踏んだら移る

海屋敷こるり

第1話

「あたしはね、生まれてこの方ただの一度だって、点字ブロックを踏んだことがないんですよ」


 目の前の中年男が、いかにも誇らしげな顔で豪語した。男はスーツというより背広、と言った方がしっくりくるような、黒とも紺ともつかない、薄くも厚くもない生地で仕立てられたジャケットを羽織っている。それにひとたび目を閉じればたちまち忘れてしまうような、無難な柄のネクタイを締め、それなりにアイロン掛けされた白でも青でもないワイシャツの胸をえへんと言わんばかりに逸らしている。


 私とその男が初めて顔を合わせたのは、つい今しがたのことである。社外での打ち合わせが予定より早く終わった私は、社に戻る道すがら良さそうな定食屋を探しながら駅前をうろうろと歩いていた。午後の始業までは二時間ほどあり、さほど急ぎの仕事もないことから私はだいぶぼけっとしながら、開店したばかりの飲食店を右から左へ眺めていた。せっかくなら普段生活圏内にない、知る人ぞ知る隠れ家的名店を発掘したいところであったが、生憎今日が水曜日であるせいか、ネットで事前にリサーチしたよさげな店はどれも定休日であった。

 仕方なく、駅ビルまで戻ってチェーンの定食屋でさっと済ませよう、と思い来た道を引き返そうとしたとき、道の向こうから「すみません」とこの男に引き留められたのである。


 その顔に見覚えのない私が「はて?」という顔でいるにもかかわらず、男はまるで十年来の知り合いのように確信に満ちた顔でずんずんとこちらに歩み寄り、「人生で一度も点字ブロックを踏んだことがない」という発表をやってのけたのであった。


「あ、ああ……」


 こいつは頭のおかしい人だ、と直感しながらも、街中で突然見知らぬ男に予期せぬ言葉を投げかけられると脳と体はそこから動こうとしてくれないようで、私は曖昧な相槌を返した。


「ね、すごいでしょう」


 混乱する私のことはお構いなしに、男は畳みかけるように言った。中年らしいごわごわとした赤茶色の肌に埋め込まれた両目の球が私を真っすぐに見つめている。その目は少年のように純粋なガラス玉のようでもあり、同時に光るものを反射的に追っているだけの無意味な魚の目のようにも見える。


「へえ、へへ、そうですね……」


 今すぐ踵を返して逃げ出すだけのことが、緊張でできない。人もまばらな往来のど真ん中で己だけが不審者のターゲットにされているという状況は、今までぼんやりと想像していたよりもずっと恐ろしい。火曜の昼にやっているようなサスペンスドラマで、包丁を持った犯人に出くわした女性がへたり込んで動けないシーンを見て「さっさと逃げなさいよ」とヤジを飛ばした自分が恥ずかしい。


 焦りで濁った頭も、数秒経てばだんだんとクールダウンしてくる。呑気にサスペンスドラマのワンシーンなんかを回想するほどに緊張の解けている自分に気づいた私は、「あ、では……」と呟きながら、軽い会釈をしつつこの場を去る。一瞬、強い力で肩を掴まれ烈火のごとく怒り出されるのではないかと不安になったが、踵を返した私に対して男は何もアクションを起こさなかった。



 小走りで駅まで向かい、駅ビルの最上階の定食屋に滑り込む。中高年をターゲットにしているらしい、オシャレさの欠片もない和風の店内は他の店と比べても特に空いていた。レジの近くに立っていた店員は眠そうに「いらっしゃいませー」と言いながら、ペーパーナプキンを補充する手を止めはしなかった。


 「お好きなお席にどうぞ」と声を掛けられ、目についた窓際のソファー席に腰掛けると、まだ残っていた緊張の糸が一気に解けたようで、私は深いため息をついた。首筋の冷や汗が乾いてベタベタする。カトラリーケースにあらかじめ用意されていたおしぼりの袋を開け、私はシャツの隙間からゴシゴシと汗をぬぐった。

 生まれつきむすっとした顔をしている私は、あまりああいった手合いの標的になることはない。その分そんな状況に対する免疫がないようで、今回は大分驚いてしまった。一体あの男の目的は何だったのだろうか。きっちり背広を着込み、ご丁寧に金ぴかのネクタイピンまで身に着けた中年男が突然意味不明なことを言い出すとは、まさに「世にも奇妙な」である。


