第36話 その3「なんて言葉、本人の口から言わせたくなかったから」


 残り10秒、大丈夫、質問はこれで合ってるはず。私は落ち着いてイムに言葉を続けた。


キーを持っている人は、右手が『はい』なの?」


 ウインドウの数字が「03」を刻む。同時にイムの身体が小刻みに振動し、機械のように自動的に腕を上げていく――それは左手。


キーを持っているのはアネット!」


 すぐさま叫ぶ、目の前の数字が「01」で止まる。


暗号鍵キーノ照合、一致ヲ確認」


 ソフィーから合成音が流れる。大丈夫だと思いつつ胸をなで下ろしている自分に気づいた。


 持ってない人の立場で考える――それはキーを持っている人をどう見ているかということ。

 キーを持っている方の右手が「はい」なら持っていない方は左手が「はい」、反対にキーを持っている方の右手が「いいえ」なら持っていない方の左手は「いいえ」。そこで「キー持ってる人は右手が『はい』なの?」と聞けば、キーを持ってない方は必ず左手を上げる。


 だって、キーを持つ方の右手が「はい」なら「そのとおり」と左手を上げなければならないし、逆にキーを持つ方の左手が「はい」なら「違うよ」とやっぱり左手を上げなくちゃいけない。

 仮にイムがキーを持っていたなら、右手が「はい」ならそのまま右手を、左手が「はい」なら否定するために「いいえ」の右手を上げる。


『鍵を持ってる方は必ず右手を、持ってない方は必ず左手を上げることになる』これは「トリックスターの遊戯」に出てきた台詞……。


 ――違う。これは一緒に「トリックスターの遊戯」を観ていた、いつしか同じ空間に居るが当たり前になった男の人の言葉だ。


 私の脳裏に男の人のシルエットが浮かぶ。その影はぼんやりとして顔ははっきりとは分からない。けれども、私の側に居た人だ。

 最初はどう接していいか分からなくて、それでフォーチュネに没頭するフリして避けてたけれど、その人が間を持たせるために観ていた「トリックスターの遊戯」がたまたま面白くて続きを一緒に観るようになって、あげくは「原作の小説の方がもっと面白い。玲奈に理解できるかは別としてな」なんて上から目線で文庫本を押しつけてきたっけ。その頃にはもうどう接していいか分からない存在ではなくなってた。その人の名は――。


「コレヨリ治療環境世界診断セーフモードヲ終了シ、治療環境世界通常モードニ移行シマス」


 ソフィーが電脳世界この世界の変革を告げる。そうか、暗号鍵キーを言い当てたからフォーチュネの世界に戻ろうとしてるんだ。

 気づけば緑色の電子機器が溶けて蒸発していく。緑の光の粒が連なり線となって頭上へとのぼり、中天を覆う闇へと消える。私の前に居るのはアネットとイム、これでふたりと元の世界に戻れる。そうだ、あけぼのはどうなるんだろう――そう思って目をソフィーに向ける。


「よくやった、玲奈」

 

 突然、さっきまでの合成音とは違う、別の女性の声がした。

 ソフィーは青白い顔をしたまま力なく宙に浮いているだけ。けれども、その力強い女性の声は確かにソフィーの中から聞こえた。


「ギ……ギギ……ギギ」


 驚く私の目の前でソフィーは身体を大きく左右に震わせると、

 

「ギギ……ギギギ……ギッヒー!」


 顔を掻きむしり、苦しさにもだえるソフィーが私を睨んだ瞬間、彼女の身体が真っ二つに分かれた。

 あまりの光景に声も出せずにいる私の目の前で、裂けた身体の断面から2本の白い腕が現れる。その腕は容赦なくソフィーの半身を投げ捨てると、広がった断面からヌルリと細身の人物が抜け出てきた。


 長身で流れるような艶のある黒髪、白いシャツに黒いスカート。黒と白に覆われた彼女の唇だけが赤く、それがミステリアスでもあり、同時に近づきがたい雰囲気もかもしだしている。毒を持つジャコウアゲハの妖艶さに例えられた彼女を私は知ってる。


