六節〈夜は貴方を敬い続けたかった〉
つい、と軽く人差し指を振ると共に
「“精霊さん、精霊さん。これを洗ってくださいな”」
言葉に源素を載せて、そこかしこにいる精霊に呼び掛ける。
身体から僅かに力の抜ける感覚。宙に描かれる陣。
抱えていた籠に入っていた洗濯物が独りでに浮かび上がり、作り出された巨大な水の玉でくるくる回っていく。
水の玉の中に忘れず洗剤を入れれば、後は待つだけ。
態々水場であくせく洗濯をしなくていいのは、この国で生きる長所の一つだ。
未だ冷たい冬風が吹いた。
積もっていた雪は溶けない朝のうちに使用人総出で片付けたため、少し離れた場所に山となっている。
普段通る道や活動する場所は邪魔になるから片付けたが、裏庭などは基本しない。
そのうちリーゼロッテが遊びに来るからだ。
今日も今日とて、巨大な雪達磨造りに励むのだろう。
毎年
リーゼロッテも、もう十歳になる。
月日の流れとは早いものだ。
ならば、自身ももう直ぐ成人か。
何時もより雲の多い空を見上げた。
少女が『セレナ』と名乗るようになったのは、十年ほど前からだった。
少女は元々
同じくこの屋敷で働くとある少年のように、外から来た者なのだ。
ただ一つ違うのは、少女はここに来るまでの記憶を持っていなかったということだった。
目覚めたとき、少女は森の中で横たわっていた。
真っ暗な森。月明かりしかない中、ぼろぼろの身体で少女は歩き出した。
『こっちにおいで』と光に導かれながら。
その光が精霊と言うと知ったのは、もう少し後のことだった。
光に導かれるまま少女は森を抜け、また森に入り、そしてあるところまで辿り着く。
そこは、大きな屋敷だった。
塀があって、人が居る。
────
門番らしき男が、少女に近付いて来た。
何か話し掛けているようだが、少女は彼の言葉が分からない。
困っていると、光が喋り出す。
────“『どこから来たの』だって! どこから来たの、どこから来たの!”
少女は首を振る。
自分がどこから来たのか。
どうして森に居たのか。
何も、分からなかったのだ。
────
男は腕を組んでうんうん悩む。
この子厄介な事情持ちだ、と察したのだ。
しかし、使用人である自分は今、この子に何もしてあげることはできない。
裁量は雇い主による。
あの人格者な雇い主のことなら悪いようにはしないはずだが、少女は十中八九この国の外の者だ。
長年の経験上、この少女は刺客でも何でもないのは分かる。
だが、雇い主は良くても事情によっては国が赦さない。
少女本人に悪意が無くとも、体内に兵器を埋め込まれていたり、外部から操作されている可能性もあるのだ。
どうやって外の結界を越えてきたのか、という疑問もある。
はてさて、どうしたものか。
見捨てるという選択肢はない。
男は、門番である前に人間だ
子どもにそこまで非情になれなかった。
仕事上やらなければいけないことならまだしも、『殺せ』とも『追い返せ』とも言われていないのだから、少女を助けてやってもいいはずだ。
雇い主に現場指揮は任されている。
あまり口は得意ではないが、どうにかして彼に少女の保護をお願いしよう。
先ずは、交代で休憩に行った男が帰ってくるまで待たなければいけない。
門番が館の門をがら空きにするのは赦されないのだ。
────
晩夏のあまり肌寒くない夜と言えども、薄着の少女をこのまま放置するのは忍びない。
羽織っていた
そこまで質が良いとは言えないものだが、確かに暖かい。
すとん、と身体の力が抜ける。
森からここまで張り詰めていた気が、やっと解れたのだ。
────
ふらついた少女の身体を、男が受け止める。
深く被った
少女を抱きかかえ、自身の腿を枕にするように横にする。
────
見上げた夜空には、銀月が輝いていた。
まるで、二人を見守っているような柔らかな光を放ちながら。
そうして、少女はセレナと名付けられ、ここの使用人となった。
使用人、というよりお手伝いの方が合っているかもしれない。
門番の男であり義理の父であるセリアーノの、仕事時間の暇潰しも兼ねて働いているだけだった。
共に働く使用人たちは、とてもセレナを可愛がった。
セリアーノが危惧していた問題は特に無かったし、寧ろ歓迎されていたのだ。
