妖怪村の異類婚姻譚

ヨムカモ

第1話

 朝、目が覚めたら、左腕が消えていた。

 痛みはないがそもそも腕自体が無い。小姫こひめは何度も目をこすり、それが幻ではないことを確かめると、ベッドの上で悲鳴を上げた。



 世間から忘れられたような山奥に小さな村がある。そこでは長らく妖怪と人間が共存し、争い事がある時は、調停者と呼ばれる者が両者の仲介を行ってきた。

 その役目を担うのが、小姫の母親である。部屋に駆け込んできた彼女は、十六歳の娘の異常な姿を見て、「あらまあ」と目を丸くした。

 そして、小姫の肩から先が煙のように消えているのをじっくり眺めてから、おもむろに人差し指をピンと立てた。

「これは……、仕方ないわね。小姫、結婚しましょう」

「――はあ!?」

「こんなこともあろうかと、目星はつけておいたのよ」

 話についていけない。何がどうしてそうなるのか。

 母親は説明もなく部屋を出ていってしまい、小姫は呆然としてそれを見送った。

 やがて、彼女がにこにこしながら連れてきたのは、着物姿の長身の青年だった。くりっとした目を笑みで細くし、扇子で口元を隠している。

乙彦おとひこくんっていう、河童の妖怪なの」

 そう言われれば、外に広がる髪ととがった耳が、河童っぽいと思えなくもない。

 乙彦はゆるりと口を開くと、

「母上様の娘にしては、ちんちくりんな小砂利こじゃりなのです」

と妙な口調で暴言を吐いた。首を傾げた拍子に、笹の葉の耳飾りがさらりと揺れる。

「こ……、こんな奴と結婚なんて、絶対にやだ!」

 小姫が断固拒否したのは言うまでもない。



 幸い、その妖怪としばらく握手をしていただけで、小姫の左腕は元に戻った。彼が帰った後、小姫に起こった現象を母親が説明してくれた。

 彼女によると、小姫にも妖怪の血が入っていて、その妖力が足りなくなったために体を構成できなくなったのではないかということだった。乙彦からその手を通して妖力を分けてもらい、それで小姫の腕は回復したらしい。

「ほら、うちの村って、以前はほとんどの人に妖怪の血が混じっていたでしょ? もしかしたら小姫はその血が濃くって、私より妖怪の部分が多いのかもしれないわ」

 調停者の娘だからその方面の知識が多少はある。だが、自分にも妖怪の血が流れているとは初耳で、小姫は割とショックだった。

「最近はその血も薄くなっちゃって、妖怪自体見えない人もいるし、いさかいも増えてきたじゃない。妖力を補うために結婚してくれなんて言っても、協力してくれる妖怪なんていないのよ。その点、乙彦くんは、昔小姫に命を救われたからって協力的だし」

 妖怪を助けたことがある、という話は聞いていた。しかし、小姫にはその記憶がない。

 それよりも、結婚相手としては、あの態度がまず論外だ。

「私の理想は、格好良くてスタイル良くて優しい人なの!」

 小姫は持論を展開した。王子様みたいな人とマンガみたいな恋をして、都会でバリバリ働きながら結婚するという夢があるのだ。こんな状況で結婚なんてありえない。

 ――しかし、次の日には左足が消えていた。

「な……、なんで……」

 絶望し、真っ青になった小姫に母親が言った。

「あらあ。やっぱりあれじゃ、一時的な効果しかないわね。この調子だと、そのうち体の半分くらいが消えちゃって、外歩くときは等身大の鏡を持ち歩かなきゃいけなくなるかもしれないわ」

 こんな風に、と実際に鏡を持ってきて、体の中心にあてて見せる。鏡に映る方の手足をひらひらさせて、飛んでいるように見せる彼女に向かって、小姫は叫んだ。

「そんなバカな!」

「小姫。こうなったら観念しなさい。結婚が嫌なら婚約だけでも効果はあるから」

 どうやら妖怪とは口約束だけでも強く結びつくものらしい。

 背に腹は代えられない。小姫がしぶしぶ承諾すると、母親はすぐに乙彦を呼んで契約を交わした。

 おかげで嘘のようにすんなりと左足が元に戻ったが、初対面がアレなだけに、小姫はジトっとした目で彼を睨む。

「これはただの時間稼ぎだから。他の方法が見つかったら、すぐに婚約は解消だから!」

「私も人間と婚姻なんてごめんなのです」

 乙彦の細められた目と小姫との間で火花が散る。

 それを、母親が微笑みながら眺めていた。



「私の夫になる人はね、女の子をお姫様みたいに扱って、いつも甘くて優しい言葉をかけてくれる、王子様みたいな人なの。そして、星空の見えるレストランでプロポーズしてくれるわけ」

