。

 ですが他の使用人にバレないというのは、ありえるのでしょうか?


「他の人は気づかないのですか?」

「意外とバレないんだよね。

 先入観ていうのかな、多少変な事をしても『訓練したから』で納得するみたい」

 確かに、思い返せばおかしい事はありました。

 今日だって、ぬかるんだ道をスイスイ行くなんて、普通の人にも難しい事です。

 ですが、私も『訓練したから』で納得してしまいました。

 これも先入観のなせる技という事でしょう。

 

「あの、それでさ」

 と、坊ちゃんが伏し目がちに話しかけてきました。

「目が見える事は、秘密だから……

 黙ってもらえるとありがたいんだけど……」

「大丈夫です。 だれにも言いません」

 私に、他人の秘密をペラペラ喋る趣味はありません。

 このまま墓場まで持ってくことにしましょう。

「そっかよかった。 約束だよ」

 と、坊ちゃんがまっすぐ私の目を見つめてきました。

 坊ちゃんと目があい、私の胸が少し高鳴ります。

 これまで『目が見えない』ことになっていたので、初めて目を合わすことになる坊ちゃんの目は、とてもとても綺麗でした。


「メアリー?」

 少し見とれてしまったことを心配したのか、坊ちゃんが私の顔を覗き込みます。

「大丈夫です!」

「調子悪いなら、少し休む?」

「いえ、問題ありません。早速帰りましょう」

 坊ちゃんは怪訝な顔をしますが、それ以上何も言うことはありませんでした。

 追及されないよう、急いできた道を戻ります。

 それがいけなかったのでしょう。


「メアリー、そんなに急いだら転ぶよ」

「大丈夫で――きゃ」

「危ない!」

 ぬかるんだ地面で滑りそうになったところを、坊ちゃんが手を引いて、なんとか転ばずに済みました。


「大丈夫?」

「ありがとうございます」

「そうか、よかった」

 坊ちゃんは、安心したような顔をされますが、手を離そうとはしませんでした。


「あの、坊ちゃん。手を離していただけると……」

「ダメ、メアリーがまた転んだら危ないからね」

「でも……」

「体調悪いなら言ってくれればよかったのに。 屋敷に戻ったら部屋で休むこと」

「……はい」


 気のせいか、今日の坊ちゃんは随分と優しい気がします。

 坊ちゃんが握っている手から伝わる熱で、どんどんと私の体は熱くなっていきます。

 子供だと思ていた坊ちゃんの、紳士的な振る舞いという、そのギャップに、私の心は、コロリとやられてしまったのでした。

 

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