何せセレナは、《精霊の愛子》であったのだから。
精霊とは、源素の塊が意志を持ったものだ。
高位になればなるほど姿は明確になり、知能が上がる。
精霊は基本、契約しなければ姿が見えず、対話もできない。
しかし、セレナは契約せずとも精霊の姿が見え、対話が出来る。
それが、精霊の愛子である証明だった。
アリステラ王国において、精霊とは愛すべき友だ。
その友に愛されている者は、同じく愛すべき者だ。
だから、セレナは阻まれることなく溶け込むことができたのだった。
そして、三年の月日が過ぎた。
十一歳となったセレナは、音を立てないように気を付けながら廊下を走る。
向かう先は玄関口。
今日は、出産に際して街の病院で過ごしていた、領主シルヴェスタの妻クラウディアが帰って来る日だ。
無事に男の子が生まれた、という報告から一週間と少し。
屋敷全体がおめでたい雰囲気で、皆が舞い上がっていた。
あの仏頂面の
勿論、アニスフィアたちも大喜び。
リーゼロッテに関しては、眠れないほど興奮していた。
例に漏れず、セレナも心が踊っている。
表情が乏しいと言われる己が、今日は自分でも分かるくらい頬が緩んでいたのだ。
階段を駆け下りると、大広間には既に少ないながらも人が集まっていた。
「あらセレナ、早いですね。良いことです」
「ありがとうございます、サーシャさん」
使用人の総括である主任サーシャは高年の女性だ。
前当主の時代からこの屋敷に勤めている古参であり、シルヴェスタも頭が上がらないという。
次第に人が集まってきた。
見えないのは門番の二人だけだ。
サーシャが手を叩く。
皆の視線が一斉に集まった。
「さあ、皆さん。
そろそろシルヴェスタ様方がお帰りになられます。
お出迎えするように」
切れの良い返事が広間に響く。
サーシャを先頭に、皆が外に出た。
春風がふわりと吹き、木の葉を揺らす。
ふと見上げた空は、雲一つない澄み渡った晴天であった。
「“帰ってきたよ、帰ってきたよ!
《
「……みこ……?」
精霊たちが飛び回って騒ぎ出す。
セレナには、御子という単語は聞き覚えなかった。
「ねえ、貴方たち。それってどういう……」
「セレナ、静かにしなさい」
言葉の意図を訊こうとしたが、サーシャに注意されてしまう。
それもそうだと思い返し、後で改めて訊こうと考え直した。
数分もしないうちに、屋敷の門が開かれる。
ゆっくりと馬車が石畳の上を進み、セレナたちの前で止まった。
御者台に座っていたオズワルドが、扉を開ける。先に降りたのはシルヴェスタ。
続いて、クラウディア。
二人がある程度近付いたのを認識すると、皆が腰を折った。
「お帰りなさいませ。シルヴェスタ様、クラウディア様」
「出迎えご苦労」
サーシャが出迎えの口上を代表して言う。
シルヴェスタが労えば、セレナたち使用人は顔を上げた。
至って普通に、いつも通りに。
目の前には、シルヴェスタとクラウディア。
横には同僚。
何も、変わりないはずだった。
けれど、今日だけは。
一つ、いつもと違うものがあったのだ。
「────あ」
絹のように柔らかで薄く細い、白練色の髪。
ぷっくらとした頬は、人形のように柔らかそうだ。
将に、聖典の一頁。
天から使わされたような愛らしさ。
《天使》とでも呼べばいいのだろうか。
頭頂から爪先まで、全てがすべてセレナの心を掴んで離さない。
胸が苦しい、呼吸が荒い。
しかし、不思議とそれが心地良いのだ。
美しき我が天使。愛おしき我が天使。
この瞬間、セレナは決意した。
この天使に生涯を捧げよう、と。
齢十一にして、人生の方針が決まったのだった。
「……セレナ、どうしたの?」
「いえ、大丈夫です。何もありません」
「……ならいいけど」
固まっていたセレナに、同僚の一人が声を掛ける。
セレナの食い気味な返答に不安を憶えるが、調子が悪いわけではないようだと改めて動き出した。
周囲の使用人たちは、もう自身の業務に戻ろうとしている。
サーシャに叱られないように、自分も仕事をしなければ。
だが、その前に一つ確認しなければいけないことがあった。
「精霊たち……いいえ、そこの貴方。
隠れていても無駄よ」
「……まさか気付かれるとはな」
