二節〈鐘の音は始まりを告げる〉
鐘の音が聞こえる。
意識を呼び覚ますように、掬い上げるように音は響き渡る。
ずっと落ち続けているような浮遊感。
少年が怯えながら目蓋を開くと、視界に入ったのは一面の蒼────ではなく見慣れた馬車の内装だ。
胸を貫く激痛も夥しい量の血も、何もかもが夢のように消え去っている。
窓から朝日が差し込み、その明るさに少年の
傾いていた身体を起こしながら、眠気の残る目を擦る。
からからとなる車輪の音と心地良い揺れで、少年は馬車に乗っていたことを思い出した。
外を見ればそこにあるのは木々による一面の緑ではなく、石煉瓦による灰色だった。
少年を載せた馬車は、舗装された広い街道をゆっくり進んでいる。
道行く町の人々はこちらに見向きもせず、道脇の露天や商店で買い物を楽しんでいた。
王国最東端の城塞都市クロッサス。
アーデルヴァイト領最大の都市だ。
人口密度はそれほど多くなく発展度合もそこまでと言ったところだが、最前線として多くの騎士が住んでいる。
今日はいつもより町通りは賑わっていて、先日あった祭りの残り香が感じられた。
「レイ、あまり外を見ない方がいい。“眼”が疲れるぞ」
対面に座る男の助言に従い、少年────レイフォードは外を見るのを辞めて前を向いた。
同じ“眼”を持つもの故、レイフォードは男の言葉を疑い無く信じたのだ。
幸いにもそこまで人が多くなかったからレイフォードに影響は出ていなかったが、不用意に見てしまえば情報が脳の処理限界を超えてしまう可能性がある。
『便利ではあるが、切替ができないのが不満』というのが“眼”を持つ者の共通認識であった。
男はレイフォードに問い掛ける。
「やはり、昨日は眠れなかったか?」
「ええ、まあ。なんだか眠れなくて。
父上も昔はそうだったのですか?」
父と呼ばれた白に近い銀髪の男、シルヴェスタは頷いた。
自身もレイフォードと同じくらいの歳の時、期待と不安で眠れなかったという。
二人が向かっているのは町の教会。
二日前からそこでは《祝福の儀》という儀式が行われていた。
この国、アリステラ王国では新年を迎え五歳になるとある儀式を受ける義務がある。
それが《祝福の儀》だ。
新年の祭りである星灯祭を終えた後、創造の月六日から一週間。
つまり十ニ日までに受けなければならない。
期間中は周辺地域から人が集まって来るため、毎年混雑する。
「先程昼の鐘がなったから、もう最初の組は始めているかもしれないな。
あまり並んでいなければいいのだが」
間もなく、馬車は目的地に着く。
馬の蹄が硬い石畳を踏み締めて車体が緩やかに停止し、御者をしていた従者が扉を開ければ先にシルヴェスタが降りた。
そして、レイフォードに手を差し伸べる。
まだ身体が未発達なレイフォードは一人で乗り降りすることが難しかったのだ。
シルヴェスタの手を取って、レイフォードは降車する。
辿り着いた教会は石造りの荘厳な建物だった。
屋根の天辺には円の中心から放射線状に十二本伸び、突き抜けたような紋章が掲げられている。
アリステラ王国の国教である《リセリス教》の紋章だ。
レイフォードが呆気に取られているうちに、背後にあった馬車はどこかに消えてしまっていた。
シルヴェスタに訊けば、拓けた場所に停めに行ったと答えられる。
馬車の音が聞こえないほどに、教会に夢中になっていたらしい。
「さあ、行くぞ」
シルヴェスタはレイフォードの手を引いて教会の内部に入っていく。
気後れして中々足が進まない様子を見て苦笑しながらも、止まることはなかった。
力で敵うわけもなく、レイフォードは手を引かれるどころか、腕に掴まるようになりながら扉を潜る。
古風な扉を越えた直ぐ先には、白亜の世界が広がっていた。
壁も天井も床も全てが白。
色といえば所々にある金の装飾と、長椅子の布地の薄青くらいだろうか。
汚れが目立ちやすい白であるというのに、手入れが行き届いているからか染み一つない。
何か特殊な術式でも掛けられているのだろうか。