「また小砂利が何か言っているのです。こんなちびのくせに生意気なのです」

 うっとりと語る小姫の頭を、乙彦がぺしぺしと扇子でたたく。小姫はズレたピンの位置を直しながら、その扇子を振り払った。

「だから、こういう、乱暴で失礼な奴は論外なの! 大体、あんたの妖力でっていうけど、あんた、そんなに大物なの!?」

「力でいえば、中の上ってところなのです」

「なんだ。大したことないじゃない」

 小姫は自分の成績が中の下であることを棚に上げて言い捨てた。

 ここ数日、高校への登校時と下校時に、乙彦が同行することになっていた。その間、手をつなぐよう母親から言われており、乙彦のとがった爪と意外に骨ばった手がちょっと痛い。しかも血液が通っているのか不安になるほど冷たくて、人との違いを痛感させられる。

 土手道を自宅へ向かって歩いていると、やおら、乙彦が足を止めた。何気ない素振りで扇子をふと川へ向ける。

 すると、突如として水柱が激しく立ち上った。水しぶきを浴びた子どもたちが悲鳴を上げて雲の子を散らすように逃げていった。

「お、乙彦!?」

 妖怪お得意のいたずらか?

 小姫は注意しようとしたが、乙彦の後をついていくと、そこには小さな妖怪がいた。鼠のような形で、体中傷だらけで泣いている。

「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」

窮鼠きゅうそなのです。最近はよくあることなのです」

 乙彦は当たり前のことのように言った。

 思えば昨日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で振り落としたので無事だったが、妖怪と人間のいさかいは日常茶飯事なのだろう。母親も時折愚痴ぐちるそのことを、乙彦と過ごすこの数日間で小姫は痛切に感じていた。

 乙彦が何度か撫ぜると傷が消えていき、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。

「助けていただいて、ありがとうございます。ただ、水浴びをしていただけなのに……」

「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」

 乙彦は無情にそれだけ言うと、あとは振り返りもせず帰路に戻った。

「ちょ……、ああもう、乙彦がごめんね、慣れなくてもいいんだからね! 今度何かあったら、私のお母さんに言ってね!」

 小姫は慌てて乙彦を追う。眉を吊り上げて横に並んだ。

「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」

「事実なのです。慣れなければ……ここでは生きていけないのです」

 その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は彼の顔を覗き込んだ。彼はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑けんのんな光を隠しきれていないように見えた。

 そう言えば、昨日、石を振り払った時も、こんな目をしていた。

「乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」

 小姫は思い切って聞いてみた。

「……嫌いではないのです」

「それ、嘘でしょ」

「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」

 皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、また小姫の手を取って歩き出した。それきり、何を聞いても答えてはくれなかった。

「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」

 乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。「ヒメ」というのはどうやら自分のことらしい、と判断して、小姫は驚きの声を上げた。

「え!? ほんと!?」

「本当なのです。知りたければ、明日、ついてくるのです」

 ただし、母上様には内緒で、と乙彦は付け足した。

 明日は土曜で学校は休みだ。なぜ内緒なのかは不思議だったが、結婚しなくていい方法があるならば知りたいに決まっている。

 小姫は大きくうなずき、乙彦が目を細めてそれを見やる。

 今日は家の中まで入らずに、乙彦は去って行った。冷たかったはずの乙彦の手なのに、離されるとむしろ、うす寒く感じた。



 次の日、約束通り昼すぎに乙彦が迎えに来た。山を登るから動きやすい服にするよう言われ、小姫はしぶしぶ着替えてくる。

「山って……、もしかして、この間、土砂崩れのあった?」

「今はもう安定しているから平気なのです」

 そうはいっても危険なのではないかと思ったが、乙彦は構わず歩き出す。おいて行かれそうになり、小姫は急いであとを追った。

 川の上流に位置するその山には、ハイキングコースが設えられている。が、乙彦は早々にその道を外れた。けもの道だが、枯れ木や小さな岩がやたら落ちているくらいで、思ったほど荒れてはいない。崩れた場所も、記憶ではもっと奥の方だった。