 そもそも、点字ブロックを一度も踏まない暮らしなど可能なのだろうか。仮に今日から先、「一度も点字ブロックを踏まないで暮らそう」と決めたとしたら、よほどの不運がない限りはなんとかやり仰せられるのであろうと思う。しかし、それは私が目的を意識した行動をとることのできる大人だからだ。男の言っていたように「生まれてから一度も」というのはよく考えずとも難しいことは明らかである。

 子供というのは親がどんなに「してはいけない」言い聞かせても、かえって進んでそれをやりに走り出す生き物である。「点字ブロックを踏んではいけない」と伝えれば、彼らの脳はたちまち「点字ブロック」以外の単語を削ぎ落し、道端に敷かれた点字ブロックを見つけ他途端に「あ!お母さんの言っていたやつだ!」と言って駆け寄っていくだろう。


「ご注文お決まりですか」

「あ、ああ……ええと、ランチ御膳の、え、Aで」

 注文を考えることすら忘れ、随分長い時間あの男について考えを巡らせてしまったらしい。慌てて目の前にあったメニューブックの表紙のランチセットを指し示す。

「サラダとスープ選べますが」

「あ、じゃあスープ」

「ご飯どうしますか」

「ど、どうとは」

「雑穀か、白米か、麦ごはんが選べます。あと量も。大盛り無料です」

「あ、ああ……。雑穀……普通で」

「かしこまりました」

 こちらが押されるだけの一方的な押し問答の末、店員は手帳のような機械に向かって「Aランチ、スープ、雑穀大盛りですねー」と呟いてさっさとバックヤードへと引っ込んで行った。


 今日はやけに一方的に会話を始められたり打ち切られたりする日だ。午前中に済ませた打ち合わせも、あまりうまくいかなかった。特に商談やプレゼンというわけでもなかったが、私からの問いかけに対し取引先の課長はむすっとした態度を貫いていた。今日は誰ともろくに会話が成り立っていない。モヤモヤとした気持ちが胸中で燻る。


 寝不足で、しっかり頭が働いていなかったというのはある。いつもなら、打ち合わせで使う資料は事前にファイルを開いた状態でノートパソコンをスリープモードにして臨んでいるが、今日はうっかり忘れていた。昨夜はうまく寝付くことができず、うつらうつらしては覚醒するの繰り返しだったので、結局家を出る三十分前まで起きることができなかったのだ。そのまま慌てて家を飛び出し、打ち合わせの始まる三分前に会議室に到着し、そこから慌ててノートパソコンの起動を始めた。初めて行く会議室だったのでネットワークの設定にも手間取った。結局、必要な資料を画面に投影し、私が話を始めたのは開始予定時刻を十分も過ぎてからだった。


 寝不足による疲れや、人前で恥をかいたことによる心身の疲労が、あのような幻覚を見せたのだろうか。いや、そうに違いない。先ほどの出来事がすべて幻覚だとすれば、いろいろな部分の説明が付く。何ということはない、あれは単なる白昼夢だったのだ。私はほっと一息つき、丁度運ばれてきたスープに口をつけた。申し訳程度の細切れの人参とタマネギごと、黄金色の汁を咀嚼せずに飲み下す。


 しかし、白昼夢があんなに不可解な台詞を吐くだろうか。姿だって随分とはっきりして見えた。あの男の、深い穴のような黒々とした瞳の色すらまだ鮮明に思い出せる。夢というものは、今まで見聞きしたものの断片を脳が適当につなぎ合わせた映像を見せられているとよく聞くが、きっちりとした背広の中年男が、突然「点字ブロックを踏んだことがないのです」と宣言してくる映像というのは、一体何と何をつなぎ合わせたら実現可能なのだろうか。


 私は今まで点字ブロックを踏むだの踏まないだのということを考えたことがなかった。踏む必要があれば踏むし、必要がなければなんとなく避けて通る、ただそれだけの存在だ。あれは必要な人のために存在している公共物で、必要のない私にとっては単なる床の模様程度の存在である。それをわざわざ一生かけて「絶対に踏まない」とは、果たしてどんな意図があるというのだろうか。

 「黄色いものを踏んだらいけないよ」というゲームをさせるのはどうだろうか。横断歩道の白い部分以外はマグマだから落ちちゃいけない……というような、小学生が帰り道によくやっているゲームだ。これなら聞き分けのない子供でも素直に言いつけを守るのではないだろうか。いや、きっとこの案も駄目だろう。初めのうちは面白がっていても、すぐに足元なんか見ないでドタドタと好き勝手に走り回り始めるに決まっている。