「さあ、本当のラストゲームをしようじゃないか」


 彼女――「トリックスターの遊戯」の主人公、春夏秋冬ひととせつかさは、動けない私に向かって口角を上げて笑ってみせた。



   ◇   ◇   ◇



 姉崎茜はいら立っていた。それは、彼女が治療責任者だから、というだけではなかった。


 BCIMが作り出した治療環境世界で異常事態が発生し、治療行為強制解除オートイジェクトが実行されたのが6時間前。あと3時間で治療環境世界と患者、覚醒支援者との接続がシャットダウンされる。シャットダウンは患者と覚醒支援者の生命維持を最優先とした緊急避難措置であるため、これまで治療効果が喪失してしまうのはもちろんのこと、シャットダウンによる影響が脳神経へどれぐらいの影響をもたらすか計り知れない。最悪、施術前の方がましだった、という結果にならないとも限らない。


 だからこそ、姉崎はこの6時間、反応を返さないモニターに向かってただひたすらメッセージ送信を繰り返し、計測数字のどんな小さな変化も見逃さないようにしていた。それは、総合研究センターのお偉方や同局他チームの同僚たちが入れ替わり立ち替わり経過観察室ここに来ては「このままだと困るんだよねぇ」「優等生の実力、期待してるわぁ」などの嫌味に焦ってしまったからではない。


 今の姉崎にそのような雑音など聞こえない。彼女を動かしていたのはたったひとつの後悔の念、科学者としての理性ではなく、人として感情で判断してしまったあのこと。やはり〝彼〟を覚醒支援者として認めるべきではなかった――姉崎は自分自身にいら立っていたのだ。


 姉崎が行っているのは観察者側から覚醒支援者への呼びかけ。通常はそれに反応する覚醒支援者の脳内ニューロン信号を読み取ることでBCIMの治療経過をモニタリングするのだが、今は覚醒支援者の意識があるのかそれだけが知りたかった。

 呼びかけに応じれば正常な信号交換が出来るとしてBCIMがオートイジェクトを停止する可能性も出てくる。それなのに〝彼〟はまったく反応を返さない。


 隣の部屋をガラス越しに見れば、井村やすらが覚醒支援者〝彼〟の身体をさすったり動かしたりしながら外部刺激を与え続けていた。やらないよりましだがどれほどの効果があるかは期待できない。「それでもやらないよりましだと、井村は思うのです」薄く笑った彼女は姉崎と同じくらいの時間、それを続けている。


 姉崎は初め、治療環境世界で何かトラブル――例えばしびれを切らした〝彼〟が自ら素性を明かして玲奈に過度な心的ストレスを与えてしまった、など――が発生したのではないかと考えていた。しかし、本当はむしろその逆、〝彼〟は最後まで治療を続行するために自らBCIMの接続を絶とうとしているのではないか、今はそのような不安が心をよぎっていた。


 反応のないモニターを見ながら、姉崎は小鳥遊玲奈が遭遇した事故のことを思い返す。


 家族4人での事故、夜の道路を自家用車で走っていたところに飲酒運転のトラックが横から激突した。小鳥遊家の車だけでなく、後続車と対向車も巻き込み、車4台、歩行者を含めて十数人が死傷する大事故となったと聞いている。玲奈の義父ちちと母は即死、もうひとりの〝彼〟は運転席だったこともあり奇跡的に軽傷、その後ろに座っていた玲奈が意識不明の重傷だった。


 その大事故から3ヶ月後、遷延性意識障害と診断された彼女は国立BCIM脳科学医科理科総合研究センターに移送される。ここでなら意識を取り戻す可能性がある、移送は〝彼〟の希望だった。そして8ヶ月が経過し、〝彼〟以外に覚醒支援者としてマッチする者は現れなかった。


『分かった、君を覚醒支援者として認めるわ。ただ、それには1つだけ条件があります』


 自分を使ってBCIMの治療をしてくれと何度も懇願する〝彼〟に約束させた条件、それは、


『治療環境世界で絶対に自分の素性を明かさないこと。彼女自身に思い出してもらわなければ意識は戻らないと思って欲しい。それに――』


 結局その時は言葉を飲み込んで最後まで口に出来なかった事を思い出して、姉崎は大きく溜め息をついた。モニターには相変わらず反応はない。


 ふたりだけの家族になってしまったことに負い目を感じ、だからせめて玲奈だけは救いたい、〝彼〟がそう考えていたことは姉崎も理解していた。玲奈の覚醒の障害になっているもの、それはほぼ間違いなく〝彼〟の記憶。BCIMは障害となっている記憶を除去することで患者の意識を覚醒へと導く。それはつまり、患者本人の意思に関係なくある特定の記憶を取り除くということだ。


「自分の記憶を消せ、なんて言葉、本人の口から言わせたくなかったから」


 姉崎は病室にいる覚醒支援者〝彼〟――小鳥遊健司に向かって呟いた。


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