第4話 サイカトセツ その一
10年前、アメリカ合衆国、テキサス州エルパソの郊外で、かねてから誘拐と人身売買の容疑のあった人物に司法当局による捜査の手が入った。
肉屋を経営するその人物が所有する古い建物は、郊外でも人気のない地域にあった。強制捜査のため突入した捜査チームは、そこで恐るべき光景を目撃した。
鼻を突く悪臭。牢に閉じ込められた数名の幼い少年少女たち。壁にかけられた、拷問や性的虐待のためと思しき器具。バケツの中の肉片。
部屋の中央には、両手を血塗れにして立ち尽くす一人の少女。
そして、判別不能なまでに頭部を破壊された、容疑者である肉屋の主人の死体。
突入した捜査チームの人員の中には、そこで目にしたものを、終生の悪夢として繰り返し見る者もいた。
両手を容疑者の血で赤く染めていた少女には、当然のごとく肉屋殺害の嫌疑がかかった。だが徹底した現場付近の捜索にもかかわらず、血液の付着した凶器は発見されなかった。
つまり状況的な証拠から論理的に考察した場合、長期に渡る監禁で栄養失調の13歳の少女が、身長で5フィート、体重で200ポンドを超える成人男性を素手で撲殺したばかりか、その頭部を原型をとどめないまでに破壊し尽くした、ということになる。
捜査官たちは悩みに悩んだ末、より無難な結論を選択した。すなわち、捜査が入る前に侵入した何者か(おそらく屈強な大男だろう)が凶器を用いて被疑者を殺害し、凶器を持って立ち去った、その後錯乱した少女は被疑者の血液を自分の両手に塗り付けた、と。
心身ともに酷い環境にあったためであろう、少女は当日どころか、誘拐される前の記憶まで全て失っていた。名乗り出て来る近親者もなく、少女は長期間にわたる心身のケアを受けた後に、ある修道士会の運営する孤児院に引き取られていった。
修道院長はその少女にルイーズ・ウィズダムという名前を与えた。ウィズダムとはすなわち知恵、深き知恵に恵まれることを願って。
院長の期待どおり、深く良き知恵を身に付け、敬虔なキリスト教徒として成長していったルイーズだが、同時に自分の中に、尽きせぬ怒りがあること、そしてその怒りが、ある力を呼び覚ますことにも気づいていた。
やがて二十歳を迎えたルイーズは、誓願をたて、シスターとしての活動を開始する。
修道会が新たに日本のとある地方都市に拠点を設け、活動を行う事になり、シスター・ルーことルイーズもその一人として来日、言葉を学びつつ、慈善活動と祈りを捧げる日々を送っていた。
シスター・ルーがその声に気付いたのは数日前のことだった。内なる声が、この国のある場所へ向かい、ある男に会うようしきりに告げていた。最初はそれを無視していたものの、内なる声は日増しに大きくなり、耐え難いまでになっていく。抗いきれず、ふらふらと教会を後にした。そしてここへたどり着いた。
会うべき男は、ひと目見ただけですぐにわかった。まったく見ず知らずの男のはず、なのにひどく懐かしい。知らないはずのその男の名が、口をついて出た。
「こんにちは、あなたは真田大輔さんですね?」
そこで鋭い制止の声がかかった。邪魔者だ、排除しろ、とシスター・ルーの内なる声が告げる。そしてこの男を我が物とするのだ。
だがそれには怒りが足りない。長年に渡る教会での、節制に満ちた生活と修練の日々は、シスター・ルーに強力な自制の心を植え付けていた。怒りを、もっと怒りを、そのためには――
「三手、やるよ、打ってきな」
間髪を入れず、凄まじい三度の衝撃、意識が遠のき、気がつくと地に伏していた。あの頃の経験から、殴られ蹴られることには慣れているつもりでいたが、それでもこれは度を越していた。さながらトラックにでも撥ねられたような衝撃だった、まだ撥ねられたことは無かったが。
(いくらなんでも、限度ってものがあんだろ!あのメイド服の〇〇〇〇女!)