 第一、自分が何を踏んづけて来たかなど、誰も正確に覚えているわけがない。いくら親が子供から目を離さないように気を付けていたって、限度がある。「点字ブロックを踏んづけたことがない」などという仮説を証明するのは、神でもなければ不可能だ。

 一度考え始めると気になって仕方がない。考えるのに夢中で、いつの間にか運ばれてきた皿はどれも空になっていた。メインのおかずが何だったのかすらろくに覚えていない。そろそろ社に戻らなければ。私はのろのろと立ち上がり、会計を済ませて定食屋を後にした。

 

 

 *

 

 

 結局、寝不足が祟ってか午後の仕事もほとんど手につかなかった。集中力の続かない脳からは仕事のことなどあっけなく締め出され、代わりに居座っているのはやはり今朝の出来事だ。考えれば考えるほど気になってしまう。私は「頭が痛い」と適当な嘘をでっちあげ、さっさと帰宅して眠ることにした。

 打刻機の「退勤」ボタンを押し、社員証を翳す。「お先失礼します」と呟き、返事をしてくれる誰かの顔を確認することもせずのろのろとエレベーターホールへと向かう。下りエレベーターはガラガラだった。開いたドアから流れるように無人のエントランスを抜けると、あの男が立っていた。


「うわ」


 私は思わず素っ頓狂な声を上げて跳び退いた。男は今朝見た時と寸分違わぬ服装で立っている。少年のように純粋なガラス玉のようでもあり、同時に光るものを反射的に追っているだけの無意味な魚の目のようにも見える両の眼が、真っすぐにこちらを見ている。男は両腕をきっちりと体側に沿わせ、直立不動の姿勢を貫いている。

「あの」

「はいッ! なんでしょう」


 私からの問いかけを待っていたとでもいうように、男は食い気味で返事をした。


「あの、点字ブロックを一度の踏んだことがないとおっしゃいましたよね。あれからいろいろ考えたのですが、そんなことは不可能ですよ。第一、道を歩いているときはどうするんです。横断歩道の手前には、『停止』を表す点字ブロックが敷き詰められていますよね。そういった場合はいちいちぴょんっと跳び超えて進んでいるんですか。馬鹿馬鹿しい」


 私はまるで八つ当たりのように捲し立てた。私が話している間、男は眉一つ動かさずにこちらを凝視していた。


「やむを得ない場合は飛び越えたりもしますがね。もしも、万が一踏んづけたら死ぬわけですから、なるべく避けて歩きます。新宿あたりの主要都市周辺の、点字ブロックに出くわさなくて済むルートはすっかり頭に入っていますよ」


 その回答は、何度も同じ話をし続けている大学の講師のように分かりやすいものだった。私の他にも、こうしてこの男に出くわした者がいるのだろうか?そして、この男はそのたびにこうして彼らの疑問に答え続けてきたのではないだろうか。そう感じさせるような口調であった。


「新宿のような大きな都市に、そんなルートがいくつもあるのですか」


 点字ブロックは当然、盲者の歩行を手助けするために存在する。そして、彼らの行き先は我々健常者と同様に千差万別だ。人の歩く可能性のある場所は、常に点字ブロックや手すり、スロープなど、誰かの妨げにならないような工夫が施されているべきである。特に、東京都は日本の中でも特にバリアフリーに力を入れている。そんな都市に、そんなに都合よく点字ブロックが存在しない道がいくつもあるのだろうか。

「まあせっかくです。ここは実際にお見せした方が早いでしょう」

 男はそう言うとスタスタと歩き出し、私も黙って後に続いた。



 

 結論から言えば、確かに点字ブロックのないルートはいくつも存在した。今まで道が続いていることにすら気付かなかったような狭い路地裏をすいすいと進んでいく男の様子はまるで猫のようだ。

 いくら人の進む道が千差万別といえど、視覚障碍者の歩くことのできる道は開けて幅の広い通りに限られている。路地裏や私道、果てはオフィスビルの共用の渡り廊下などという、我々部外者が侵入していいものかどうかという観点で見ると完全にアウト寄りの道であれば、点字ブロックは確かに存在しない。

 男はゴミだらけで足元の悪い道をものともせずに進んで行く。私はゼエゼエとしながら着いて行くのでやっとだ。

「着きました」

 いつの間にか目の前は見慣れた新宿の紀伊国屋書店の前であった。スマートフォンを取り出すと、現在の時刻はタイムカードを押した瞬間から二十分程しか経っていない。エレベーターの時間や男と立ち話をしていた時間を差し引くと、会社からここまで約十分程だろうか。通常通りの広い道を通ってここに来る場合とほぼ同じか、むしろ短い時間で辿り着けたことになる。