「そんなに分かりやすくしておいて、気付かないわけないでしょう」
背後を振り返って、姿が見えないように隠れていた精霊に向かって声を掛けた。
虚空に浮き上がるのは、騎士服と鎧を身に纏った女性型の《人の精霊》。
金色の髪に隠れる黄昏色の瞳が、鋭くセレナを見据えている。
「して、要件とは?」
「ただ訊きたいことがあるだけ。
……御子って、何?」
それは先程、精霊たちが口々に騒ぎ立てていた言葉だ。
騎士の精霊は腕を組み、しばし考える。
「……今はまだ、知らなくても良いだろう」
「……どういうこと?」
彼女の口振りに、セレナは疑問をそのままぶつける。
「言葉通りだ、少女よ。
今はまだ知るときではないのだ」
「……なるほど、ね。
あまり詮索しない方が良いみたい」
「理解が早くて助かる。
いずれ知るべきときが来るさ」
一層強く風が吹く。
思わず、瞬きをしてしまう。
「私がここに来たのは、貴殿に一つ忠告をするためだ」
耳元で声が聞こえた。
反対方向に飛び退けば、元に居た場所の真横に精霊が移動している。
「────あれに入れ込むな。
必ず、後悔することになる」
そう言うと、精霊は
「待ちなさい!」
セレナは追いかけようとするが、また強い風が吹いた。
木の葉が散り、花が散り、春の匂いが香る。
再び目を開けると、そこにはもう誰も居なかった。
「……逃げられた」
言い逃げした精霊を探そうにも、彼女らは幻想界に棲んでいる。
肉体を持つ《人》であるセレナには、幻想界に直接向かうことはできなかった。
ぐっと、掌を固く握る。
かの精霊はセレナに対して、どうしてあのような言葉を掛けたのだろうか。
あれとは恐らく、敬愛する天使のことだ。
何故入れ込んではいけないのか。
何故必ず後悔することになるのか。
詳細は語らずに、彼女は去ってしまった。
本来ならば、従うべきなのだろう。
精霊、特に上位精霊は時偶人々に助言をする。
彼らは世界そのものの触覚であり、世界の流れを察知できるのだ。
彼らの言葉は常に最善であり、真実である。
だからこそ、従わなければいけない。
だが、しかし。
それは、自分の心に逆らうことだ。
セレナは、一目であの天使に心酔した。
その心を裏切ることなど、出来やしない。
自分が好きなことをして何が悪い。
自分が好きな人を愛して何が悪い。
何者であっても、意志を歪めさせてなるものか。
握った拳を天に突き立て、宣言する。
「我が天使への愛は世界一────!」
「何をやっているのですか、セレナ」
叫ぶセレナ。
背後に立つサーシャ。
ああ、今日は良く背後を取られる日だ。
呆れたサーシャに引き摺られながら、セレナは青い空を見上げた。
セレナは、大きく溜息を吐いた。
最近、我が天使は元気がない。
一見明るく振る舞っている彼だが、長年付き添ってきたセレナだからこそ、その仮面の下に隠された顔に気付いていた。
決して、憂いを帯びた顔も良いですね、などと言っている場合ではないのだ。
原因の六割は、彼が恋している少女との関係だった。
何でも、喧嘩別れして半月以上そのままであるらしい。
あれくらいの年齢の子どもでは、互いに意地を張り合って引っ込みがつかなくなるというのはよくあることだが、二人はそこまで幼稚ではなかった。
偶に、セレナが驚くほど大人な態度を取るあの二人のことだ。
単なる喧嘩ではないのだろう。
歯痒い気持ちもありながら、セレナは仲裁をすることができない。
中途半端に大人が出張ってくるのは、更に仲を拗らせることにもなるからだ。
それに、セレナよりも彼らに年齢が近く、友である弟分がいる。
下手にセレナが動くより、テオドールが動いたほうが良い。
いやしかし、もう半月も経っているのに改善していないというのはおかしくないだろうか。
だが、干渉するのは────
「また悩んでいるのか、セレナ」
「また来たの、騎士さん」
見慣れた金髪が横に現れた。
あの日以降、彼女はずっとセレナに付きまとっている。
騎士さんとは、セレナが付けたあの精霊の仮の名前だ。
精霊は、契約者のみが名を知覚できる。
最上位の精霊でも、それは同じだ。
「……そういえば、まだ教えてくれないの? 御子のこと」
風に靡く洗濯物を眺めながら、呟くように訊いた。
