五節〈美しき月は白日に輝く〉
鐘の鳴る音が聞こえる。
町の教会から響く音は、今日も領民に朝を告げる役割を果たしていた。
ゆっくりと時間を掛け、むくりと上体を起こす。
初めと比べれば随分良くなったものだ。
未だに収まらない頭痛と倦怠感も、慣れてしまっているのか辛いと思う気持ちが小さくなっていく。
物を持てないことや自立できないことの不便さを除けば、普段通りとまではいかないが、まともに生活出来るようにはなっている。
起き上がることもできなかったあの二日と比べれば、だが。
依然として、規格外の体内源素量は減少する兆しを見せない。
それどころか消費することができないのだから、増えていくばかりだった。
レイフォードの自室の扉が叩かれる。
従者が朝の支度を整えに来たのだろう。
幼い割に優秀であるという評価を受けるレイフォードは、齢五歳ながらにして一人部屋を享受していた。
アーデルヴァイト家の方針として、六歳から一人で起床・就寝をすることになっている。
この国では六歳から初等教育が始まり学校へ通う義務があるから、ある程度自分でできた方が良いという考えの元実行されていた。
実際、効果は覿面らしく、シルヴェスタの親の親、つまりは曽祖父母の頃から受け継がれている。
本来ならば、レイフォードはまだ一年の猶予があった。
しかし、親離れができていないというわけでもなく、一人で問題を起こすような子どもでもなかったことから、時期を早めて一人部屋となったのだ。
シルヴェスタもほぼ同時期に貰っていた、と言うことだし、そこまでおかしなことではない。
いや、そう言えばシルヴェスタも
従者にされるがまま、レイフォードは着替えていく。
清潔な白い
最近はずっと寝間着だったから、きちんと服を着たのは久しぶりだった。
「レイフォード様、本日のご予定は……」
「分かっているよ、セレナ。お客さんが来るんだよね」
そう着替えさせられたことにも理由があった。
今日は来客が訪問するようで、従者たちは朝から忙しくしている。
来客はシルヴェスタの旧友だと小耳に挟みはしたが、名も見聞も知らない。
レイフォードが知っているのは、その友人の娘と二人で過ごすということだけだ。
兄であるアニスフィアや姉のリーゼロッテがいれば二人が相手をしただろうが、生憎昨日から学校が始まってしまっている。
帰ってくるのは昼過ぎになるため、予定が噛み合わない。
彼らが来訪するのは、十時を過ぎたくらい。
シルヴェスタが友と何をするか知らないが、早く終わる用事でもないのだろう。
レイフォードは、その娘とやらとどこまで上手くやれるか不安で仕方がなかった。
その実、レイフォードには他人と関わった経験というのが一切ない。
生まれてこの方、屋敷の外を知らないのだ。
社交界に出るのはこれからという歳だし、学校もまだ先だ。
屋敷に篭りがちであるから町へ下りたことも殆どない。
精々毎年の新年祭に家族と共に向かうくらいだ。
そもそも家から出ることすらなかったレイフォードにとって、初対面の子どもと長時間遊べなど到底無理な話だ。
ましてや、今は身体のこともある。
ある程度回復しているとしても、そこまで長くは持たない。
シルヴェスタはいったい何を考えているのだろうか。
父への疑問を抱えながら、レイフォードは以前より少なくなった食事を摂る。
忙しいというのに、自分に時間を割かせてしまっていることへの申し訳無さが積もっていく。
回復の目処が立たない身体へ、怒りが蓄積されるのは至極当然だった。
だが、怒っても治ることはない。
そう簡単に治れば過剰症は難病指定など受けてはいないのだ。
朝食が終われば、従者は本来の仕事へ戻る。
