犠牲――書き下ろしエッセイ募集!(クロノヒョウ様企画2024.6.26)

 すべての命は、自分より弱い他の命を犠牲にしながら日々つむがれている。


 我々が道を歩く、その一足を踏み出すごとに、踏まれた地面で暮らす小さな命が失われていく。人体に備わった抵抗力・免疫力が、人類によって「細菌」「ウイルス」と命名された無数の小さな命を奪っていく。


 ビーガンという、動物由来の食物や製品を拒む生き方を選択している人たちがいる。原発事故と放射能被害を考える集いで初めてかれらと出会った時、私はかれらが突きつけてくるものに強い違和感をいだいた。


 自分たちの生のために犠牲になる命を減らす、弱いものから奪わない、そのことに異論はない。


 他方、食肉・皮革産業の労働者は、今なおいわれない差別・偏見にさらされ続け、場(食肉工場)には脅迫状が送りつけられるなどの不条理きわまる現実がある。ビーガンという生き方が、結果的に食肉・皮革労働に対するヘイトを助長しはしないかという危惧を感じている。


 「人間が生きる上で、動物食は必要ない」というのが仮に真実だとしよう。しかし私には、食肉・皮革の労働が「悪いこと」だとは到底思えない。「子どもの笑顔」というフレーズがしばしば不都合な現実をウォッシングする事実を承知のうえで、それでもなお唐揚げを頬張って「おいしいね」と満面の笑みを浮かべる幼子の笑顔を私は否定できない。


 私は迷いなく、食肉・皮革労働者との連帯を選択する。それは、自動的にビーガンという生き方をする人々と距離を置くことを意味する。……いや、こんなおためごかしはやめよう。私は肉が食いたいのだ。焼肉も唐揚げも焼き鳥も最高にうまいから!


 ビーガンの人たちが街頭行動をしているその目と鼻の先でフライドチキンをかじる「カウンター」を繰り広げる人たちがいる。今の日本は、圧倒的に非ビーガンが多数派である。ビーガンの人が外食を楽しむことすら非常に困難なぐらいに。多数派の傲慢に乗っかった「カウンター」に担ぎ出される食肉こそいい面の皮だ。


 肉を食べることも、食肉・皮革の仕事も、私は悪いことだとは思っていない。

 ただ、ビーガンの人たちが突きつけてくる「命の選別」の問題に対して、自分の立場から向き合わなければならないと感じている。


 強い命が弱い命を犠牲にして生きている。そのことを手放しで肯定することだけは絶対にしたくない。強かろうが弱かろうが、等しく生きる権利がある。それだけのことだ。


 矛盾していると、笑わば笑え。

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