「……良いか、教えよう」
「え、いいの?」
「聞きたくないか?」
「いや、聞きたいけど……ずっとはぐらかして来たのに、なんで急に良くなったのかなって」
精霊は、哀しそうに目を細める。
「……もう何も変えられなくなったから、だ」
「変えられない……?」
また、よく分からないことを。
訝しむセレナを横目に、精霊は話を続ける。
御子とは、神の力を宿す者────そして、世界の生贄のことだ。
現在は、祝福保持者とも呼ばれている。
厳密には、少し違うが。
御子はやがて、世界を守るために犠牲となる。
その身を礎とすることで世界の安寧が保たれるのだ。
「……必ず、後悔することになるっていうのは」
「貴殿は喪うことになるのだよ、あの少年を。
それは今や、変えられない未来だ」
精霊は、嘘を吐かない。
つまり、これは真実だ。
「……変えられないのは、どうして」
「演劇を見たことがあるか?」
セレナは頷く。
レイフォードとユフィリア、そのお付きの使用人ユミルとテオドール。
五人で見たあの劇は、今でも鮮明に思い出せた。
「脚本は、幕が上がってしまえば書き換えられない。
それと同じだ。
……演者が変える、というならば話は別だが」
「なら、私は変えられるの?」
「不可能だ。
貴殿はただの『観客』にしか過ぎない。
この先の展開を知らないだろう?」
その通り、セレナは何も知らない。
レイフォードの身に何が起こっているのかも、彼が何を謀っているかも。
セレナはただ、見守ることしかできなかった。
「だから言ったのだ、『必ず、後悔することになる』と。
入れ込まなければ、ただの他人が死ぬだけだというのに」
「……それでも、私は」
セレナは俯いていた顔を上げ、精霊と視線を合わせた。
「私は、レイフォード様を愛す。
喩え、後悔することになっても、愛さなかったことで後悔したくない」
自分もこう言えていたら良かったのに、と変えられない過去に浸ってしまう。
目を隠すように手で顔を多い、精霊は言う。
「ああ、貴殿は昔の私と同じようで違う」
一際強く、風が吹いた。
あの日と同じ晴天に、花と葉が舞う。
「それほどまでに強い意志があるならば、諦めるな。
観客を舞台に引っ張り上げる演者だっている」
「……ええ、勿論」
鉄仮面な顔が、少し綻んだ気がした。
「誰か、居る?」
「私はここで、励めよ少女」
「ええ……」
突如聞こえたレイフォードの声に、精霊は尻尾を巻いて逃げ出す。
彼女にとっては、いつものことだった。
レイフォードが現れると、精霊は直ぐどこかに消える。
苦手なのか、と聞いても話を逸らすのだ。
「居りますよ、レイフォード様。
いかがなさいましたか?」
「ちょっと外の空気が吸いたいなあって思って。
……セレナ一人?
もう一人くらい誰か居なかった?」
「気のせいですよ、お気になさらず」
レイフォードは、一年半前と同じように杖をついていた。
患っている病気により、視界と身体の自由が喪われてしまっているのだ。
「テオドールは、どうしたのですか?」
「……一人になりたくてね。申し訳ないんだけど」
風で舞い上がる髪を片手で抑えながら、目を伏せて言った。
「なるほど……しかし、長くいれば身体に触りますよ。
春になると言っても雪も降りましたし、まだ肌寒いのですから」
「分かってる。セレナが戻るときに一緒に戻るよ」
そうして、会話は途切れた。
聞こえるのは風の音、鳥の鳴き声。
目の前では洗濯物が、優雅に風に煽られている。
そんな静寂を切り裂いたのは、セレナだった。
「レイフォード様」
「……どうしたの、セレナ」
これを言うべきか、セレナは迷っていた。
『観客』の立場で『演者』に話していいものか、と。
しかし、『演者』ならば、自身を応援してくれることは嬉しいはずだ。
だから、セレナは決めた。
「貴方がどんな未来を選んでも、どんなことを決めたとしても。
私は、貴方を支えましょう。
貴方の選択と決断を称えましょう」
────私は、貴方を愛しているのですから。
「……ありがとう。少し気持ちが楽になったよ」
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