屋敷の掃除か洗濯か皿洗いか、はたまた別の仕事かは分からないが、洗練された動きで速やかに移動していく。
彼女もここで働き始めて、もう七年だ。
まだ年若いながらも、型に入った仕事振り。
レイフォードはそれに嫉妬してしまう。
彼女のように動ければ、なんて願ったってどうにもならないというのに。
所在なさげに俯けば、右手に刻まれた幾何学模様が視界の端にちらりと映った。
神様の祝福の証と呼ばれるこの模様、《聖印》はあの異常現象の際に右腕に覚えた違和感の正体だった。
レイフォードと同じように、祝福の儀において神々から祝福を受ける者は稀にいる。
祝詞を呟き、結晶が呼応して輝き始めると同時に、肉体のどこかへ聖印が刻まれる。
大きさも形も人それぞれだが、黒色であることと幾何学模様であることは共通していた。
例に漏れず、レイフォードも右手から上腕にかけて、黒の幾何学模様が存在している。
《祝福》がいったいどんなものなのか、未だに良く解っていない。
少なくとも王国最古からある現象で、数十万人に一人という確率であるのは確からしい。
そして、もう一つ重要な情報がある。
祝福保持者には特異な能力が与えられることだ。
例えば、見える限りに炎を出現させる。
液体を自在に操る。
どこからともなく剣を取り出す。
源素を使用せず、物質界に影響を与える力。
即ち紛れもない《神秘》そのものだった。
能力は聖印と同じように様々であり、現在は聖印の違いが能力の違いであるとされている。
一見、とても便利なように見えるが、その裏にはある危険が潜んでいた。
祝福の義を受けるのは五歳になって直ぐの時。
つまり、まだ世間の常識や法則について無知だということだ。
幼子が祝福を持ち、その力を理解できていないという事態は、一歩間違えれば大惨事になり得る。
強力な力は、転じて自らの身を滅ぼすものになるのだ。
そのため、自身の能力を知る必要があるのだが、レイフォードには何もできなかった。
レイフォードの祝福は記録がない種類の聖印であり、能力の予測も付かない。
どんな能力か分からないから力の使いようも、どれほど危険なのかも分からない。
いつ暴発するかだって分からない。
知りたいと願っても、そこに必要な情報がまるで無い。
ずっと無い物ねだりをするばかりだった。
いつまで、こんな生活が続くのだろう。
今日も晴れている空から日光が降り注いでいた。
一台の馬車が走っている。
側面に描かれた家紋から、とある貴族の馬車であることは直ぐに分かるはずだ。
だが、ここにはそれを知る者はいない。
ただでさえ魔境と呼ばれる東部の、更に端。
最東端であるアーデルヴァイト領クロッサスの町外れの森。
そこにいるのは動物だけで、人なんてどこにもいない。
人なんていないから、彼らを知る者もいない。
勿論、彼らが目指している先を知る者もいなかった。
「見てお父様、あそこ! 何か食べてる!」
「……よく見つけたな。あんなに小さいものを」
少女が森のある木の下を指差す。
そこには二匹の子鹿が立ち止まっていた。
木に顔を押し付けて、皮を剥いで食べているように見える。
父と呼ばれた男は、少女の目の良さと観察眼に感嘆した。
箱入りと言うほどでもないが、大切に育ててきた娘の意外な才能を、こんなところで発見するとは思っていなかったのだ。
始めて遠くまで連れ出したが、既に良い経験になっている。
本題はまだ始まってすらいなかったのだが。
何度も訪れた友の屋敷まで後五分くらいだろうか。
体感で憶えた時計が、男の頭の中で時を刻んでいた。
「そろそろ着く頃だな。
ようし、ユフィ。今日のやるべきことを復習しようじゃないか。
言ってみなさい」
「はい!
