家族の空と滅んだ世界

遥風はじめ

雲の浮かぶ晴れた空

 そのビルの二階まで登って来た時、カゲトラは面倒なことになったと思い、眉をしかめた。三階から足音が聞こえ、階下からも割れたガラスを踏む音が聞こえて来たからだ。


 上と下から挟まれる形になる。人数は多くなさそうだが、とにかく面倒であった。


 この四、五階建てのビルに接近する際、カゲトラは念のため遠くから住人の有無などを入念に確認し、他に物資探索者スカベンジャーがいないかどうかもよく確認したつもりだった。もちろん動く死体が辺りにいないことも確認した。


 数ヶ月前にゾンビウイルスの世界的感染が広がり、政府や法執行機関が機能しなくなってから、物資を集める時でも、どこにどんな人間がいるのかわからなかった。カゲトラは慎重に偵察したつもりだった。


 とりあえず遮蔽が取れそうな場所を探し、窓の位置も確認する。最悪、窓から外に飛び出すことも考えておく。二階なので悪くて骨折程度で済むだろう。窓からは雲の浮かぶ晴れた空が見えていた。


「見落としてたか、それとも隠れてたかな……」


 カゲトラは呟きながら、遮蔽物として使うつもりのロッカーの扉の上の方に金具付きの細いワイヤーを挟み込み、扉を静かに閉めた。偵察の時に見落としてたなら自分のミスだ。だが身を潜めていたとなれば見つけようはない。



 三階へ続く階段の方から野太い男の声が響いた。


「出て来い。無駄弾を使いたくないんでな」


 このビルは一階から二階への階段と、二階から三階への階段が分かれている。上と下から挟まれる形になるというのは、そういうことだった。

 カゲトラは声のした方にアサルトライフルの銃口を向け、サイトを覗いて構えながら、ゆっくりと出ていく。男もカゲトラに向けて拳銃ハンドガンを構えていた。よれたジャケットの下に血の付いたシャツ、下はジーンズだけだ。バッグも持っておらず軽装で、物資探索者スカベンジャーではなさそうだった。ここに住んでいたのかも知れない。


「銃を捨てろ」


 男はカゲトラのアサルトライフルを見て、低く落ち着いた声で言った。何故か男は妙に余裕がある。拳銃ハンドガンでアサルトライフルと対峙しているにもかかわらずだ。近距離とは言え、拳銃ハンドガンはちょっとした手首の角度で弾道が逸れてしまう。なのにこの余裕ということは、もう一人、一階の階段のほうから近づいてきている奴はきっと味方なんだろう。カゲトラはほんの少しだけ焦点を緩め、意識を男から周囲へ向けた。


「頼む、捨ててくれ」


 カゲトラの斜め後方から別の男が震える声で言った。やはりそうだった。目の端でちらと見るとそちらの男も銃を構えている。この位置関係だと、カゲトラが引き金を引き前方の男を倒したとしても、その瞬間に後ろから撃たれることになる。


 挟み撃ちの形になっていてかなり不利だった。だが、後方の男は心做こころなしか震えていて、照準が定まっていないようだった。


「捨てたらどうなる」

「もちろんおたくの持ち物は全部いただく。寝床があるなら場所をゆっくりと聞かせてもらう」


 前方の男が首をポキポキと鳴らしながら言った。後方の男は何か言いたげだった。


「まあ、あるんだろうけどよ」


「おい……本当に――」

「うるせえ黙ってろ!」


 何かを言いかけた後方の男に対し、一喝したのは前方の男だった。男たちの会話を聞きながら、カゲトラは相手が落ち着くことを願いながら話しかけた。


「待ってくれ。俺はここに物資の探索に来ただけだ。住んでたのなら悪かった。大人しく帰る」

「だめだね」


 前方の男が銃を構え直す。


「せっかくかかった獲物だ。逃がしたくはねぇな」


 そういうことか。カゲトラは小さく溜息をついた。要するに外から見えないように待ち構えていた、獲物は逃さんということだ。自分のような物資探索者スカベンジャーを狙って罠を張っている連中なんだろう。