「私の家も、この山にあるのです。今回は無事でしたが、そろそろ潮時かもしれない。今後はおそらく、自然災害が頻繁に起きるようになる……。この山を守っていた岩の神も、とうとういなくなったから」

「え? それって――」

「この地を捨てたということなのです」

「え……」

 それ以上尋ねても、乙彦は何も教えてくれなかった。

 次第に山道が急こう配になってくる。荒い息をついていると、乙彦が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。しかし、そこをすぎるとすぐに手を離してしまう。

「……乙彦、私のこと嫌いでしょう?」

 離された手を見つめながら問うと、乙彦は振り返らずに答えた。

「命の恩人を嫌うはずがないのです」

「それ、本当に私なの? 全然覚えてないんだけど」

「あの時は私だけでなく、ヒメも危ない目に遭ったのです。記憶がなくても仕方がないのです」

「危ない目って?」

 乙彦はまた無言になった。そのまましばらく歩き、やがて、小姫に手を伸ばして腕をつかむ。力を入れて、一息に自分の隣に引き寄せた。

 小姫は下からの強い風に、とっさに髪の毛を両手で抑えた。風の吹いてきた方に目を向けて、思わず歓声を上げる。

「うわあ……!」

 それほど高くはない山だ。いつの間にか頂上まで来ていたらしい。

 眼下には幾重にも重なる山肌が一望できた。迫力に圧倒されてふらつくと、乙彦が腕を背中に回して支えてくれる。

「あ、ありがとう……」

「……こっちなのです」

 親切なのかと思いきや、またもすぐに手を離して踵を返した。

 乙彦は確かな足取りで山道を進んでいく。草履なのに危なげなく歩けるのは、慣れているからか、はたまた妖怪だからなのか。

 正直、小姫の方は足の筋肉が悲鳴を上げていたが、乙彦に待ってくれる様子はない。もう少しだからと自分に言い聞かせて、足に力を入れた。

(……はあ、やっと追いついた……)

 一瞬見失いそうになったものの、木々の間に乙彦の着物を見つけ、小姫は安堵した。彼はちらりと振り返っただけで、すぐに視線を前に戻す。小姫が横に並ぶのを待って、崖の下を扇子で指し示した。

「あそこに白い花が見えるのです」

 立って真下を見下ろすのはさすがに怖い。小姫はしゃがんで、そっと身を乗り出した。

 一メートルほど下だろうか、白く透き通るはすに似た花が、そよ風に揺れている。

「あれは、岩の神の置き土産なのです。十年蓄えた妖力で咲く、一輪しか存在しない花……。あの力を使えば、私の力を頼ることなく、ヒメは体を維持できるのです」

 乙彦はそう告げて、小姫をじっと見降ろした。扇子の影に口元を隠し、彼女の様子を観察している。

「あれが……」

 小姫は吸い寄せられるように、這いつくばって右手を伸ばした。しかし、どんなに腕だけを伸ばしても、花のあるところまでは全然足りない。仕方なく、もう少し、もう少し、と徐々に身を乗り出していった。

 ようやく、花弁に指先が触れた。岩を握る左手に力を込め、小姫はまた少し腕を伸ばす。そうやって、がく・・伝いになんとか茎をつかもうとしたその時――。

 小姫を眺めていた乙彦の目に、酷薄な色が宿った。

「――きゃっ!?」

 次の瞬間、支えにしていた左腕が消え、バランスを崩した小姫の体は空中に投げ出された。

 崖から落下しながら、小姫は一縷いちるの望みをかけて乙彦の方へ右手を伸ばす。しかし、彼は助けるそぶりを見せるどころか、身動き一つしない。

(乙彦――……?)

