42 獣の足音

 ところが、胃腸が動くことによってはじめて空腹を意識することもあるのだろうか。私の身体はサラダや唐揚げだけでは物足りないようだったので、もっとカロリーのあるものを求めて再びコンビニへ向かった。


(また出費が……まあでもこれくらいはいいか)


 机の上に食品を並べてふうと息をついた、その瞬間、


「うあああああああッ」


 例の発作だ。今月で何回目だ。幸いにも仕事中に起こることはなかったのだが、なぜか夏休みに入ってから急激に頻度が増えてきたのだ。


「ああッ」


全身に駆けめぐる立っていられないほどの激痛と、滝のように出る冷や汗。私は机を支えにしていたが、それも辛くなって、奥歯をぎりぎりいわせながらがたがた震えて、そのまま床に倒れ込んだ。腕や脚は四つん這いの姿勢に耐えうる力すらも持っていなかった。うつ伏せに寝そべったまま、呻き声も次第に出なくなり、ふうう、ふうう、という飢えた獣のような呼吸音しか聞こえなくなった。


(……肉さえ、あれば、)


 そうだ、生肉さえあればいいのだ。生肉さえあれば、すぐにこの状態から解放される。肉さえあれば。ああ、襲われたのがダイニングでよかった。冷蔵庫は目の前だ。ユッケ肉がチルド室に入っている。私は辛うじて言うことを聞いてくれる体を動かし、ゾンビのごとく床を這って、冷蔵庫の正面に辿り着いた。しかし、


(どうやって立ち上がる)


 まだ自分の意志通りに動くとはいえ、私の肉体には己の質量を支えられるほどの活力は残されていなかった。僅かでも腕や脚を上げようとすると、ナイフで突き刺されたような痛みが五臓六腑に回る。それを我慢できても、今度は上げていたはずの手足が自然と下がってくる。重い。まるで上から何かに強く押さえられているかのように重い。私は一刻も早く、肉を食べなければならない。だが、この状況では、諦めざるを得ない気がしてきた。


(……)


 生肉以外の解決策はただ一つ、数滴でもいいから血を飲むこと。しかし、これまでにそんなことをしたのは片手で収まるくらいで、ほとんどは生肉で済ませることができていた。二か月ほど前は運よく鼻血が出てきたが、今回はそんな簡単にはいかない。わざと鼻をぶつけてまた出血させるのも不可能なくらい、体も頭も押し付けられている。となると——


(もはやをするしかない)


 あれは、あのときから、もうやらないと決めていた。自分を生かしているのか殺しているのか分からないあれをやったあの日以来、こんなことは二度とするものかと思っていた。が、今は、生肉を封じられている。もはやあれ以外に術はない。それに、家の中で人目を気にする必要もないのだから、もうやってもいいのではないだろうか。そうだ、それしか方法はないのだから。だが、そうすると、また隠さねばならないことが増える。


(……ああ)


 ああ、私は、私はいつまでほんとうのことを隠し通せばいいのだ。いつまで闇の中に生きればいいのだ。私のほんとうのことを知る者はこの世に誰もいない。第二の母のような藤井さんでさえ、私の実際については、恐ろしいほどに無知なのだ。これほど辛いことがあろうか? これほどむごいことがあろうか? 人々が見ている私とほんとうの私は全く違う。ほんとうの私はこんなにも醜い、バケモノだ。肉を喰らい、血を啜らねば健全に生きていくことすらままならない怪物なのだ。いま私が背後にひっそりと抱えこんでいるものは、人々が知れば、きっと彼らを恐怖させ、私の精神がずたずたになるまで激しく糾弾させうる。そういうものだ。——私は怖い。真実を知った人々がどんな目で私を見るのか。私はどんなふうに滅びていくのか。考えるだけで視界が滲んで、霧に包まれた険しい岸壁に足先をかけているような心持になる。


 だが、今の私には、そんなことを延々と思考している余裕はなかった。早く解放されたい。早く人間に戻りたい。私は同じ姿勢のまま、ゆっくりと右腕を眼前に出し、犬歯を少しカチカチいわせた。感覚的な問題かもしれないが、発作に襲われているときは、犬歯がいつもより鋭くなっている気がする。今回も例外ではない。


(……よし)


 私は獣の息を鎮めた後、咆哮ほうこうのような声を上げて思い切り自らの白い肉に噛みついた。歯が皮下に達してその中でもぞもぞ動く。あまり強く噛みすぎると皮膚の組織ごと引きちぎってしまうので、すぐに顎の力を和らげた。やっていることの割に痛みはさほどなかった。局所麻酔が効いているような感じだった。

歯を肉からずるっと抜くと、じわーっと赤黒い血が湧き上がってきた。上の犬歯の方が長いのだが、下も普通の人よりは幾分か大きく、噛みついたときにある程度の力が加わっていたのか、腕には四か所の傷に加えて前歯の痕がくっきりついていた。私はその全てを口で覆うようにして、出てくる体液を吸った。相変わらず鉄の味がして不味い。だが、私は啜り続けた。こうするよりほかに解決策がないからだ。しかし、


(……おかしい)


 おかしい。これだけ飲めば十分なはずなのに、まだ感覚神経は痛みを伝えている。生肉と比べて即効性があるはずなのに、まだ脂汗が止まらない。……なんだか視界が暗くなってきた。どうしてだ。私は目玉を変にぎょろぎょろさせながら傷口をべろべろ舐めて、嵐が過ぎるのを待った。

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