内心でとはいえ、シスターにはあるまじき言葉遣いで毒づきながらルーは立ち上がった。
(だが、これで――)
シスター・ルーことルイーズ・ウィズダムの能力、それは自身の怒りを糧として、彼女の中に潜在するとてつもない怪力と頑健さを引き出す能力だった。
その名も『
「知らない奴と、いきなり
常人ならば三度死んでもおかしくないほどの打撃、その苦痛は全て消し飛び、ルーの全身には力がみなぎっていた。心の奥深くから、凶猛な衝動が湧き上がってくる、眼の前の敵を叩き潰せと。
「これで遠慮なく、
無数の拳を繰り返しながら、シスター・ルーは
真田大輔は立ちすくんでいた。自分に話しかけてきた時には優しく穏やかな雰囲気だったシスターが、今は豹変し、暴力の気配を全身から発散している。よく見れば体型も変わっているようだ。身長はそのままだが、上体の厚みや腕の太さが増している。何よりも拳だ、一回り大きく見える、と大輔は思った。
繰り出される拳は特定の格闘技の打ち方ではなく、伊三美と同様、我流のようだ。
だが圧倒的な手数と速さで繰り出されるため、受ける清海も守りだけで手一杯で、反撃の隙がない。
大輔はそこで、ある違和感に気付いた。音だ、聞こえてくる音は、人と人が殴り合うそれではない。さながら、鉄塊と鉄塊がぶつかり合うような、鼓膜に響く重い音だった。
シスター・ルーの手が止まる。
「どうも邪魔でいけないね」
頭巾を脱ぎ捨て、さらに修道服の両の袖を、力任せに破り取った。
「これでいい」
頭巾を脱いだことで、美しい金髪が顕わになる。袖がなくなりむき出しになった両腕は、やはり明らかに一回り太くなっている。両の肩から前腕にかけて、絡み付くような茨のタトゥーが彫られていた。
再びシスター・ルーの猛攻が始まる。雨霰と降り注ぐルーの拳を、清海は時に捌き、払い、受け止めて、時には反撃の拳すら繰り出してはいたが、その手数には圧倒的な差があった。常人であれば、これほどの猛攻を続けていれば息が上がってもおかしくない頃合いだったが、あいにくシスター・ルーにその兆候は見えない。
(
もっと早く気づけなかった自分の愚鈍さを罵りながら、大輔はスマートフォンを取り出す。心身の動揺を必死に抑え、電話帳に登録した信の番号を呼び出す。
呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに信の声が返ってくる。
「どうされました?」
「家の前、緊急事態です、清海さんが戦ってます」
「すぐ行きます、伊三美さんも一緒に」
通話が切られた。
(詳しい状況を聞かずに切った、ということは、駆け付けた方が早い所にいるってことだ)
後は清海が持ちこたえてくれれば、大輔はそう思った。
だがその時、ひときわ大きな衝突音が響き渡った。
ルーの一打が、清海の胴を捉えていた。
大きく後退った清海が膝をつく。
(間に合わない!なんとかしないと……けど、どうすれば?)
大輔は必死に思考を巡らせる。
ルーが清海にゆっくりと歩み寄り、止めとなる一撃を振り下ろすべく、大きく拳を振りかぶった。
全ての思考を投げ出し、大輔は駆け出していた。
清海の頭部を狙って振り下ろされるルーの拳、その軌道上に自らの身体を割り込ませる。
近づいてくる巨大な拳の速度を、ひどくゆっくりとしたものに感じながら大輔は思った。
(ああ、これ、死ぬやつかもな……)
拳が大輔の眼前て停止した。凄まじい拳圧を受け、顔の肉が大きく歪むのを感じる。直撃していれば大輔の首から上は無くなっていたかもしれない。
ルーの並外れた反射神経がそれを察知し、更に並外れた筋力で無理やりに止めたのだ、その反動でルーの全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
「危ないよ?下がってな」
直前まで、命のやり取りをするような殴り合いをしていたとは思えないほど、ひどく穏やかな声でルーが言った。
恐怖は遅れてやってきた。大輔の全身から冷たい汗が吹き出す。歯の根が合わないほどの震えが襲ってくる。震えを抑えようと、砕けそうなほどに奥歯を噛み締める。食いしばった歯の間から大輔は答えた。
「嫌です」
ほんの僅かな時間だが、ルーは逡巡した。この人を脇へのけて、あのメイド服の女にとどめを刺すべきか?いや、渾身の一撃を遮るために平気でその身を乗り出す人だ、例え押しのけたところで、何度でも邪魔をしにかかるだろう、だからといってこの人を傷つける訳にはいかないし、傷つけたくもない。なぜなら――。
そこまで考えたところで、シスター・ルーは異変に気付いた。辺りに白い煙が立ち込めつつある、いや違う、煙の臭いではない、霧だ。
(この晴れた秋の午後に霧?馬鹿な!?)
何処からか飛んできた短い棒状の何かが、ルーの頬を鋭くかすめた。頬が切れ、血が滲む。
「そこまでだ、拳を収め、退くことだな」
低く落ち着いた声が何処からともなく響く。女の声だった。声は続けて言う。
「このまま退くならば、こちらも手は出さない」
霧の間におぼろげな影が浮かぶ。
ゆっくりと近づきながら、その影はさらに言った。
「だが、続けるというのなら、二人を相手にする事になるぞ……いや、五人だな」
「ご無事ですか!」
信の声が霧を通して聞こえた。向こうから、三人の姿が駆け寄ってくる。
(大きいのは伊三美さんだな……あと一人は誰だろう?)
