BGM spin-off story Desert and Ice.
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1.Who Moved My Cheese?
「Morning! Haru.」
ニュース・スタンドの奥からのしゃがれた挨拶に、青年は軽く片手を上げた。
「Good Morning.Tony.」
流暢な英語で答えた青年に、雑貨とカラフルな菓子袋の砦に閉じ込められているようなヒスパニックの老人は、白い口髭の下にある白い歯を見せてニッと笑った。新聞雑誌よりもドリンクや菓子にまみれたスタンドが多い中、意地でも新聞や本を売る気の男の手には、やけに黄色いカバーが特徴的な本が乗っていた。
「日本で流行ってるっていうから再入荷した。読んだことあるか?」
『Who Moved My Cheese?』――『チーズはどこへ消えた?』か。アメリカの医学博士にして心理学者が著した、童話にしてビジネス書のベストセラー作だ。
「俺は右から左だった」
表紙を見るなりにやりと笑った青年に、老人は嘆かわしそうに首を振った。
「おいおい、ハル……それじゃあ読んだ意味がないじゃないか」
「そう言うトニーは読んだのか?」
「聞いて驚け、3ページで脳が悲鳴を上げた。嘘じゃない。確かに聞いた」
朝っぱらからスタンド前で笑い合うと、青年はアイスブレーカーズのクールミントとニューヨーク・タイムズ紙を買った。二年ほど前から休暇になるとふらりと通りかかり、愉快な話題分だけチップを増やすこの日本人を老人は気に入っていた。
まだ十八になったばかりの若造のくせに妙に落ち着いていて、仕草は彼の倍生きた人間よりもクールだった。年齢相応の学生ではないのは知っている。有名な音楽会社のジングシュピール社に出入りしているから芸能系の仕事らしいが、アーティストかと尋ねると「音感はゼロだ」と笑っていた。
「俺に『いつもの』って言う若造はお前ぐらいになっちまったよ」
スタンドから見えるニューヨークの景色には山のように巨大なビルが立ち並んでいる。もう何年も変わらないビル街を途切れることなく人が歩いて行くが、立ち止まる者は滅多に居ない。前を見る者以外は殆どスマートフォンを見つめ、何か探しているのか、誰かと連絡を取っているのかも定かではない。
道路は道路で車が忙しく往来する。イエローとブラックのタクシーが常に視界に滑り込み、一体どこで誰を乗せて何処まで行くのか、同じ映像が絶えず流れるように留まることなく走って行く。その背景では、何が起きているのか全く不明のサイレンが鳴り響き、周囲をよりいっそう雑然としたものに見せた。
「今度はウォールストリートジャーナルを買うよ」
折り畳んだタイムズ紙を見つめながらの返事に、老人はにやにや笑って首を振った。
「そういうことじゃねえや」
金回りが良いこと以前に、この青年が来るのは楽しみだった。
彼は休日になると、セントラル・パークへと散歩やジョギングに出る。その道すがらである為、ニューヨークにさえ居れば、彼はスタンドの前をよく通り掛かった。
顔見知りの客は他にも居るし、観光客をからかうのも悪くないが、彼のように新聞を眺めながらスタンドに居座る人間などほぼ居ない。かつては此処で煙草を吹かす連中と喋りながら情報通を誇っていた老人も、今では誰もが持っている薄っぺらい小型端末にすっかり先回りされてしまい、何も知らない顔の若者たちが何もかも知った顔で歩いているのが実に忌々しい。一方、この青年は政治や経済の話題を客観的にこなせるほど阿呆ではないにも関わらず、知ったかぶらない。
更に良いのは、人種差別をしないところだ。自分も日本人だからなのか、ヒスパニックだろうが黒人だろうが、此処で顔を合わせる誰から見ても、彼は好青年だった。
「お前、今度の休みはゆっくりできるのか?」
「いや、もう次が決まってる」
「若いのに忙しい奴だねえ。それじゃあ恋人もできないだろうに」
いつも一人で歩いている青年は、色恋沙汰を吹っ掛ける度、苦笑いだけ浮かべて話に乗って来ない。良い娘がいたら紹介してやろう――常にそう思っている老人は、彼が苦手な話題を脇にやって問いかけた。
「今度は何処に行くんだ?」
「リビア」
タイムズ紙を脇に手挟みながら答えた青年は、微かに鋭い雰囲気が漂ったが、老人はそれと気付かずに首を振った。
「アフリカ大陸か……遠いなあ」
「全くだ。やっぱりその本くれ」
最初と同じような笑いを浮かべ、黄色い本を恭しく渡した老人に少し多めに支払い、青年は本と新聞を脇にセントラル・パーク方面へと歩き出した。
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