 一枚の写真のように静止する世界の中で、乙彦の口だけが動いて見えた。

 ――さ、よ、な、ら、と。

 その映像を最後に、小姫は意識を手放した。



 小学一年生の夏、小姫は記憶の一部を失った。

 あれは確か、母親に頼まれて夕食の買い物に行った帰り道だった。川の側で同年代の男の子たちが何かをしていて――、気が付いたら小姫は病院のベッドに寝ており、周囲を家族に囲まれていた。

 車に引かれたんだよ、と、後で教えてもらった。出血も多かったはずなのに、擦り傷と数か所の打撲しか見当たらないのは不思議だと、医者は首をかしげていた。

 ――そう言えば、あの時、自分の体に違和感を抱いたのではなかったか。

 左腕のほくろや、赤ん坊のころの傷がなくなっていたような気がして。

 小さい頃のことだし、そのうち、気のせいだと忘れてしまっていた。

 しかし、あれが気のせいではなかったとしたら――。



「――っ」

 かすかな肩の痛みとともに、小姫は意識を取り戻した。視界には、今にも雨が降り出しそうな曇天と、さっきまで立っていた崖が見える。小姫が落ちた衝撃で岩肌の一部が崩れ、あの白い花も巻き添えになったようだ。

(……ああ。これでもう、私は……)

 絶望的な気分で、左腕があるはずの空間に目をやる。

 手をつないでいなかったからだろうか。側にいるだけではやっぱり駄目だったのだろうか。左足がまだ無事なのは不幸中の幸いかもしれない。

 地面が冷たい。山でこれ以上体を冷やしてはいけないと思い、起き上がろうとした。小姫が首をぐるりと回すと、崩れ落ちた岩のかけらや土や草などが散らばる中に、ちらりと白いものが見えた。小姫は思わず目を見開く。

 ――あの、白い花だ。

「……くっ……」

 小姫はうめきながら、きしむ体を右腕一本で起こした。立ち上がってみると、節々が痛むくらいで、左腕以外はどこも問題なく動く。

 白い花は奇跡的に折れても枯れてもおらず、根っこごと地面に横たわっていた。傷つけないよう慎重にすくいあげ、手のひらにそっと乗せる。

 ほっと息をついた。

 触れてみてわかった。内側にあふれんばかりの力を蓄えていることが。

 小姫に流れる妖怪の血のせいだろうか。使い方は、感覚でわかりそうな気がした。

(――そういえば、乙彦は……?)

 周囲には見当たらない。

 周りを見渡しながら少し歩くと、頂上へつながりそうな道を見つけた。ここから上って行けば、先ほどいた場所へ戻れそうだ。右手しか使えない上に、今にも雨が降りそうな天気。すぐにでも山を抜けなければ遭難してしまうかもしれない。

 しかし、小姫はそこを通り過ぎて、木の影や岩の裏を覗きながら周囲を捜索した。

 乙彦のあの様子からして、小姫を見捨てたのは確実だろう。山に連れてきたのも含め、乙彦の策略だったのかもしれない。

 ――だが、花は本物だった。

 結果的に、小姫の傷は大したことなく、目的の物は手中にある。

「――どうして、探してしまったのです……?」

 小さな洞窟を見つけ、中に入ろうか迷ったとき、奥から乙彦の声が聞こえた。小姫は一瞬ためらった後、意を決して暗闇に足を踏み入れた。

 今度こそ命を取られるかもしれない。けれど一方で、そんなことにはならないという気も、確かにした。

 乙彦は、洞窟の壁に背をもたせかけるようにして座り込んでいた。おそるおそる近づいていくと、彼の視線が、白い花と、まだ消えたままの左腕の間を行ったり来たりする。

「しかも、腕も治していない……」

「……このまま別れたら、二度と会えないような気がしたから」

 小姫はまた一歩、近づいた。

「ねえ、教えて。あの時何があったの? ……私は、車に引かれたの?」

 乙彦は荒い息を吐いた。怒らせたのかと思って小姫は肩を震わせたが、暗闇に聞こえる彼の声は、むしろ沈んでいるようだった。

「実は、あの時死にかけたのは、ヒメの方だったのです」

 ――あの夏の日。乙彦は少年たちが騒いでいるところに出くわした。

 どうやら彼らの仲間の一人が川でおぼれているようだった。助けてくれと頼まれ、乙彦は得意の泳ぎでその子どもを岸辺へ運んだ。だが、それは嘘だったのだ。

 不意を突かれて背後から石で殴られた乙彦は、少年たちに取り囲まれた。最初の一撃で頭をやられていなければ、自力で逃れることができただろう。が、乙彦はもうろうとしたまま、棒きれや鞄で叩かれ続けた。

