キチガイの手紙

世良ストラ

キチガイの手紙

 私は明日、死ぬ。


 私はここに記そう。

 私が生きた時代のことを。

 私という人間であるはずの人間のことを。





 私は時代の移り変わりに生きてきた。

 その中で苦悶し、そして、人生の幕を下ろす決意をした。

 だからなのか、自然と筆が動いた。

 もしかしたら、未来に生きる何者かに「人間とは何か」ということを少しでも伝えたかったのかもしれない――と、宣言しておきながらも先に言っておこう。


 結論はここにはない。


 この手紙を読んでいるあなたは、何かを理解することも、理解しようさえも思わないかもしれない。

 だが、それでいい。

 理解させようと思って書いているわけではない。

 それでも、何かを感じるきっかけになればと、ささやかな期待を込め、私が死に至るまでの経緯をこれから書き連ねていこうと思う。





「まさしく今日は、人類史に革命が起きた日として語り継がれることでしょう。そうです、今日は新たなロボット誕生の日なのです」

「ですが、今までもロボットが作られては問題が生じてきました。人間の欲求を満たすために作られたロボットに人権はあるのか……この問題は記憶に新しいところですが――」

「そんなことを心配する必要は全くありません。人間に対して人権を心配しますでしょうか。いや、しないでしょう。なぜなら人間だからです。ならば、ロボットもそうなればいいだけのことではありませんか。それこそ、新時代のロボットの始まりなのです」



 今でも覚えているこの記者会見。

 探せば記録映像が出てくることだろう。


 この日、人間は神の領域に手を出した。

 名はロボットというが、実際は人間のクローンというべきものだった。

 記者会見で記者から質問が挙がったように、人間の欲求――主に性欲だが――を満たすための道具として作られたロボットと、そこから発展したロボット人権問題は世界中で論争を巻き起こしてきた。