ええっと、お父様はお友だちと話すことがあるから、お屋敷についたら私と離れ離れになります。
私はそのお友だちの息子さん? と時間になるまで遊びます。
終わり!」
「良くできました。ちゃんとできるかい?」
「もちろん!」
ユフィ────ユフィリアは父であるディルムッドの問いに元気良く答える。
かの父の友の息子とは、どんな人なのだろうと期待に胸を膨らませた。
「でも、その子。あまりからだが良くないんでしょう? 私が遊んで大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だよ。
起き上がれるほどには回復したらしいからね」
ユフィリアがその少年の話を聞いた三日前は、体調があまり優れないとされていた。
前までは元気だったそうだが、ある病気に罹ってしまってからはずっと
未だに起き上がることしかできないほどの病気とは、ユフィリアには想像付かなかった。
やがて、周りにあった一面の緑がぱっと消える。
外を覗くと古びた様式の門へと接近していた。
一度門の前で停まり、門番から許可を貰えば馬車はまた走り出す。
門の中に広がる庭園は、美しい花々が咲き誇っていた。
薔薇も木蓮も、どれも自信満々に花弁を開いている。
「きれい……!」
「ああ、そうだね。
……クラウも元気そうだな」
ユフィリアが花々に見惚れているうちに、再び馬車は停止する。
目的地へ到着したのだ。
それは、門と同じ様式で建てられた古風な屋敷。
様式が古いだけで寂れた様子は全く無く、寧ろ真新しさすら感じさせていた。
ここが件の屋敷なのか。
玄関口に二人の人影が立っている。
一人は白銀の髪を後ろで緩く一つに纏めた、いかにも貴族といった風貌の中性的な男。
もう一人は黒と白の給士服に身を包んだ男。
どちらもディルムッドと同じくらいの歳だ。
「やあ、シル。お出迎えご苦労様。
前より男前になったんじゃない?」
「元気なようで何よりだ、ディルムッド。こうして会うのは久し振りだな。
……本気でそう思っているのか? 喧嘩なら買うぞ」
どうやらその男がディルムッドの友人、シルヴェスタのようだった。
気さくなやり取りからも、彼らの仲の良さが伺えた。
「それで、そちらの子が……」
「そうだ。ユフィ」
ディルムッドの背に半分隠れるような形で立っていたユフィリアは、背中を押されたことで前に出てしまう。
慌てながらも、いつか練習した挨拶を記憶を辿ってなぞり動く。
「お初にお目にかかります、アーデルヴァイト伯爵。
私はディルムッド・エルトナム・レンティフルーレが第三子、ユフィリア・レンティフルーレと申します。
以後お見知りおきを」
大丈夫なはずだ。
そう心を落ち着かせながら、ユフィリアは顔を上げた。
見上げた先のシルヴェスタの顔は、仏頂面ながらも悪い雰囲気は見受けられない。
間違っていなかったようだ、と不安で揺れる心を撫で下ろした。
「ほう、良い子だな」
「だろう? 君たちに比べても見劣りしないさ」
「……子煩悩め」
「君が言えた義理じゃないよ」
褒められているのだろうか。
ユフィリアは親同士の小競り合いを、あまり理解できていなかった。
一通り話し終えたのだろう。
ディルムッドはシルヴェスタの背後に控える男性を示し、彼が案内してくれると教えた。
「オズワルドでございます。
不肖ながら、ユフィリア様の案内を務めさせていただきます」
「……よろしくお願いします」
おずおずと吃りながらユフィリアは返事をした。
人見知りのきらいがあるユフィリアにとって、練習も何もしていない会話というのは些か不得意であった。
この調子で、その少年とやらと話すなんてできるのだろうか。
前だけ向いているのも何か気まずくて、ユフィリアは周囲を見渡した。
館内は古い様式であるはずなのに、塵一つすらない。
手入れが行き届いているのだ。
オズワルドの後を付け、階段を登っていくと、ある部屋の前で立ち止まった。
「レイフォード様、お客様をお連れ致しました」
「……どうぞ」
扉の奥から微かな声が聞こえた。
少年と聞いていたが、どうしても少女にしか思えない声色だった。
もしや、父は間違えていたのだろうか。
扉を開けるオズワルドに促されるまま、ユフィリアは部屋に足を踏み入れた。
ふわりと風が吹く。
出処は開けられた大きな窓。
覆い被さった
ユフィリアはほんの一瞬、その部屋には誰もいないと思ってしまった。
あまりにも、その少年の存在が希薄過ぎたのだ。
男にしては長めの月光色の髪、青空を映した
少女にしか見えない顔立ちは、どこかシルヴェスタに似ていた。
まるで昼に浮かぶ月の如き儚さを持つ少年に、ユフィリアの心は刹那にして奪われた。
止まっていた歯車が噛み合い出すように、脳の奥でかちりと音がなったのだ。
忘れていた何かを、大切なものをやっと思い出したかのようだった。
見惚れていた、のだろう。
瞬きをすることも息をすることも忘れて、ただあの少年の姿を目に焼き付けるためだけに時間を費やした。
ユフィリアが次に動き出したのは、少年の瞳から一滴の涙が零れた時だった。
────生きて、いた?
