第2話
豪華客船の廊下を、陽希は走っていた。雨が降っているようで、船の窓が濡れている。海が再び荒れているようだ。陽希の心臓は激しく鼓動を刻む。呼吸が苦しい。しかし、彼は足を止めることなく走り続けた。そうしなければいけない。陽希の探偵としての本能が告げていたのだ。この事件は、きっと今までにない何かが起こるに違いないと。
こういう時、廊下はとても長く感じる。陽希はシャムネコのように身軽で、本気で急いでいるのに、なかなか目的地に着かなかった。やっとのことで転がるように客室の扉の前に辿り着く。その扉の先にある光景を想像すると、胸が締め付けられるようだった。そして彼は意を決し、扉を開けようとした──
扉は、開かなかった。陽希は、開かない扉のドアノブを、強く握りしめた。そのドアの向こうで、今まさに誰かの命が失われようとしているのだ。ドアを蹴飛ばした。びくともしない。扉を開くための鍵は、ない。しかし、鍵穴はある。
陽希は、穴から中を覗いた。小さく、暗くて見えにくいが、中で一人の青年が倒れているようだった。服装はスーツ、色合いは黒。そのスーツにも見覚えがある気がした。床には大量の血が流れている。天井を見上げる青年の目は開いていて、瞬きをする気配すらない。表情はない。
陽希は必死にドアノブを回し続ける。しかし扉は開かない。叫び声を上げて、何とかドアを開けようともがいた。だが、結局鍵がなければドアは開かないのだ。
「くそっ! なんでだ!」
陽希は頭を掻き毟りながら、扉を叩き続ける。全く開かない。中にいる人が動く気配もない。
ピッキングをするしかないだろう。陽希はピッキングが得意だ。
自分の客室に取って返し、ピッキングに必要な荷物を持って、戻る。
陽希が戻ると、何人か、死体のある客室のドアの前に集まっていた。中央の、ちょび髭の男には特に見覚えがある。この船に乗る前にパンフレットで見た。オーナーの小野坂だ。
小野坂は、陽希を見るなり、声をかけて来た。
「お客様、お部屋にお戻りください」
「いえ、俺は……この客室の乗客の、関係者です」
小野坂がきょとんとするが、「関係者なんです」と、繰り返し、告げる。そう、このドアの向こうにいるのは、まぎれもなく陽希の関係者であった。
「中で人が亡くなっているとか」
オーナーである小野坂の前で、ピッキングでドアを開ける訳にはいかない。しかし、小野坂がいるなら、そんな手を使わずとも済むだろう。
「ドアを開けていただけませんか」
「勿論です、今、マスターキーの手配をして、飛んで来たところです」
小野坂が鍵穴にゆっくりとマスターキーを差し、ドアを、開ける。
それが早いか、陽希は室内にいると思われる人の名前を叫んだ。
「水樹!」
――そう、この客室は、水樹の泊まっている場所であった。中に倒れていたのは、間違いなく、あのロシアンブルーのような髪は、絶対に、水樹だった。陽希は、水樹の名を呼んでも無駄であることを、分かっていた。それでも呼ばずにはいられなかった。
しかし、次の瞬間、陽希が全く想定もしていなかった光景が、室内に広がっていた。
家具も、荷物も、血も、そのままあるのに――水樹だけがいない。鍵穴から見た時、確かに、部屋の中央付近に仰向けに倒れていたのは、水樹だった。メイドも人が死んでいるところを見たと言った。
しかし、本当に、何度目を擦っても、そこに水樹だけがいなかったのである。勿論、生きている状態だとしても、いない。
***
理人は、自身が泊まる客室のベッドに、その細い体を横たえていた。
客室の窓から見える甲板は、嵐の午後らしい荒々しさを誇示している。雷鳴が轟き、波の高さも相当に高い。理人は目を閉じていた。陽希は、その顔を心配そうに覗き込む。理人が落ち着きを取り戻すまで、しばらく時間がかかりそうだ。食事を食べさせても、理人は全て戻してしまっていた。とても苦しそうで、えづくところも見ていられない気分だった。一時、陽希は目をぎゅっと閉じたが、自分がくじけてどうする、と奮い立たせ、理人が落ち着くまで、ずっと背中を摩り、手を握って見守っていた。
