優しさ 2024/01/27

『優しさ始めました』

 いつも行く食堂に、そう書かれたノボリが置かれていた。

「はあ、やっと始めたのか……」

 どれだけこの日を待ちわびたことか……


 冬は人肌が恋しくなる寒い季節。

 だが人肌が無くても人は生きていける。


 同じように人は優しさが無くても生きていける。

 だからといって優しさが無くてもいいわけではない。

 そう言った理念のもと、この店は毎年冬の初めに『優しさ』を始めるのだ。


 今年の冬は、暖かい日が続き冬がなかなか来なかった。

 出すタイミングを逃して、そのまま忘れていたのだろう。

 あのとぼけた店主の事だ。

 そうに違いない。


 俺は扉を開けて店に入る。

「店主さん、張り紙見たよ。やっと優しさ始めたんだって?」

「ははは、すいません。

 どうにも優しさがなかなか入荷しなくって……」

「忘れていただけだしょ?」

「はは、バレましたか」


 店主は笑いながら、俺を先導して空いている席に案内する。

 この店は小さいので、週末以外は店長一人で切り盛りしている。


 案内された席に着くと、そこには腰痛軽減クッションが置かれていた。

 昨日は置かれてなかったので、わざわざ用意してくれたのだろう。


 腰痛に悩まされる俺のために置かれているクッション。

 先日、腰痛が辛いと言ったことを覚えていていてくれたらしい。

 このさりげない優しさが憎い。


「外は寒かったでしょう。ご注文の前にこちらを」

 そう言って差し出されたのは、ホットミルク。

 受け取って飲めば、体の芯から暖まっていく。

 優しさが体の隅々までいきわたる。


「ご注文が決まってますか?」

 店長は頃合いを見計らって注文を聞いてくる。

「今日は中華定食で」

「かしこまりました」

 そう言って店長は店の奥に入っていく。

 料理を作るために、厨房へいったのだ。


 料理が来るまで時間があるので、店の中を見渡す。

 すると暖炉に火が入っているのが見えた。

 昨日来たときは点いてなかったので、今日からなのだろう。


 冬の間、ずっと点ければいいのにと思うのだが、なかなか掃除が面倒らしい。

 この暖炉は、店で『優しさ』をやっている間だけの期間限定のものなのだ。

 暖炉から何か優しさ的なものが出ている気がする。

 掃除が面倒でも、『優しさ』をやる間だけは点けるというのは納得である。


 どれだけ見入っていたのだろうか、店主が店の奥から出てきた。

「お待たせしました」

 目の前に料理が並べられていく。


「今、『優しさ』が期間限定で100%増量しています」

「見た目変わんないけど」

「大丈夫ですよ。きちんと入ってますから」

「本当?違ったらSNSで炎上させるから」


 もちろん本気じゃない。

 優しさなんて入っていなかったところで、分かる人間なんていない。

 店長もそれを分かっているので、一緒に笑う。


「こちらサービスになります」

 そう言って、店長はあるものを置く。

 中華定食のデザート、俺の大好物の杏仁豆腐だ。

 これ自体は、いつもサービスで付く。

 だけど今回は――


「こちらも、優しさ増量中となっております」

 目の前に出されたのは、いつもより大きめの茶碗に入った杏仁豆腐。

 だがこれはこの期間だけのスペシャル杏仁豆腐なのだ。

 これがとんでもなくうまい。


 それもそのはず、店主が食材からこだわった、スペシャルな杏仁豆腐。

 店主のお客様のためという『優しさ』が暴走した結果の杏仁豆腐なのだ。


「ありがとうございます」

 俺は心の底からの感謝を述べる。

 これを毎年楽しみにしているのだ。


 デザートを早く味わうため、定食を手早く食べる。

 優しさどころか、味もまともに分からない。

 定食を食べ終えて、一度深呼吸する。


 スペシャルな杏仁豆腐なのだ。

 慌ててはいけない。


 しっかり精神を落ち着かせてから、ゆっくりと杏仁豆腐を口に運ぶ。

「やっぱり、優しさが入っていると違うな」

 杏仁豆腐は優しさに溢れた味がした。

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