レイフォードの思考は、目の前の少女にだけ割かれていた。
雲のような純白の髪も煌めく
違うのはただ、性別だけ。
どうして、どうして。
疑問で頭が埋め尽くされる。
それ以上何も考えることができない。
何度繰り返しても救けることのできなかった少年が、今ここにいる。
立って、息をして、生きている。
どれほどそれを願ったことか。
どれほど叶えたかったものか。
溢れ出す想いに胸が張り裂けそうになる。
殆ど無意識だった。
唖然として見開いていた瞳から涙が零れ落ちた。
一度溢れてしまったが最後、決壊したように次々と涙が零れてくる。
止めようと目を抑えても、どうしても止めることができない。
それどころか状況は更に悪化するばかりであった。
「……あ、の。泣かないで」
鈴の鳴るような少女の声が頭の上から降ってきた。
同時に、優しく頭を撫でられる。
その心の暖かさが心地良くて、止めどころなく嗚咽を垂れ流す。
「わ、わ。どうしよう……?」
音だけでも少女が慌てふためいていることが分かる。
何でもないよ、そう言いたくても声が詰まって話せない。
少女は泣きじゃくるレイフォードに正面から抱き着いた。
背中を擦って大丈夫、大丈夫と何度も声を掛ける。
やがて、涙も声も収まった。
目元は腫れ、声も嗄れてしまっているが、一先ず先程のような感情の大放出が止まったのは確かだった。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしました」
「いえいえ。大丈夫です、気にしていませんので。
……何か、あったんですか」
少女の問いにレイフォードは数巡した。
あの記憶を、あの世界を全て話すことはできない。
しかし、助けてくれた少女に真っ赤な嘘を話すなんて、彼女の思いを踏み躙るようで躊躇ってしまう。
何より、少年の面影を持つ少女に嘘を吐きたくなかった。
どうにか掻い摘んで、話せるところだけ教えよう。
そうして、ぽつりぽつりと言葉を濁しながら答え始める。
「もう会えない大切な人と、あまりにも似ていて……
すみません。どれだけ似ていても、貴方は貴方であるというのに」
「……そう、ですか」
レイフォードの言葉を聞いた少女は、眉間に皺を寄せ服を両手でぐっと握り締めて、一度俯いた。
何か気に触るようなことを言ってしまったのだろうか。
不安になるレイフォードを余所に、少女は考えていた。
これ以上少年の心に踏み込んでいいものかと。
もう会えない大切な人とはどんなものだったのか、その人とはどんなことがあったのか。
言うなれば好奇心、だろうか。
少女は、どうしても訊かねばならない気がしたのだ。
だが、これ以上は駄目だと理性が囁いている。
どこからどう見ても、少年の心は挫傷していた。
今少女が踏み込めば、斬られ潰され、ぐちゃぐちゃになった心を更に傷付けてしまう。
論理もないただの勘。
それでも少女は従うことにした。
足をその場に留めることにしたのだ。
その選択がある意味間違いで、ある意味正しかったと知るのはもっと後のことだった。
俯いていた少女はゆっくり息を吐き、再びレイフォードの姿を捉えた。
上げた顔には俯く前のような負の感情はどこにもなかった。
「変な空気になっちゃいましたけど、改めて挨拶させていただきます。
私はレンティフルーレ侯爵家当主ディルムッド・エルトナム・レンティフルーレが第三子、ユフィリア・レンティフルーレと申します。
本日はよろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとうございます。
私はアーデルヴァイト伯爵家当主シルヴェスタ・エルトナム・アーデルヴァイトが第三子、レイフォード・アーデルヴァイトです。
こちらこそよろしくお願いします、ユフィリアさん」
レイフォードの涙から始まった二人の関係は、やっと互いの名を知ることができたのだった。
なまじ最初が異例だったため、二人の間には何とも言えない微妙な空気が流れていた。
「……ええと、そうだ。
レイフォードさんもごきょうだいがいらっしゃるのですか?
前に父からお聞きしたことがありまして」
「はい。兄と姉が一人ずつ」
「お姉さんですか!
