第32話

 王都へ来た一番の目的を終え、私の心は一部だけ小さな穴が開いたようだ。

 今の仕事にやりがいはあるけれど、そこを埋める物とはジャンルがまるで違う。


 やりがいはやりがいでも、こちらは青春を捧げ、やりきった物なのだ。

 大好きなお姉様が新たな一歩を踏み出すための贈り物ともいうべきか。子どもだった私がお姉様に返せる一生のうちで一番大きなお返し物。


 この穴が埋まるのは時間がかかりそうだなぁ。

 そんなことを想いながら、久々となる一人の休日を過ごす。

 最近はディートリッヒ様にジャック、一人の日でもセルロトの店に足を運んだりと、何かと知り合いと会うことばかりだった。


 だが今日は普段行かないような場所を選んだ。

 王都から少し離れた場所にある湖だ。きっと知り合いに会うこともないだろう。自然に囲まれて心安らかに過ごそうと決め、途中でお昼も購入した。

 軽装で外れへと突き進む女性は珍しいのか、すれ違う人には何度となく視線を向けられた。だが特段危険があるという訳ではないのだ。離れているといっても私の足で数十分ほど歩けば着くような距離。つまり手軽な自然環境という訳だ。


 訪れるのは数年ぶりだが、湖の水は相変わらず透き通っていた。

 落ち込んだ時はここに来るとすっきりするんだ、と教えてくれたのはセルロトだった。

 以前訪れたのは、風邪を引いていることに気づかずに働き続けて倒れて、メイド長に叱られた時だった。


「自己管理も出来ないなんてメイド失格よ」

 もうすっかり一人前のつもりだった私は、メイド長の遠回しな優しさに気づかずにべっこべこに凹みきっていたのだ。

 そんな時にこの場所を教えてもらって、一日呆けて過ごしたんだっけ。

 そしたらスゴく落ち着いて、次の日には「すみませんでした!」って謝れて……。



 そうか。私、落ち込んでいるのか。

 過去の出来事を思い出してから、今の自分の感情をやっと理解した。


 やりきったとか。

 お姉様とジャックが幸せなるんだとか。

 そんなことを思いながらも、残されたことに寂しさを感じていたのだ。


「誰も置いていく訳ないのに、バカだなぁ……」

 自分への言葉を漏らすと、ぽとりと手の上に水滴が落ちた。


 雨?

 こんなに晴れているのに?

 空を見上げてもやはりそこに広がるのは雲がぷかぷかと心地よさそうにたゆたういい天気。

 ならこの水滴はどこからやってきたものなのか?

 目の前の湖に視線を向ければそこには両方の頬に同じような流れを作り出した私が映っていた。


 どうやらこの水滴は私の涙だったらしい。

 失恋した時ですら泣かなかったのに、可笑しな話である。

 泣いたってどうにもならないのはどちらも同じはずなのに、諦めを長年刷りこみ続けたそれとは別物なのだ。

 それでもこの涙にはきっと失った恋心も含まれているのだろう。


 これはきっと6年分が詰まった涙で、人が流れゆくあの都では流せなかったものなのだ。


 私が前に進むために必要なもの。

 私の背中を見守るのは自然だけだ。

 ここには誰も私を心配する人はいない。


 確かに落ち込むにはぴったりの場所だ。

 数年ぶりに訪れた湖や周りの木々は私に寄り添うことなく、そこにあり続ける。

 声をかけることもない。


 だから私は安心して、声を殺しながら存分に涙を流すことが出来る。



 微かに残っていた思いも不安も涙に乗せて流す。

 あの場所に戻ったらいつものように笑うから。

 そよそよと木の葉を揺らす風はまるで私を包み込むようだった。




 存分に泣き明かした私は真っ赤な目のまま、王都で買ってきたサンドイッチを頬張る。

 どんなに悲しくともお腹は減るものだ。

 それにひとしきり泣いて、落ち着いた。

 何というか、多分マリッジブルーみたいなものだったのだ。

 結婚するのは私ではないから『みたいな』から一歩たりとも出ることは出来ない謎の感情。


 それに色々と混じって、少し感傷的になってしまっただけ。

 お屋敷から持ってきた水筒からカップに紅茶を注いで、はぁっと息を吐く。


 そういえば泣くのってストレス解消にもいいんだっけ?

 長らく涙を流すことなんてなかったが、このスッキリとした感覚はいいものだ。

 泣かなくとも自然の中にいるだけでも心は癒されるもの。

 今度から定期的に一人ピクニックでもしにこようかしら?


 寂しいものだが、それを寂しいと判断する者など私一人を除いてこの場にはいない。つまり私が楽しいと思えば、それは『楽しいピクニック』へと早変わりするのだ。なにせ私しか判断する人がいないのだから。



 私基準!

 私が全てだ!



 空間を独り占めした気分になった私は声をあげて笑う。

 泣くのは声を殺していたのに、楽しいと声が出てしまう。なんて素敵な違いだろう。楽しくてたまらない。


 ならば楽しいついでに踊ってみようかしら?

 誰もいない水辺で誰にも披露したことのないダンスを始める。


 見本は何度となく見せてもらった社交ダンス。

 もちろん音楽だってなければ、相手だっていない。


 でもそれで十分なのだ。

 植物に挨拶をして、彼らを観衆に披露するそれはご令嬢達のそれとは比べものにならないくらい下手なものだろう。


 けれど私が楽しければそれでいいのだ。


 ワンピースの裾をふわっと広げ、空を見上げながらクルリと回る。

 私を見つめ返すその空にはもう、雲一つ浮かんでいなかった。

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