「わかった。今、銃を捨てる。撃つなよ……」


 カゲトラは一歩と半歩、じりじりと横に動き、張りを確認しながらアサルトライフルのスリングをゆっくりと外し、足元に置いて両手を上げた。


拳銃ハンドガンもだ」


 照準のポイントをぴったりとカゲトラに合わせながら、前方の男が言った。


「オイタされちゃ困るんでな」


 カゲトラは頷いて、右手の親指と人差し指で輪っかを作り、摘むような仕草を見せながらゆっくりと右手を腰のホルスターに近づける。

 そして膝を、腿上ももあげのように大きく上げ、さっき張りを確認した細いワイヤーを――


 ――ぐっと踏み込んだ。


 バターン!!


 突然ロッカーが大きな音を立てて倒れる。カゲトラが遮蔽に使っていたロッカーだ。男たちは瞬間的に、音のした方に素早く銃を向ける。


 カゲトラは素早く腰のホルスターから抜いた拳銃ハンドガンで前方の男のこめかみに一発、振り向きざまに斜め後方の男に一発撃ち込み、腕に当たった。

 こめかみに当てた男の倒れ込む音が背後で聞こえる。カゲトラが腕に当てた男は尻もちをついて倒れ込んだ。


 カゲトラは息を大きく吐いてから口を真一文字に結び、拳銃ハンドガンを構えたまま、倒れて悶えている後方の男に近寄って行った。


「殺ってくれ……」


 男が腕を押さえて絞り出すように言う。彼の拳銃は手から離れている。カゲトラはそれを遠ざけるように靴の外側で遠くへ払った。男の銃がカラカラッと乾いた音を立てて、不規則に床を滑っていく。

 カゲトラは男のほうをじっと見ていた。

 男は袖に血が滲んでいた。

 だがカゲトラが見ていたのは、男が尻もちをついた時にズボンのポケットから飛び出した、開いた財布に挟んであった家族の写真だった。


「いやだね」


 カゲトラは拳銃ハンドガンを腰のホルスターにしまった。もうやる気は失せていた。この男の雰囲気からすると、もう抵抗はしないように見える。カゲトラは一時いっときの思案の後、バンダナを懐から取り出して男の腕に巻き始めた。このバンダナはとある雑貨屋を探索していた時に見つけたきれいな模様のバンダナだった。桜の花びらが集まって回転しているような模様で、カゲトラはこの模様を気に入っていた。彼はこのピンクと白のバンダナを、仕方なく彼の血に染めることにした。

 男は出血はあるが弾丸は貫通しており、血さえ止めればなんとかなりそうだった。

 写真の中では彼と、彼の妻と思しき女性、娘が笑っていた。


「それに、無駄弾は俺も使いたくない」







 * * *







 カゲトラが包帯代わりの布切れを巻いている間、男は何も言わず、カゲトラが払った彼の銃ではなく、反対側に落ちた財布の家族の写真を見つめていた。

 カゲトラが布切れを巻き終えると、男はふらつく足で立ち上がり、財布の方へ歩いていき、それを拾った。

 それから窓の方に歩いて行き、開閉式の窓についている取っ手をガチャリと捻って言った。


「すまない」


「あっ……おい!」


 カゲトラは男が窓から飛び降りてしまうのかと思い咄嗟とっさに声をかけたが、窓の外は歩くスペースがあるようだった。男はそのスペースをふらふらと歩き、そのまま視界から消えた。


 カゲトラが駆け寄り窓から覗いてみると、男は一階へ向かう非常階段を降りていた。男の靴が金属板を踏むカン……カン……という甲高い音を立てる。おぼつかない足取りで遠ざかって行く男を見ながら、カゲトラはその男を、もう放っておいていいと思った。

 この男はきっとまた孤独になるのだ。仲間を失い、怪我をしながらまた食糧を漁る生活を始めるのだ。家族の写真を持って行ったことが何よりそれを物語っていた。

 カゲトラは、窓の取っ手を捻って閉めた。

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