私はどちらも兄なので、少し羨ましいです」
それ以降会話が続かず、再び沈黙が二人を包んだ。
それが、どこか可笑しく感じたのだろう。ユフィリアは控えめに吹き出した。
「……ふふ、ごめんなさい。
何だかちょっと、おかしくって……」
変な笑いの壺にはまったようで、抑えようとしても抑えられないらしい。
くすくすと漏れる笑い声に、レイフォードはどこが懐かしさを感じた。
────同じ、だ。
静かに声を抑えるような笑い方も、手を口に添える仕草も、どれも。
自然と頬が緩む。
そこにいる。生きていると感じられる。
でも、君は違う。君はあの子じゃない。
レイフォードの心がぎゅっと締め付けられる。
確かにユフィリアはあの少年に似ていた。
見た目も仕草も、何もかも同じだったかもしれない。
だが、彼女の名はユフィリアだ。■■■■ではない。
そこで、はっとした。
今、自分はあの少年の名を何と思っていた。
何と認識していた。
分からない。
少年の名前を思い出せない。
知っているはずなのに。
「────あ、れ? なんで、どうして……?」
思い返せば、今までもそうだった。
あの空から落ちて消えた
そして、彼が愛した女の名も、何も憶えていない。
どうして認識できていなかった。
どうして今更に気付いた。
こんなにも大切なものを、ずっと忘れていたというのか。
二つの記憶を手にして始めて知ったその事実に、驚愕と失意の念に苛まれた。
自分の『大切』という言葉は、こんなにも薄っぺらいものだったのか、と。
目の前が暗くなっていく。
視界が狭まっていく。
どくどくと高鳴っていく心臓の音しか聞こえない。
独りぼっちの世界に沈んでいく。
「……どうかしましたか?」
光が世界に差し込んだ。
その光は沈む身体から右腕を掴み、一直線に引き上げる。
有無を言わさず、お前を沈ませてなるものかと、強制的に。
真っ暗な水底から光溢れる水面上に引き摺りだされたレイフォードは、眼前にある菫青から飛び退いた。
正確には、飛び退こうとした。
その行動は掴まれ続けた右手に阻まれる。
レイフォードが現実世界から遠退いている間に、ユフィリアは急接近を果たしていたのだ。
掴んだ右手を一向に放さず、それどころか手を起点にレイフォードを引き寄せた。
鼻と鼻が触れ合いそうなほど、二人の距離は近い。
零距離で見詰めてくる瞳に、レイフォードは狼狽える。
「どこか調子が良くないようでしたら、休みますか?
私、誰か呼んできます」
「……違うんです。調子が悪いわけではなくて……」
言えるわけが無かった。
言えるはずが無かった。
それを言ってしまえば、自分は人ではなくなってしまう。
また言葉を濁すレイフォードに、ユフィリアは眉を顰めた。
何故少年は一人で思い悩んでいるのだろう。
その思考が漏れ出てしまった。
「辛いときは辛いと言えばいいのではないですか?
貴方にもお父様やお母様、きょうだいもいるのでしょう」
「……だから言えないんです。
大切だから、嫌われたくないから。
でも、僕の『大切』は下らないほど薄っぺらい嘘だった」
それは始めて聞こえたレイフォードの本音だった。
口にしてから、ユフィリアはしまったと思い直す。
先程躊躇った行動を。
何も考えずに、咄嗟に引いた線を飛び越えてしまった。
勿論後悔している。
だが、それ以上にやっと聞けたという思いのほうが強かったのだ。
ユフィリアはその言葉を受けて何かを話そうとした。
しかし、それは震える声で発せられた問いに掻き消される。
「……もし、自分が大切だと思っていたことを無自覚に忘れていたら、どう思いますか」
────大切だと思っていたことを無自覚に忘れていたら。
耳から入った音が、ユフィリアの心を槍のように突き刺した。
レイフォードを初めて見た時のあの感覚。
それこそ当に、『忘れていた大切なものを思い出した』感覚だったのだから。
「大切なんて言って勝手に外側を飾っているだけで、内側では、本当は大切だなんて思っていなかったんだと。
名前すら忘れてしまうほどだったのだと。
それを理解してしまった時、貴方はどうするんですか」
すべて忘れてしまっていれば良かったのだろう。