 その時、現れたのが小姫だった。彼女は母に言いつけるぞと彼らを脅し、蹴散らした。乙彦は無事に助けられたのだが――、運が悪かったのだろう。土手にうずくまっている二人に気づかずに、車が突っ込んできたのである。

 小姫はとっさに乙彦を突き飛ばした。そうして、彼女が犠牲になった。

「……あなたはほぼ、虫の息だったのです」

 小姫は左半身を強く打ち、特に、腕と足は見るも無残な状態だった。大量に出血もしていて、このままではほどなく命の灯が消える。そう判断した乙彦は、一か八か、欠損した部分を妖力で補うことにしたのだ。

「まさか、十年たった今も、修復していないとは思わなかったのです」

 想定では、時間をかけて少しずつ、人間の部分が修復され、以前の体に戻れるはずだった。しかし、先日、乙彦が力の供給をやめたとたん、小姫の左腕は消えてしまった。同じく、左足もだ。

 なぜなのかはわからない。もともと妖怪の血が入っていた小姫の体に、想像以上になじんでしまったのか。それとも、意識しなさすぎて、元の形を体が忘れてしまったのか。

「……だから、花を? でも、それだったら――」

 なぜ、私を殺そうとしたのか。

 小姫が飲み込んだ言葉を、乙彦は正確に察したらしい。口元が笑みの形にゆがんだ。

「……あなたさえいなければ」

「……え?」

「あなたさえいなければと、思ったのです」

 小姫は息をのんだ。暗闇の中で、乙彦の目が濡れたように光った。

「人間は、嫌いではないのです。ただ……あなたのことは憎んでいる。あの時、あなた以外は誰ひとり、私を助けなかった。見て見ぬふりをして、誰もが通り過ぎた。それなのに、あなたが……。あなた一人だけが、私を助けたせいで、私は人間を嫌いになれない……」

「――……」

 乙彦は投げ出していた右手を持ち上げようとし――、しかし、そのまま下におろした。

「すべて、あなたのせいなのです。ここを離れようと思っても、あなたがいるから離れられない。だから、私の手で殺そうとした……。あなたが死ねば、いなくなれば、他の土地に移り住んで静かに暮らせると思った。――けれど、それもできなかったのです……」

 先日の土砂崩れをきっかけに、とうとう岩の神もこの地を見放した。乙彦もこれを機に、この村を見限るつもりだった。

 それなのに、この心は、どうしてこうもこの地を離れることをいとうのか。

 乙彦は気だるげに目をそらした。そこでようやく、小姫は彼が動かないのではなく、動けないことに気づく。

「乙彦……?」

 慌てて側によってしゃがみこむと、洞窟の外から入るほのかな明かりで、うっすらと乙彦の体が浮かび上がる。

 着物で隠されてよく見えないが、たぶん、足か腕、または両方とも折れている。しかも、着物ににじんだ血の量はかなりのものだ。

「まさか……」

 小姫が崖から落ちても大した怪我がなかったのは、乙彦がかばったせいだったのか。

 愕然がくぜんとする小姫から傷を隠すように、乙彦は体をずらした。そして、追い払うように腕を振った。

「もう、あなたの体を補うほどの妖力も私にはない。その花をもって、さっさと家に帰るのです。……私も、これで、思い残すことはなくなった……」

 小姫は乙彦の傷に視線を移す。

 思い残すことはないと言いながら、小姫の左足は消えていない。小姫が山を抜けるまで、力を注ぎ続けるつもりなのか。

 自分の命が尽きるとしても。

「……その傷、妖力があれば治せるの?」

「ヒメ。だから――」

「ごめん。私……、そんなに、みんなが苦しんでるとは知らなかった。お母さんの娘なのに、何にもしていなかった。何ができるかわからないけど、これから、頑張るから……!」

 小姫は白い花を彼の胸に強く押し付けた。乙彦が驚きに目を見張る。

「何を……!」

「この花の力、先に使って」

 彼は、静かに終わりを迎えたいのかもしれない。これ以上、人間にかかわりたくないのかもしれない。

 だが、小姫はそんな気持ちのまま、乙彦を逝かせたくはないと思ってしまった。

(私は、乙彦の次でいい。花の力が残るかは、わからないけど……)