「結構早いでしょう」

 鼻の頭まで汗びっしょりの私と違い、男は汗どころか、ポマードで撫でつけた髪の一房も乱れていない。相変わらず真っすぐにこちらを見つめ、口角はなだらかなアーチを描いている。

「し、しかし……」

 一度言い淀んだが、もうここまで来れば相手に対する礼儀など関係ない。全ての疑問を一度にぶつけるつもりで、私は言葉をつづけた。

「徒歩の場合は良くても、車に乗ることだってあるでしょう。コンビニなんかに入るとき、やむを得ず点字ブロックを踏んで歩道に乗り上げることはしょっちゅうあるはずです。まさかタイヤ越しはノーカウントなんて言うんじゃないでしょうね? その理論が罷り通るなら、四六時中ローラースケートを履いて暮らせばいいだけだ」

「車には乗りません。もちろんタクシーも。バスだって使ったことがない。列車の駅のない土地に用があるときは、夜通し歩いて向かうこともあります」


 男は言った。これもまた、何度も説明してきたかのように簡潔な返答であった。


「仮に今のあなたがそう心掛けているとしても、物心つく前の子供の行動をすべて証明することはできないでしょう」

 昼に考えた反論を、私はそのまま男にぶつけた。


「でも現に、私は生きています。生まれたときから、一度も点字ブロックを踏まなかった。だから生きている」


「それは一体どういう意味なんですか。生きるとか死ぬとか、たかが点字ブロックを踏む踏まないの話がどうしてそんな話に繋がるんだ」


「簡単なゲームですよ。黄色いブロックは核物質です。踏んだら被曝して死ぬ。そういうルールになってるんです。あなたもほら、小学生の頃よくやったでしょう? 白線以外はマグマ、とか」


「そんなのは子供が勝手に決めた空想でしょう。本当に死ぬわけではない! あなたは自分が点字ブロックを踏んだことがないという妄想に取り憑かれ、生活に支障が出ている。一度病院に行かれた方がよろしいのではないですか」


 私がどんなにおかしいと騒ぎ立てても、男は目を見開いて静かに微笑み、のらりくらりと私の追求から逃れるばかりだ。

 男に言い返すための弾が無くなり、興奮と苛立ちで乱れた呼吸を整えながらしばし睨みあっていると、どこからか「夕焼け小焼け」が聞こえてきた。

 私が会社を出たのは午後の仕事が始まってから三十分もしない頃だったので、もう四時間半近くこの謎の男に付き合っていたことになる。

「まあ一度お帰りになってはいかがです。せっかく早退なさったんです、いつまでもイライラしていては時間が勿体ない」

 いったいどの立場から物を言っているのか分からないが、私は男に促されるまま、今度こそ家に帰ることにした。

 

 *

 

 翌日も翌々日も、男は私の目の前に現れた。会社のロビー、家の近所のコンビニ、駅の券売機の横など、現れる場所やタイミングに規則はなく、ただなんとなく、私の頭がその男のことを忘れかけたタイミングで出現しているように思えた。

 私はその男をどうにかして陥れたいと考えるようになった。どうにか工夫して男の隙を突き、点字ブロックを踏ませる。そして男の精神を下らない妄想から引きずり出してやりたい。


 その日から、思いつく限りの方法で男に迫った。手始めに点字ブロックを真っ黒いペンキで塗りつぶし、アスファルトとの区別がつかないように偽装してみたが、丁度そこを通りがかった警官に見つかってしまい、危うく書類送検されかけた。

 そもそも、「黄色い点字ブロック」からかけ離れた場合、あの男の言う馬鹿げたルールの適用範囲であるのか否かが分からない。乗り物に乗らないという徹底ぶりから、色が変わった程度で言い逃れられる可能性は低いが、万全を期すためにはやはりあの黄色い点字ブロックのままで、うっかり踏んづけさせる必要がある。

 そうだ、電動シェアスクーターを使うというのはどうだろう。最近の電動スクーターは、あらかじめ地図データを読み込ませてルート指定しておくことで、ほぼ自動運転を実現している。男と協力して新宿中の点字ブロックの位置が記された地図データを作成した後、どうにかして男を電動スクーターに乗せ、発信する直前にわざと点字ブロックの上を通るルートを指定するのだ。