すべて忘れて、何も悩まないで、ただ生きていられれば幸せだった。
でも、そうはいかなかった。
レイフォードは憶えている。
大切なものを知っている。
何もかも忘れていたユフィリアとは違かった。
そうだ、君は憶えている。
朧気でも、中途半端でも、大切なものとの記憶を憶えている。
だから悩み続けている。
「……それでも、忘れてしまっていたとしても。
大切だと思う心は嘘じゃない。
だから『大切』だと言い続ける。
外側だけの言葉でも、思い続けていれば必ず内側に理由ができる。
────そうすればいずれ、本当に大切だって言えるはずだから」
殆ど脳を介さずに吐き出した言葉は、愚直なまでに透き通ったユフィリアの想いだった。
だって、そうだろう。
忘れていることを悩むほどに大切なものならば、その心は嘘じゃない。
はっきり、これ以上ないほどに二人の視線が噛み合った。
もう彼しか、彼女しか見えていない。
瞬きもできず、ただ美しい菫青を眺め続ける。
絡まった糸を解きほぐすような言葉に貫かれ、レイフォードは半ば放心していた。
頭ではユフィリアの発した言葉を咀嚼しようとしていた。
その裏にある意味を、隠された意味を探そうと。
だが、あまりにも透き通りすぎていたのだ、それは。
額面通り、何も偽らない言葉に脳は
レイフォードにとって、偽らないこととは人であることを辞めることと同義だった。
人でない自分が人であるためには嘘を吐き続けなくてはいけない。
そんな自分が嘘を吐かなくても、偽らなくても、人で居続けられるのはユフィリアの前だけだった。
「……言い続けて、いいのかな」
「いいに決まってる」
ぽろりと呟いた言葉が食い気味に返される。
疑うことを知らない言葉は、今までの自分を肯定しているようだった。
涙で視界が滲む。
止まったはずの涙がまたぶり返す。
嬉しいのか悲しいのか、自分ではわからない。
再び泣き出したレイフォードを、ユフィリアは押し倒すようになっていた姿勢から起こした。
そうして出会った時のように抱き締める。
「誰にも話せないのなら、私に話して。私だけに話して。
私なら、君を受け入れられる」
蕩けるような甘美な言葉だった。
ユフィリアの心臓の鼓動とレイフォードの心臓の鼓動が重なり合う。
自分と世界の境界線が曖昧になる。
でも、あの時のとは違う。
死への恐怖で震えるわけではなく、寧ろ生への喜びを感じる。
────ああ、僕はこの世界に生きている。
「ねえ、レイフォード。私、君ともっと仲良くなりたい。
敬語なんて使わない、友達になりたい」
「……うん。僕も君と、ユフィリアと友達になりたい」
距離がぐっと離れた。
互いの顔が見えるように向き合う。
「ユフィ。ユフィって呼んで」
「分かったよ、ユフィ。
なら僕はレイって呼んでもらうべきだね」
「勿論、そう呼ばせてもらうから。ね、レイ」
笑い出す瞬間も全く同じに、二人は笑った。
眉を上げて、声を上げて、目を細めて。
そこに偽りの感情など無かった。
空は、雲一つない快晴である。
「……もう時間かあ」
窓から差し込む光が茜色に染まった頃、ユフィリアは寂しそうに呟いた。
シルヴェスタとディルムッドの議論が終わり、ユフィリアは帰る頃合いとなってしまったのだ。
レイフォードの部屋の外には、迎えに来たオズワルドが立っている。
「お父様も、もう少し話してくれればいいのに」
「仕方ないよ。
レンティフルーレ領、それもシューネはここから二時間くらい掛かるんだから」
ユフィリアの住む都市、レンティフルーレ領最大の商業都市シューネは、王国東部で二番目と呼ばれるほど栄えていた。
最大都市はイカルスノート公爵領のティムネフス。
それに次ぐ二番目と言うことで、発展度はクロッサスとは比べ物にならない。
クロッサスほどの町ならば彼の領にいくつもあるだろう。
ただ、クロッサスは最東端の町として城壁と戦力は他の町、それも王都と引けを取らないはずだ。
「……次会えるのはいつになるの?」
「二人とも忙しいし、結構時間が開くんじゃないかなあ」
シルヴェスタとディルムッド。
互いに高位の爵位持ちにして領主であるのだ。
シルヴェスタが仕事の多さに苦慮している姿はよく見る。