大輔は強烈な安堵感に襲われた、膝から力が抜け、その場で気を失いそうになる。
(いや、だめだ、まだ気を抜くな)
せめてもう少しだけ、格好をつけたかった。
大輔の後方から、謎の声の主が近づいてきた。大輔は振り向く。
立ち込める霧の中、少しの距離をおいてもはっきりとわかるほど美しい女性だった。顔立ちは整い過ぎと言っても過言ではない程だ。無表情であることも相まって、いささか冷たい印象を受ける。長身で均整の取れた体格。シルバーブロンドの髪。ちょっと月並みかなと思いつつも“氷の女王”という形容が大輔の脳裏に浮かんだ。
その“氷の女王”が言った。
「さて、どうする?」
大きなため息を一つつくと、シスター・ルーは言った。
「……勝負は預けておくよ」
踵を返し、歩み去ろうとする。
駆け付けた伊三美が、地に膝をつく清海の姿を認めた。
「姉貴!……てめえ!」
シスター・ルーに対して向き直り、身構える伊三美を“氷の女王”が制した。
「よせ、
“氷の女王”は信と荘へも語りかける。
「八犬士のお二人も、よろしいですね」
シスター・ルーは信と伊三美の間を抜け、ゆっくりと歩み去った。
大輔に真正面から対峙した“氷の女王”は言った。
「お初にお目にかかります、十勇士、
「はは、どうも……」
そこまで言うと、大輔は気を失った。
先ほどの死闘から少し離れた路上を、シスター・ルーが歩いてゆく。行き交う人々は皆、足を止め、脇に身を寄せて広く道を開ける。袖を引きちぎった修道服を着て、髪を振り乱した巨体の尼僧が歩いてくるとなれば無理もない。ルーはそんな周囲の様子も、まるで意に介することなく歩いてゆく。
と、ルーの足が止まった。その口から赤い血が吹き出す。清海が最初に放った三度の打撃が、ルーの内部に深いダメージを与えていた。
(たとえ一対一でも、あのまま続けていればどうなっていたことか……むしろ助けられたのは、こちらの方かもな)
実はあの時、大輔が飛び出し、その身を持って制止したことで、“
(それにしても、あの人……自らの命も顧みず、仲間のためにその身を投げ出すとは……実にあの人らしい……楽しみだ……これからが、実に楽しみだ……)
ルーはそのまま、路上に倒れ込む。
(あのメイド服の……馬鹿女への復讐も……楽しみ……だ)
そのまま意識を失ったルーの近くに、一台の車が停まった。黒い塗装、外国製の大型のSUVだ。中から黒服の男達が数人降りてくる。気絶したルーを素早く車に担ぎ込むと、何処かへ走り去った。
香港、九龍会のオフィス。副頭目である
「ご苦労、腕の良い闇医者の当たりは……そう、ついているのね、ではそこで治療を……」
会話の相手はおそらく手下の者の一人なのだろう、一連の報告を受けると、いくつかの指示を出し通話を切った。
九竜会の頭目である
「シスター・ルーことルイーズ・ウィズダムの身柄、無事に確保できたようです」
自室のベッドの上で大輔は目を覚ました。ベッドの脇のフローリングの床には、才華が正座していた。
「お目覚めですか」
才華が声をかける。
「あ、はい、清海さんは?」
「清海は大丈夫です、それよりもご自分のことを」
才華の声音は冷ややかだった。
「身体に外傷は見られませんでしたので、こちらにお運びしました、どこかに痛みなどは無いですか?」
「大丈夫、です」
「ならば結構、あれだけ愚かな振る舞いをして、無傷で済んだのは
才華の声音には、聞く者を震え上がらせるような峻厳な響きがあった。
「『
「……すみません」
「貴男にはいずれ、我々を率いる役目についていただかなければなりません、手足である我々は一人や二人、失われてもどうとでもなりますが、貴男が失われることは、すなわち全員が死ぬことに等しい、このことは常に、お忘れにならないでください」
「……はい」
うつむく大輔の顔に才華の右手が伸びる、大輔は思わず身を固くするが、頬に触れた手は優しく温かかった。
「――本当に、無茶はしないで」
それまでの声音とはうってかわって、その口調はひどく柔らかく、温かで、湿っていた。
すぐに手を戻し、態度を元に戻した才華は続ける。
「明日から我々は交代で、護衛だけではなく、貴男を相応しい指揮官とするための学習と訓練を開始します、今日はもう、ゆっくり休んでください、お風呂と食事の支度は出来ているとのことです、それでは」
そこまで言うと才華は立ち上がり、部屋を出ていった。大輔は才華に触られた左頬に手をあて、しばし才華の言葉を反芻し考え込んでいたが――。
「学習と訓練……学習と、訓練!?」
第四話 終
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