 だが、それはロボットであるからこそ問題になるのであり、ここで誕生したロボットは人権があるのかという議論さえ起こらないほどに、まさに人間だったのだ。

 別の人類としてのロボットだったのだ。

 逆を言えば、ロボット人権問題をクリアするために生み出された別の生物とでもいおうか。


 このロボットは人間のように生まれ、老いる。

 肉体機能までも人間と同じ。

 もちろん同じといっても、人間と異なるところもある。

 あるといっても一つだけだが、その一つとは「夢を見るか否か」だ。

 言い換えるとこのロボットは夢を見られないということであり、このことから、夢を見ることが「人間原理」と名付けられることとなった。


 そんなロボットの誕生から二十年。

 ロボットと人間とが共存する世界となっていた。

 というより、共存世界となるようにルールが制定されていた。


 今の時代、ロボットかどうかを詮索することは罪となっている。

 ロボット誕生初期には、ロボットかどうかを判別しようと、寝ている間の脳活動を密かに計測することが横行し、ロボットへの差別に繋がったという歴史があったためだ。

 もちろん、二十年も経てば人間とロボットとのハイブリッドも生まれた。

 そのハイブリッドが夢を見るかどうかは誰も知らない。

 そのことを詮索すること自体が罪となる世界なのだから。


 このように急激に移り変わる世界の狭間を私は生きてきた。

 その中で私はいつしか夢を見なくなった。

 これはまさしく私が人間ではないことを指し示している。



 ……私は人間なのか、ロボットなのか……。



 たしかに、ロボット誕生以前に生まれ、育った記憶はある。

 写真もある。

 だが、それが作られたものではないとだれがいえよう。



「人間でなくともロボットでいいではないか」



 そんな軽率な言葉が聞こえてきそうだ。

 たしかに今の時代、ロボットでも何の不便もないだろう。

 他人を見ていて私だってそう思う。

 だが、他人は他人だ。

 彼らが何を感じているかなど、つまるところその本人にしかわからないのだ。



 ……私は人間なのか、ロボットなのか……。



 私にとっては生死を分かつ究極の二択なのだ。

 しかし、誰もこの苦悩などわりやしない。


 もう一度言おう。

 今の時代、誰が人間であり、誰がロボットであるかを詮索すること自体が罪なのだ。

 であるから昔の話となるが、こんな話を聞いたことがある。

 まだロボットへの差別が厳罰化されていない頃の話だ。

 その当時、ロボットに対して夢を見るかどうかと訊ねたところ「夢を見る」としか答えなかったという。

 これはロボットの自衛プログラムなのか、共存世界へ向けて意図的に組み込まれたプログラムなのか。

 何はともあれ、ロボットに対して夢を見るかと訊ねたところで「夢を見る」としか答えないといえる。

 となれば、安直には、私のように悩んでいるのは人間だということになる。


 だが果たして、私は夢を見ますかと訊ねられ、夢を見ないと――私はロボットであると――答えられるだろうか。

 私は人間であるはずだと、「夢を見る」と嘘をついてしまうのではないか。

 そして、このことはロボットにもいえるかもしれないのだ。

 ロボットといえどもほぼ人間なのだ。

 ロボットは自らを人間と信じているかもしれないのだ。

 もしそうであるならば、「夢を見る」と答えていたロボットは嘘をついていた可能性がある。

 ロボットも私と同じように、夢を見られないことで実は思い悩み、自分は人間であると信じたい心が、彼らに嘘をつかせていた可能性だってありうるのだ。


 そうだ。

 ここで振り出しに戻る。

 自分は人間なのかロボットなのかと悩んでいることは、イコール人間とはならない。


 さらに、夢を見ているかどうかを詮索できない今の時代――あなたは夢を見ますか、と聞いた時点で罪に問われる時代――同じ悩みを持っている同士がいたとしても彼らと繋がりを持つことはできない。

 悩みを共有することができない。

 であるならば、それはいないも同然なのだ。

 夢が見られず、自分が人間かロボットかと思い悩んでいるのは、この私の世界で私ひとりだけなのだ。


 いや、もしかしたら、こうやって苦悶しているのは本当に私ひとりだけなのかもしれない。

 それは他人を見ていて感じる。

 夢を見られなくなってから特に感じる。

 皆、自分ではなく、他人ばかりに目が行っている。

 誰でもいいから認められたい、良く見られたい、あの人が羨ましいなど、すべての行為が他人軸だ。

 そこには自分があるようでない。

 となれば、「自分は人間なのかロボットなのか」などと、自分の内面を深掘りする行為など――私と同じ悩みなど――生まれるはずがないではないか。


 その上、この先、ロボット誕生以前に生きていた人間がいなくった未来、人間とロボットとそのハイブリッドが混ざり合った未来の世界。

 そこでは人間であることの価値は薄くなっていることだろう。

 となれば、私と同じように人間なのかロボットなのかと悩み生きる者は絶滅せざるを得ないのではなかろうか。

 悩みが解消されるわけではない。

 人間とは何か、という問いかけ自体が無価値となる、そのことで私のような悩みそのものが生まれないと言っているのだ。


 そうだ。

 悩み苦しむ私は、この現在でもひとり、真の人間時代を知らぬ人々で埋め尽くされた未来でもひとりなのだ。

 私は現在と未来とへの孤独、恐怖、静寂の中に立っているのだ。


 その中で、私は自分が人間であるか否かを見極めるために、最終手段に出る決意に至ったというわけである。





 ここで手紙の初めに戻ろう。

 私は明日、死ぬ。

 この死こそ、最終手段という希望である。


 死んだ先になにがあるのか。

 そこに、人間とロボットとの違いがあるのではないか。

 私は究極の二択の答えを求め、これから死を迎えようとしている。


 とわいえ、答を得られたところで、それを自分以外の誰かに伝えることは叶わない。

 今、この手紙を読んでいるあなたに答を告げられないのが悔しくもあり、私だけが答を得られることに恍惚として幸せに満ちてもいる。


 私だけが答を知ることができるのはこれこそ私の天命に違いない。

 私は死の先で、人間生命の神秘へと旅立つのだ。

 その旅路の果てにこそ、真の人間原理が待っているに違いないのだ。


 ここまで読んでくださったあなたは、きっと私のことをキチガイだと思っていることだろう。

 だが、あえて言わせてもらう――私は正気だと。


 そう念を押した上であなたに問おう。

 人間という定義すらないかもしれないがあえて問おう。



「あなたは真に人間であるか」



 この言葉が私の残す最後の言葉である。

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