 乙彦は慌てて、まだ動く左手で小姫を引き寄せる。力の向かう先を変えようというのか、花もろとも小姫の体を抱きしめた。

 光に包まれ、乙彦の声も小姫の声も聞こえなくなる。お互いのことも見えなくなり――……。

 気が付いた時には、小姫は一人、朝日の差し込む洞窟に倒れていた。



 あれから一週間たった。

 小姫の左腕と左足は消えることなく、今も以前の形を保っている。

 あの花の力なのか、はたまた、乙彦の妖力なのか。どちらなのかは、今のところ不明だ。

 母親にはすべてを話した。小姫の体については、乙彦と似たような見解だった。

「そういうことなら、これから小姫が左半身も自分の体だっていう自覚をもつようになれば、徐々に元に戻っていくかもしれないわね」

 小姫はひとまず胸をなでおろした。花の力だとしたら、いつまでもつか定かではないから不安だったのだ。

 乙彦の行方については分からない。

 この左腕を構成しているのが乙彦の妖力なのであれば、無事なのだろうと安心できた。しかし、小姫に力の違いは判別できない。白い花が消えていたことと、洞窟に残された血の量が少なかったことを照らし合わせて、おそらく自力で移動したのだろうと推測してはいるが。

 小姫の前から姿を消したのは、やっぱり憎んでいるからだろうか。もう、他の土地へ行ってしまったのだろうか。

 学校へ向かう足取りが重い。土手沿いを歩いていると、一週間前は乙彦の冷たい手に包まれていたことを思い出す。

(これから頑張るからって言ったのに……)

 当時の記憶はないけれど、それでも、助けてくれたお礼を言いたかった。今まで見守ってくれていたお礼も言っていないのに。

 緩慢ながらも進んでいた足が、ついに止まった。

 このやるせない思いをどうしたらいいのだろう。お門違いだとわかってはいるものの、川に向かって「乙彦のバカ」とつぶやいてみる。

 すると、

「それは聞き捨てならないのです」

 奇妙な言葉遣いが聞こえると同時に膝からひょいと救い上げられた。小姫は悲鳴を上げて、目の前の体にしがみつく。

「――って、乙彦!?」

「馬鹿はヒメの方だと思うのです」

 乙彦は小姫を抱えたまま、学校へと歩き始める。

「せっかく私の力からも、私からも逃れられるチャンスだったのです。それを棒に振るなんて」

「――っ」

 突然の乙彦の出現に、小姫は動転した。それでも、二度と逃がすまいと首に回す手に力を込める。

「だって、命を助けてもらったのは私の方だったじゃん。乙彦をあのままになんてしておけないよ」

「……また、殺そうとするかもしれないのです」

「そんなの、いつでもできたでしょ。今までずっと、私の側にいたんだから。……乙彦、今まで、守ってくれてありがとう」

「…………」

 トンビが遠くでのんきな鳴き声を上げた。のどかに流れる川の水音と、何かが草の間をカサコソと動く気配がする。

 都会に憧れてはいるけれど、小姫はこの村が嫌いではない。これから母と力を合わせれば、乙彦たち妖怪にとっても住みやすい場所を作れるだろうか。

 乙彦はしばらく黙って小姫を運んでから、わざとらしくため息をついた。そして、観念したように言った。

「仕方ないのです。ヒメが嫌じゃなかったら、私は結婚しても構わないのです」

「うん……。……ん!?」

 ――今、もしかして、プロポーズされた?

「え? ちょ、ちょっと……?」

「こんなお馬鹿な小砂利こじゃり、私が一生面倒みるしかないような気がするのです」

「わーっ! だから、待ってってば!」

(プロポーズは、星空の見えるレストランで! そして、格好良くて王子様みたいな人に、ロマンチックな雰囲気でっていう理想が……!)

 小姫が涙目になっていると、乙彦がにたりと笑って付け足した。

「小砂利の理想はかなえさせないのです」

「あ、甘くて優しい言葉でって言ったのに――……!」

 小姫は乙彦に抱えられながら暴れた。しかし、妖怪の力なのか、痩身なはずの乙彦の腕はびくともしない。

(ち、違う、こんなんじゃない……!)

 小姫の理想の結婚相手は、少なくとも、こんな口が悪くて意地も悪い、横暴な河童なんかではないのだ。

 

 乙彦の言葉に胸が激しく高鳴ったのは何かの間違いだと、小姫は必死に自分に言い聞かせるのだった。

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