一つ上の爵位で、更に発展している領を統べるディルムッドの仕事量は計り知れない。
「会えないのは……嫌だなあ……」
ぐりぐりと髪が乱れることもお構いなしに、椅子に座った身体を倒して、
「僕らにはどうしようもできないからね」
綺麗に二つに結ばれた髪を崩さないように、優しく頭を撫でて慰める。
ただの五歳児である二人には、大人の仕事をどうすることもできなかった。
唸りながら大人しく撫でられていたユフィリアは、何かを思い付いたようでがばりと起き上がった。
「そうだ、手紙! 手紙、書こう!」
「手紙……?」
「手紙なら直接会えなくても話せるじゃない。
毎週夜の曜日に出せば、明けの曜日には届くでしょう?」
いい考えだ、とレイフォードは納得した。
それなら離れていても互いのことについて分かる。
滅多に会えない二人にとって、これ以上ない提案だった。
「じゃあそうしようか。手紙、買わないといけないね」
「毎週夜の曜日、必ずね! 忘れたらお仕置きだから」
身体に比べ大きな椅子から飛び降り、軽く音を鳴らした。
菫色の裾を靡かせて、木製の扉へ駆け寄る。
「じゃあね! また今度」
「また今度」
手を振り合って少女が扉の裏に隠れれば、レイフォードは肩の力を抜いた。
久し振りにこんな長い時間人と話して、身体を起こしていたのだ。
疲労感はないとは言えなかった。
だが、ユフィリアと過ごす時間はとても楽しかった。
記憶にある中で、一番と言えるほど。
大きく息を吸い込んだ。
身体を起こす。
足を
少しの足を伸ばして、床に自身の足を付く。
今なら行ける。
精一杯の力を振り絞って、レイフォードは己の足で立ち上がった。
身体に力が入らない。
直ぐにでも崩れ落ちそうだ。
だが、挫けることはできない。
数歩踏み出して、屋敷の正面側が見える窓へと歩み寄った。
窓枠に寄りかかるようになりながらも
眼下では、少女と男性が馬車に乗り込もうとしている。
歩いただけで息も絶え絶えなレイフォードは、大きな声を出すことはできなかった。
気付いてくれないだろうか。
そんな不安を胸に彼女らを見下ろす。
大きくな風が吹いた。
木の葉が散り、木々が座喚き、春の匂いがふわりと香る。
ふと、ユフィリアは上を見た。
誰かが私達を眺めている、そんな気がして。
予想通り、見上げた先にはとある少年がいた。
風に髪を揺らしながらユフィリアが気付いたと察すれば、彼は大きく手を振ってくる。
心が歓喜に震えた。
白い肌が紅潮し、吐き出す息に熱が帯びる。
緩む頬を必死に抑え、渾身の力で大きく手を振り返した。
「……随分仲良くなったんだね」
「うん! 初めてできた、一番仲が良い友達!」
屈託の無い笑顔でユフィリアは答える。
ディルムッドは意外だった。
人見知りの気がある娘が、あの少年とここまで仲を深めるとは。
今日はいつにも増して驚くことが多い。
この笑顔を壊さないためにも、我々は少年を生かさねばならない。
愛する者の、笑顔のために。
ディルムッドは、そう娘の笑顔に誓った。
馬車が森の木々に隠れていく。
茜色に染まる世界を駆けて、家へと帰っていく。
完全に見えなくなると同時に、レイフォードはへたり込んだ。
足は生まれたての子鹿のように震え、もう一度立つなんてできやしない。
這いずることがやっとだった。
壁に寄りかかって、目を瞑る。
思い浮かべるのは、少女の笑顔。
そして、とある少年の笑顔。
大きく息を吸う。
肺が膨らみ、酸素が身体を巡る。
酸素を運ぶ血は心臓によって送り出され、心臓自身は絶え間なく動き続けている。
ああ、生きている。
例え、あと二年の命であっても、今ここに生きている。
右手に力が込められる。
血が出てしまいそうなほど強く。
二度と、この手を放してしまわないように。
繰り返してなるものか。再び奪わせてやるものか。
希望を幸福を、世界を照らす光を。
もう喪うわけにはいかない。
『神様』なんて居なくたって、絶対に。
その日、壊れた人形は誓った。大切なものを守る誓いを。
それを守るためならば────この仮初の生命すら賭けてやる、と。
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