28 高揚

「ほんとだ。まだ帰ってきてないのかな」


「何秒過ぎてる?」


「えっと……ベストから三十」


「なにしてるんだろ。ちょっと見に行ってきてもいい?」


「はい」


「あたしも行く」


「ありがと」


 連れだって外周を逆回りに進もうとする彼女たちだったが、歩き出さないうちに向こう側に人影が見えた。


「あっ、あれユキちゃんじゃない?」


「ほんとだ。なんか足引きずってる。ユキちゃーん」


百メートル先の人物は手を振っているが、足元がおぼつかない。ちょっとした段差ですぐ転びそうだ。


「わあっ、膝からめっちゃ血出てる」


その場にいた全員がそちらを見た。うち数人がその子のもとへ駆け出した。私はマネージャーの生徒にティッシュと水分を持ってくるよう頼んだ。


 ユキさんは両脇を仲間に抱えられながら正門まで戻ってきた。


「大丈夫ですか」


「はい。ちょっと月のもので……」


「ああ。血が足りなくなってふらついて、それで転んじゃったのかな。僕もよくあります。とりあえず保健室でゆっくりしましょうか。あっ、かなり垂れてきてますね」


私は彼女のひざ下から流れている赤く太い筋を見つけた。その瞬間、生唾がどばっと出てきて、危うく傷口に吐きかけそうになった。私は汗を拭うふりをして咄嗟に腕で口元を押さえた。


「……一回あっちの水道で流してティッシュで押さえましょうか」


 私は持ってきてもらったボックスティッシュで彼女の怪我のすぐ下から足首を拭いた。傷は小さいが深さがあるのか、まだじわじわと赤い体液が滲んでくる。


「先生、私たちが保健室まで連れていくので、先に戻っててください。終わったらすぐ行きます」


「分かりました。よろしくお願いします」


三人を見届けた後、私は手にしていたティッシュをズボンのポケットに入れた。周りには誰もいなかった。




 職員室に帰ってきたのは十二時過ぎだった。幸い、部活動は無事終了し、ユキさんの体調も回復した。一仕事終えた後の冷房はとても爽やかだった。だが私の体は火照ったままだった。


「ちょっと着替えてきます」


 私は真っ先にトイレに駆け込み、個室に籠った。ポケットから出したティッシュはくしゃくしゃで、至る所に血痕があった。もしかすると服の中も汚れているかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。私は一番血液のついていそうなところを探って、その部分をサンドイッチのように三角形に折った。空気に触れたためか、さっきよりも若干黒ずんで見える。私はそれを凝視した。


 今目の前にあるのは他人の血だ。そう思うと気味が悪い。しかしじっくり観察していると、なぜかその深紅の模様が美しく見えてきた。引き込まれるような紅。鮮紅でもない、赤褐色でもない、人間の静脈血特有の色彩。赤という言葉で表現するにはあまりにも奥が深いこの色調。大量の唾液が再び口腔内を満たす。心臓がどかどかと高鳴る。まるで初めて告白に成功したかのような喜ばしい高揚。美的かつ性的な恍惚。エクスタシー。ああ、かつて人間の血液の色をこれほどまでに美しいと感じたことがあっただろうか。また興奮したことはあっただろうか。自分の血では気づきもしなかった価値を、まさかこんなところで発見するなんて。


 私はしばらくその赤黒く染まった三角形に陶酔していた。すると突然、ある考えが頭をよぎった。それは半ば無意識だった。


(……しゃぶる)


 私はティッシュに鼻を押しつけた。鉄の匂いも何もしなかった。拭いてからだいぶ時間が経っていたので、全体的に血の気配は薄れていた。


(……)


長らく食事をしていなかった狼のようによだれがどんどん出てきた。体がそれを口にしたがっている。明らかに血を欲しがっている。——ああ、なんだか、目の前が暗くなってきた。脳貧血を起こしたようだ。頭痛も目眩もする。ああ、このまま意識がなくなるのだろうか。それだけは避けなければ。このことを他の人に感づかれてもいけないのだ……あ


(痛っ)


 ふらついたはずみで個室の扉に思い切り背中をぶつけ、そのまましりもちをついた。足に力が入らなくなり、立ち上がることもできなくなった。しかし、そんな朦朧とした状態であるのにもかかわらず、私の手や口は私の意志に関係なく動いて、視界の中央にある他人の血に吸いつこうとしているのだ。目も頭もそれを認識している。なのになぜか自分では止められず、いよいよその「自分」でさえも体から追い出されようとしていた。

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