第33話 幕間・その9「そんなことはさせませんよ」
Brain-computer interfaces in medicineシステム――BCIMはある症候群に対して特定の条件を満たしたときのみ用いられる医療行為だ。基礎理論こそ数十年前から存在していたが、臨床実験による治療成績が認められ、政府の認可がようやく下りたのが3年前だった。
意識障害の中でも高レベルとなる昏睡状態は他の原因がない限り4週間程度で回復する。
昏睡状態から回復したものの意識が覚醒しない――身体を維持するための視床下部や脳幹が機能し続けているものの思考と行動を司る大脳が機能回復していない――場合には
いわゆる〝植物状態〟と呼ばれるこの症候群は、頭部への重度な外傷による脳損傷または心肺停止などによる脳への酸素共有が絶たれたことにより引き起こされる脳機能障害であり、BCIMによる治療はその回復に有効な唯一の方法だった。
BCIMは大脳の機能回復の障害となる記憶を除去することで患者の意識を覚醒させる治療行為であり、具体的には
患者と覚醒支援者はヘッドデバイスによってBCIMに接続され、用意された治療環境世界の中で行動を共にする。意識の覚醒を阻害する記憶を患者自身で自覚しないとBCIMが探知できないため、覚醒支援者は間接的に導くこととなる。
通常、覚醒支援者は訓練を受けた医療従事者が担当する。しかし、脳神経細胞内で発生する電位変化の同期は非常にデリケートで相性の問題もあるため、必ずしも医療従事者が覚醒支援者になれるわけではない。医療従事者と患者の同期率が低い場合には患者の家族などが覚醒支援者となることもある。患者との同期テストで家族が適任と判断されると6ヶ月の訓練を受けた後に覚醒支援者となる。
この訓練の中で覚醒支援者はBCIMを通じてドクターと簡単なコンタクトを取る方法も学ぶ。治療中、このコンタクトによって覚醒支援者はドクターの指示に従い患者へのアプローチを微修正して治療に繋げていく、のだが――。
背の高い白衣の女性、治療責任者である姉崎茜は、昨夜からなんの反応も示さないBCIMのコンソールの前で一睡もせずに朝を迎えた。ガラス越しに隣の白い病室に目をやると、繭のような2つのベッドと、それと繋がる無機質な計器類だけが見える。繭の1つには
「まだ〝
眼鏡の小柄な女性、BCIM技師の井村やすらが操作室に入ってくる。井村からコーヒーのカップを受け取りつつも姉崎はモニターから目を放さない。
こちらからのコーリングに無反応なまま12時間が経過している。現実世界と治療環境世界では時間経過に差があるとはいえ、通常は3時間以内にコンタクトが行えるようにBCIMは調整されている。それが出来ていないということは、治療環境世界で
ただ、治療環境世界でエマージェンシーが生じた場合には、治療行為よりも患者・覚醒支援者の生命を優先させるためにBCIMが治療環境世界のロックまたはプロテクトを実行するようプログラムされている。いま姉崎が見ているモニターには、エマージェンシーを知らせるメッセージも、システムのロックやプロテクトを示すステータスも表示されていない。
つまりそれは、覚醒支援者があえて反応を返さない可能性があるということ。しかし何故――いら立ったように人差し指でテーブルを何度も叩きながら姉崎は考える。
ただひとりの家族となった〝彼〟が覚醒支援者候補に上がった時、正直、姉崎は否定的だった。しかし、〝彼〟以外に患者との同期率で治療行為に耐えうる結果を出した医療従事者はおらず、治療開始時期と覚醒確率を考えると次の候補者が見つかるまでBCIM治療を延期するのは得策とはいえなかった。
そこで、〝彼〟に何度も意思確認を行い、BCIMに姉崎と井村の疑似人格を
「〝彼〟はあれだけ
黒縁眼鏡を押し上げながら井村はニコリと笑ったが、姉崎は同調するのを
確かに〝彼〟は
『姉崎先生、俺は必ず目覚めさせますよ。それが俺の最後の責任だから』
何回目かの意思確認の面談で、〝彼〟は姉崎にだけそう呟いた。その時の思い詰めた顔を姉崎は思い出す。自分の身を顧みず相手のことだけを想うのは美しいが危うい。ましてそれが自分の身を犠牲にすることで成り立つのであれば。
――これ以上、治療効果が検出されないのであれば打ち切りを検討せざるを得ない
12時間前、〝彼〟に送ったメッセージ。BCIMによる治療は患者、覚醒支援者双方の脳神経に負担をかける。72時間以内に患者に覚醒の兆しが現れなければ治療を中止することは
『そんなことにはなりませんよ』その時の〝彼〟は薄く笑った。
いや、違う、姉崎は首を振った。唐突に思い出した、あの時の〝彼〟の言葉はこうだった――『そんなことはさせませんよ』。
「先輩、アラートが!」
井村の声に現実に引き戻された姉崎はモニターに意識を集中する。幾つもの警告メッセージが赤文字で浮かび上がっている。次々に現れる警告文を素早く目で追う。
ふたつの覚醒支援者補助疑似人格プログラムがフリーズしたこと、治療用個別人格が暴走して隔離されたこと、患者または覚醒支援者の保護プログラムが起動したこと、治療環境世界がロックされてシステムの診断モードが立ち上がったことが読むよりも早く表示されていく。
「先輩、これ!」
井村がモニターに浮き上がった警告メッセージの1つを指差す。そこには
オートイジェクトは、患者または覚醒支援者のどちらかの生命維持に重大な障害が生じたと判断された場合にBCIMが実施する強制終了プログラムであり、これが起動すると9時間後に患者、覚醒支援者、BCIMの接続が
姉崎が青ざめたのはその最悪な結末を予想したからだけではなかった。シャットダウンを告げる警告の次に続いた文章がセーフモードの開始を告げるものだったからだ。
セーフモードの起動は何者かの治療環境世界への介入を意味する。もちろん、姉崎や井村はそれをしていない。
「健司くん。あなた、そこで何をしているの?」
姉崎は思わず〝彼〟の名を口にした。
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