第6話 それでは愛とは何か【2】
「上告を棄却する。」
その声が響き渡った時、鈴木道忠の妻は歓喜の雄たけびをあげ、私は膝から崩れ落ちた。溢れる涙の隙間から優しい夫の姿が見えた。諦めたように笑っていた。
「分かり合うことを放棄してしまったことが悲しいんだ。」
夫はよく言っていた。この狂った世界は、本当に優しい夫を傷つけていった。
夫と私は数少ない、薬を飲むことを拒絶していたプライドだ。世の中では、薬を飲む人を「ピースフルピープル」とか「ピース」と呼び、飲まない人を「反薬派」とか「アンチ」というけれど、私たちは自分たちのような薬を飲まない人間を「プライド」と呼んだ。人の尊厳を守る、プライドを持った人間たちだと。
私の両親もプライドだ。優しくも厳しい両親に私は育まれた。「自分を強く持て。人はみんなそれぞれ個性を持っている。その唯一の個性を薬なんかに売り渡してはいけない。」そういって、私を育てた。そんな二人を私は尊敬している。
夫の両親も元はプライドだったが、彼の父は犯罪を犯した。窃盗だ。プライドにはベーシックインカムがない。それゆえ、貧しい人がとても多いのだ。けれど、窃盗でもなんでも今この国では更生薬を飲まなければならない。そして、更生薬を飲むようになった彼の父は変わった。激しく自分の罪の意識にとらわれ、静かな人になった。彼の母は、最低限のお金をもらうために薬を飲み始めた。そして二人とも変わってしまったと夫は言う。
「二人ともね、短気な人たちではあったんだ。だけど、優しいところもあったんだよ。ご飯を食べる時に、僕に一番大きいものをくれる程度に。ところが今は全部僕にくれるんだ。残ったものを食べるっていうんだよ。気持ち悪くてしかたないんだ。まるで愛が作られたみたいで。」そう語る夫はいつもとても寂しそうで、私は胸がきゅっとなって、いつも静かに抱きしめた。この人をずっと守っていきたいと、強く強く思っていた。
結局は守れなかったのだけれど。
会社を立ち上げると聞いた時、驚いた。一緒に立ち上げる鈴木道忠がピースだったことだけでなく、会社が薬と飲んでいる人と飲まない人が話し合える場を設けるものだったからだ。今更、だと思った。ピースとプライドの間に入った亀裂は深く、どうしようもないところまで来ていたから。居住区を決める法律ができた時、プライドは喜んだ。そもそも現時点でプライドは貧しい人間が多いので居住区は必然と決まっていたのだ。しかもプライドが集まることはピースの「無視」という差別から逃げることができる。さらに犯罪を犯しても薬を飲む必要がない。つまり、プライドの「楽園」ができるのだ。プライドが怖いのは「犯罪」ではなく、「個性というプライドの消失」なのだから。だからそんな会社を今更作ったってしょうがないと思った。
「分かり合おうとすることを放棄したくないんだ。それに、道忠はなんというかちょっと違うんだ。他のピースと違って、性格がのっぺりしてないんだ。プライドと同じように人間としての葛藤が残っている。彼となら何か新しい道が作れそうな気がするんだ。」
そういう夫は嬉しそうで。私は承諾した。それが間違いだった。鈴木道忠という男は人間らしいのではなく、不安定だったのだ。毎日言うことが変わる、道忠の言動に夫は振り回され疲弊していった。やがて夜の営みを拒否する夫を不信に思い、服をまくり上げると、無数のあざがあった。殴ったのは、道忠だ。私は夫を止めた。通報しようと言った。けれど夫はかたくなに了承しなかった。「諦めたら終わってしまう。」それほどに、夫はプライドとピースの共生を望んでいた。
それは居住区への移動が決まると、夫は今やピースとなった両親と別れなければならないことを、その情熱が夫の両親への愛なのだと、もっと早くに気づいていれば何か変わっていただろうか。
結末は、鈴木道忠がプライドへの飲み物に薬を混ぜていたところを夫が見つけ、口論の上、殺してしまった。
「結局、短気なところは親からもらっていたのかな。」面会に行った時、夫は悲しそうに言った。短気なんかではない。少なくとも夫は5年も、鈴木道忠の横暴に耐えた。
殺人は犯罪だ。それは間違いない。そこを許してもらおうとは一切思っていない。実際に、鈴木道忠の妻は裁判のたびに疲弊していた。どんなに完璧なメイクを施されても、それはよくわかった。それでも裁判の席に立つ彼女に胸が痛んだ。私はどこかで、ピースの愛情を疑っていた。薬で作られたまがい物だと。けれど、違った。鈴木道忠の妻は本当に夫を愛していたのだ。震える手を抑え裁判の場に立ち、終わるとそっと涙を拭いていた彼女は、私が夫を殺された時に取るだろう反応と同じであった。
彼女にとっては愛しい夫であったのだ。それは本当に申し訳ない。申し訳ないでは済まされない。私は夫を意地でも鈴木道忠から引き離さなければならなかったのだ。ただ、ただ、どうしても。どうしても私は伝えたいのだ。夫は鈴木道忠に追い詰められていたことを。それがどうしても伝わらないのだ。夫の体には道忠から受けた傷が捕まった当初ちゃんと残っていたのに、それを道忠が行ったものだと認められなかった。なぜか?道忠はピースだからだ。ピースは人に危害を加えない。だからその傷は私が行ったものだと言われたのだ。そんなバカなことがあるか。何度も何度も主張した。でも認められなかった。なぜか?私がプライドだからだ。
せめて、せめて、今日棄却されなければ、夫と私は場所を変え二人で生きられた。二人で鈴木道忠への罪を背負い静かに生きる。それは鈴木道忠の妻には許しがたいことだとは思うが、せめて夫のまま、私のまま、罪を贖いたかった。
その道は今、閉ざされた。夫は更生薬を飲むだけでなく、4年間刑務所に入らなければならない。そして私は、居住区にいかなければならない。
裁判の後、私は、薬の服用を決めた。ここで夫の帰りを待つために。そして、ピースになれば、私の言葉ももしかしたら届くかもしれない。いや、届かせてみせる。
待っててね、貴方。貴方への愛は薬なんかに負けやしない。
3年後、政府は大規模な夫婦間の薬の明記間違いと、薬が違うことにより起こる凶暴性を認めた。その中に鈴木道隆夫妻の名前もあったが、この事件を蒸し返すものはいなかった。
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