 問題はどのように男をスクーターに乗せるかであるが、スクーターはそのタイヤの小ささから、段差に弱いという特性がある。これは最近ネットニュースでもその弱点について大きく取り上げられていたので、おそらく男の耳にも入っていることだろう。その弱点を逆に利用してやるのだ。「こういう弱点があるので、もしも地図に間違いがあって段差や点字ブロックに行き当ってしまっても、前方のカメラが自動で検出して避けて通るようになっているのです」とかなんとか言って、信ぴょう性を上げるのである。

 果たして、この作戦はうまくいったようだった。その日も突然現れた男に対し、私は用意しておいた誘い文句をつらつらと述べた。家で何度も練習したそのセリフは、淀みなく私の口から流れた。今まで何を言ってもすぐに屁理屈を切り替えしてきた男は珍しく数秒考え込み、やがて「いいでしょう。私もそろそろ齢ですから、徒歩以外の移動手段が欲しかったところなのです。さっそく地図の作成に取り掛かりましょう」と言った。


 学生時代、研究室でプログラミングを齧っていたので、スクーターの仕込みはすぐに完了した。点字ブロックマップも、タブレットを男に貸し出した翌日にはもうすっかり完成していた。

 月曜日の早朝、私たちはなるべく人通りの少ない時間にスクーターの試運転を行うことにした。念のためヘルメットを装着し、ハンドルの中央に取り付けられたタブレットを操作して目的地を新宿御苑にセットする。ここから目的地までは、スクーターの速度なら十五分程度の距離だ。

 男を乗せたスクーターは緩やかに発進した。私はその後ろを、私物の自転車に跨って追跡する。

 設定どおり、スクーターは歩道の段差や点字ブロック、側溝の蓋などを的確に避けて走っている。前方から、「おお、これは確かに信頼できる精度だ」という声が聞こえた。


 目的地までの道のりの中間地点を通過した。私が罠を仕掛けた場所まではあと三十秒ほどだ。そこの角を曲がれば、すぐにスクーターが引っかかるように準備をしている。



「ああっ」



 角の向こうから、ガシャンと大きな音とともに男の叫び声が聞こえた。私はその場に自転車を乗り捨て、走って声のした方へと向かう。

「あ、ああ……!」

 そちらの方へと走って近づいているにも関わらず、男の声はだんだんと遠ざかっていく。やっと角を曲がると、その突き当りの方に男の乗っていたスクーターが倒れているのが見えた。やったぞ、成功だ。

 前方を見遣ると、そこには大きなオフィスビルのエントランスに備え付けられた動く歩道が、尻もちをついた男をごうんごうんと運んでいる。

 先ほどの角を曲がってすぐ、この周辺の敷地はとある大企業の敷地兼ショッピングモールになっている。荷台で物を運び入れやすいように、極力段差を排したこの中庭は、車道から突然動く歩道が生えているような、奇妙なつくりになっているのだった。

 男はうろたえながらも徐々に落ち着いてきているようで、よろよろとベルトコンベアの上に立ち上がった。動く歩道の終端地点が近い。降りたらそのまま私を問い詰めに来るつもりだろう。


 しかし、それは実現しない。またもドターンという音がして、私は音の方へ駆け出した。

 用意しておいたプランAでは、男が尻もちをついたままベルトコンベアに運ばれ、その終端にある点字ブロックの上に自動で到着する様を思い描いていたが、男がこのように途中で正気を取り戻したときのために、ある仕掛けを施しておいた。

 動く歩道から降りてすぐ、点字ブロックより手前のところに、ベタベタした餅状の接着剤を敷き詰めておいたのである。案の定、男は餅に足を取られ、慌てて引きはがそうとしているうちに点字ブロックの上に倒れ込んでしまったようだ。

「ハハ、どうです、点字ブロックなんか踏んだところで、死んだりしないでしょう」

 思わずこぼれる勝ち誇った笑みを隠すこともせずに男に問いかけるが、男からの返事はない。点字ブロックの上で蹲ったまま、ピクリとも動かない。


「まさか」


 そのまさかは的中していた。男は点字ブロックの上で息絶えていた。男は驚いたように瞼を見開き、あの穴のような黒い瞳孔を晒して死んでいる。その黒目に反射した私の顔もまた、深淵のように黒い瞳と、緩やかな弧を描く口元を携えている。

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踏んだら移る 海屋敷こるり @umiyasiki

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