よく見ても、レイフォードの眼には何も見えなかった。
特に目を惹かれるのは奥にある大きな
鮮やかな色彩と巧みな技術で神話の一頁を再現している。
陽の光を多く取り込む構造をしているからか、照明は控えめながらも中はとても明るかった。
レイフォードが感嘆の声を漏らしていると、右側の扉から初老の男性が姿を表した。二人を見るなり、歩み寄って会釈する。
「ご無沙汰しております、領主様」
「久しいな、司祭。
星灯祭は顔を出せずに済まなかった。そちらも大変だっただろう」
「いえいえ、お気になさらないでください」
司祭と呼ばれた壮年の男性はシルヴェスタと一言二言交わし、業務を理由に帰っていく。
見知らぬ人との急接近に緊張していたレイフォードは、胸を撫で下ろした。
しかし、未だに別の緊張感が身体を包んでいる。
その原因は周囲の視線だった。
物珍しいものを見ているような、畏怖しているような視線。
レイフォードが領主の息子であるからだろう。
上の二人と違い、殆ど町にも訪れないため、初めて見る住民も多いはずだ。
そう結論付けて、身分相応の態度に持ち直す。
『貴き地位には、相応の責務がある』
シルヴェスタがよく言う言葉だった。
民が我らを支え、我らが民を支える。
そこには信頼関係があり、一度でも民の心に影を落としてしまえば、我らは責務を果たせなくなってしまう。
上に立つ者として、決してあってはならないことだ。
だから、我々は自身を律し、常に社会への貢献者であることが求められる。
一挙手一投足、全て見られていると思え、と。
繋いでいたシルヴェスタの手を離し、背筋を伸ばして顔を上げる。
今の自分は糸繰り人形。
頭の天辺から指の先まで糸に吊られていると、レイフォードは自分に言い聞かせる。
自分を偽るのは呼吸と同程度に容易かった。
二人は礼拝堂の前へと進んでいく。
あまり人が多くないとはいえ、まだ順番には程遠い。
整列された長椅子の前から二列目、左側に腰を落ち着ける。
近くに来て、改めてとても大きい
レイフォードの背丈では、見上げなければ全体を捉えることができない。
壁一面を使用したそれが象っているのは、リセリス教が唱える創世神話だった。
この世界は一柱の神によって始まった。
その神は暗闇から世界の礎となる空を作り、星を作った。
星には海と地ができ、海から生命が生まれた。
生命は智慧を持ち、幾千もの時を経て海から陸に住処を移した。
豊穣の大地で生命は繁栄し、技巧を磨いた。
やがて、対立するもの同士で争うようになると、秩序のために契約をするようになった。
秩序により平和になった世界では、遊戯が作り出された。
ある日、神は自分の権能と身体を十二に分けた。
胴は大空、両腕は大海、両脚は大地。
心臓は生命、脳は智慧、両足は豊穣、右手は技巧。
左手は闘争、耳は秩序、口は契約、髪は遊戯。そして瞳に創造。
十二の権能を与えられた神の欠片は元の神と同じ形になった。
十二に別れた神は、今も世界を見守っている。
聖典の一章、始まりの頁。
レイフォードにとっては、どこかで耳にしたような話だ。
魂に刻まれた記憶の中、断片的で朧気な景色と音が渦巻いている。
世界が異なっても、宗教というのは生活によく根付いているものなのだな。
そう実感できるのは、この世界でレイフォードだけなのだろう。
暫く時が過ぎ、遂にレイフォードたちの番が回ってきた。
案内係の修道士の女性が二人を呼び出せば、先導する彼女に倣って礼拝堂の右側にある空間へと入った。
礼拝堂と扉で隔たれているこの空間も、同様に白で染まっていた。
教会の
硬い石の床を歩く度、こつこつと音が鳴る。
静かな空間にその音が響くことで、否が応でも心臓の鼓動は早まっていく。
非日常的な体験というのは、こうも緊張するものなのだろうか。
浅い呼吸を意識的に深くしながら、少しでも落ち着けようと、レイフォードは右手首を握った。
ちらりと横目で隣を歩くシルヴェスタを覗いても、特に動揺が見られない。