えづく声は次第に小さくなり、理人が目を開ける。頬にはまだ涙の痕が残っていた。陽希は優しく微笑む。
「少し食べられそうかな? あ、飲み物を頼もうか?」
理人はゆっくりと頷く。が、それだけで眩暈がしたらしく、一度は起こしかけた上半身をまた、陽希はベッドに横にさせた。
フロントに電話し、ドリンクを持ってきてもらうことにした。その間も、理人の右手を握っていた。離そうとはしなかった。
数分後、部屋のドアをノックする音が聞こえた。陽希が扉を開けると、そこに立っていたのは、船上で知り合った船員の一人だった。陽希は誰とでもすぐに仲良くなれる。少し言葉を交わすと、陽希も張り詰めた気持ちが楽になった。
小声で、連れの人がとても精神的に混乱し、体調を崩していることを伝え、明るく振舞ってくれと念を押した。
船員は手に持ってきたドリンクをテーブルの上に置くと、理人に呼びかけた。
「理人さん、御気分はいかがですか? 飲み物を持ってきたのでよかったら飲んでください」
理人は身体を起こすと、差し出されたコップに口をつける。色々と持ってきてもらったが、理人が唯一口にできたのは、グレープフルーツジュース。それも二口ほど飲んだところで手を止めてしまった。もうこれ以上は飲めそうもないようだった。それでも水分を摂れたことで少し楽になったのか、理人は笑顔を見せた。まだ顔色は良くないが、その笑顔を見て陽希も安心した。再び横になると、理人は陽希に礼を言った。陽希は「気にしないでねぇ」と努めて明るく笑い、理人の髪の額の部分を優しく撫でてやった。
自分もルームサービスで、食事を頼むことにした。メニューは、パスタやサンドウィッチなどの軽食と、メインディッシュを選べるようになっている。陽希はチーズリゾットを選び、理人にも、もし食べられそうなら分けられるくらいの量を頼んだ。十五分ほどで、注文したものが部屋に届くらしい。
「水樹の遺体は……見つからなかったのですよね」
理人は、自分の腹の上に手を置いて、その指を見詰めながら呟いた。陽希は余ったミックスジュースを煽って、それから頷き、言葉を紡いだ。
「うん。俺が行った時は確かにあったのに、次に行った時には確かにあの部屋にはなかったし、船内も探してもらったけど、それらしいものは見つからなかった」
「部屋は密室だった。そして、遺体はなくなった」
「密室殺人に、遺体消失だ。はは、なんかミステリ小説みたい。水樹ちゃんがいたら喜びそー……」
陽希は急に目頭が熱くなるのを感じた。理人が眉を下げて見詰めて来る。心配をかけるわけにはいかないと、笑顔を作ったが、口の端が震えてしまった。
「無理して笑わないで良いのですよ」
理人はその白くて細い手を伸ばして、陽希の髪を撫でてくれた。陽希は、はっと息を呑んで、それから今度こそ、力が抜けた気がして本当に微笑んでいた。
丁度料理が届いた。とろとろのチーズがたっぷりとかかったリゾットは、ほのかに香るバターの匂いが食欲をそそる。上には色とりどりのパセリが散らされ、見た目も美しい。スプーンですくうと中からは半熟の卵黄が溢れ出し、湯気と共に立ちのぼる香りに思わず唾液が湧いてしまう。一口食べればチーズの濃厚な味わいが広がり、バターが追いかけてきた。柔らかい米粒と一緒に食べれば、もう一口食べたくなってしまうほど美味しい一品だ。一度食べると病みつきになってしまうリゾットは、チーズの香ばしさと卵黄の甘さが絶妙なバランスを保っている。一口食べるごとに体が温まり、元気が湧いてくるようだ。何とか頑張れそうな気がした。
「生きることは食べることだなぁ」
陽希が呟くと、理人も眩しそうに笑っていた。ほんのひと匙だけ掬って、理人の口元にもチーズリゾットを持っていく。理人もそれに答えて食べてくれた。
これから、二人で頑張らなければならない。そう二人とも決意を固めた。
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