やはり、領主として様々な経験をしているのが大きいのだろう。
十数尺歩けば、もう一つの扉に辿り着く。
扉の前には、先程の司祭が控えていた。
「では、これから祝福の儀を始めます。
準備はよろしいでしょうか?」
「……はい」
深呼吸をして、レイフォードは答えた。
やるべき動作も言うべき言葉も、全て頭に入っている。
必要なものは勇気だけ。
その勇気すら、今この瞬間手に入れた。
心身に装備を纏った小さな勇者は、運命の扉を開ける。
またもや同じ、白亜の空間。
礼拝堂と廊下とは違う部分は、とある花で装飾されていることと、
装飾に使われている花は《水晶花》と言い、透明な花弁を十二枚重ねていることが特徴である。
教会以外では基本見られない植物であるため、レイフォードは観察してみたいという欲求に苛まれる。
しかし、最優先は儀式の遂行だ。
観察くらいならば、後でいくらでもできる。
気を持ち直して、小さな背丈と短い脚で部屋の中心を目指す。
円形の部屋に放射線状に並べられた石像は、リセリス教の十二神を象ったものだ。
創造の神から遊戯の神まで、普遍的な印象そのままの風貌をしており、日の出る方向を零時として、時計回りに順に配置されていた。
神々の目線の先、部屋の中央には大きな結晶が一つ。
台座に鎮座した十二面の角柱は、天井から降り注ぐ光を反射してきらきらと輝いている。
石像よりは小さいが十分巨大な結晶は、教会の権威を表しているようだった。
その圧巻さに気圧されながらも、レイフォードは儀式を進行させる。
片膝を付いて両手を組み、額と手が接触しそうなほどまで近付いた。
そして、大きく息を吸って声が震えないように祝詞を紡ぐ。
「“世界をあまねく見守られる数多の神々よ、私はこの度五つの年を迎え、魂の根を張り生命として世界に定着いたしました。
神々と比べ卑小な存在なれど、私はこの世に生きています。
我が人生に祝福をお与えください。”」
声に呼応するかの如く、結晶が光を宿す。
通常ならば、その光が少年少女の神秘への才能を表すものだ。
面が適性を、光量が力を掲示し、それに従って学ぶ。
偽り無く誤り無くその者本来の力を映し出し、導くはずだった。
閃光が空間を包む。
目を開けていられないほどの鋭い光が、結晶から発せられていた。
思わず右腕で目を覆い、何が起こったかを探ろうと薄目で隙間から辺りを覗こうとする。
しかし、それはできなかった。
閃光と同時に感じた右腕への違和感。何かになぞられているのような感覚。
それが無くなった瞬間、膨大な情報が脳に注ぎ込まれたからだ。
罅割れた空から覗く黒。
形容し難い怪物たち。
光届かぬ暗黒の中に響く、嘲笑う声。
そして────無惨な姿に変えられた少年。
レイフォードが知り得る訳がない情報。
どうしてそれを今得たのか、考えようとした。
考えようとしたのだ。
突如、激痛がレイフォードを襲う。
肉体の内側から弾けて破裂してしまいそうな痛みに耐え切れず、受け身も取れずに地に落ちた。
身体に力が入らない。
浅く不規則な呼吸で、息を吸うことまでも難しい。
徐々に視界がぼやけ、意識が遠退いていく。
身体は痛みに悶えているというのに、意識を留める錨にすらなってくれない。
肉体が精神が、世界に融けていく。
真っ暗な世界に落ちていく。
自分が自分でなくなっていく。
────次の適合者を認識。
異常発見。判定中……終了。
動作障害:無。術式執行開始。
夢と現の狭間、意識の虚像と実像の間でそんな声が聞こえた気がした。
歯車が狂い始める。
いや、既に狂っていたのだろう。
生誕から現在にかけて積み重なった負の連鎖が、今表面化しただけだ。
壊れた機械は誰にも直すことはできない。
狂った機構を見ることすら叶わない。
時を刻む針は歩みを止め、穢れた澱の中に停滞する。
レイフォード・アーデルヴァイトという仮初の器は、壊れた機械仕掛けの人形に成り下がった。
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