非対称

世良ストラ

非対称

 朝七時。

 男はクローゼットの前に立ち、ハンガーに掛かっているスーツを取り上げ、出社に向けて着替えていた。


 仕上げはネクタイ。

 鏡の前に立ち、顎を出しながら首元に視線を向ける。



「うまく結べた」



 と言ってからやり直すことにはもう慣れたものだ。

 いつも短かったり長かったりと、一回でネクタイをうまく結べた例しがない。


 男が着替えを終えてリビングに出ると、リビングにある別の鏡の前では、同棲している女がちょうど着替えをしているところだった。

 黄色いワンピースを着たかと思えば、デニムと白シャツに変わり、次の瞬間にはエメラルドグリーンのドレスが風に揺れている。

 どうやら、顔と髪型にはまだ手が回っていないらしい。

 無機質なネズミ色の頭の下で、様々な色、形の服が現れては消えていた。



「あら、おはよう」



 彼女は鏡越しに男に面を向けた。



「おはよう。そのドレスはいつ買ったんだい?」

「今さっき買ったところよ。服を選んでいたら、あの女優の姿が頭によぎったのよ。昨日のニュースで流れていたじゃない、映画祭でレッドカーペットを歩く彼女の姿……と、そうだわ、今日は彼女を参考にしてみようかしら」



 彼女はすぐさま鏡に面を戻し、鏡の検索窓に女優名を入力すると、女優の私服姿から今日着ていく服、顔、髪型、体型を選び始めた。

 こうなると手に負えない。

 朝食を抜きにしても彼女は鏡と睨めっこすることを優先させる。

 そして、結局それといった会話を楽しむことなく、二人別々の仕事に出かけることになる。





 かつての彼女はこうではなかった。

 そこには彼女の本当の顔があり、体があった。

 男はその彼女が好きだった。

 でなければ、同棲などしない。

 だが、同棲してもう五年。

 まだ結婚はしていない。

 すべてはあの鏡、今日も彼女が使っていたあの鏡のせいだった。


 あの鏡は目の前にある物をただ反射する代物ではない。

 特別なスーツ、マスクを身につけることで、服、顔、髪型、さらには体型まで、つまりは容姿の全てを変えられる機械なのだ。

 スーツを着て鏡の前に立ち、鏡をタッチして容姿を設定、ダウンロードする。

 その容姿データをスーツから立体的にプロジェクションする仕組みらしい。

 スーツにはセンサーが完備されており、動きや風などを感知し、まさに本物のように映像を映し出すという凝った作りだ。

 最近では付属品を買えば、鞄も靴も自由に変えられるらしいが……。


 この鏡は女性にとっても男性にとっても夢の機械だった。

 好きなように自分を変えられるのだから。

 だが、もちろん限界はある。

 変えられるといっても実際はただのネズミ色のスーツでしかない。

 変わっているように見えているに過ぎないのだ。


 たとえば体型についていえば、体型は太くも細くもできる。

 太くするには体型ごとプロジェクションすればいい。

 細くするにはひと工夫必要だ。

 細く見えるように常に体の周りには背景のプロジェクションが付いて回ることになる。

 となれば分かるだろう?

 この鏡の効力は、浅い関係の人、ただの通りすがりや、オンラインの向こうにいる人などにしか通用しない。

 体を触れるような近しい人には、一瞬にして偽物だとばれてしまうような脆弱なものなのだ。


 そうであっても、この鏡は容姿の価値観を大きく変えるほどに強力なツールであった。

 この鏡さえあればデータをインストールするだけで容姿のすべてを変えられるのだ。

 スーツと鏡さえあれば、スーツを着ているのがマネキンか人間かの区別すらつかないのだ。

 であれば、本物の服、顔、髪、体の価値がどうなるかは容易く想像がつくことだろう。


 別に、鏡の全てを批判したいわけではない。

 確かに、鏡へと初期投資さえすれば、容姿全般に関わるものがすべて安価になった。

 これは庶民にとってはありがたいことだ。

 さらに、電子データさえ作ることができれば、一個人でも容姿産業に容易に参入できるようになったのも良いことだろう。


 とわいえ、社会的な問題が生じなかったわけではない。

 自由に容姿を変えられることで、本当の自分でいることを恐怖する人々が増えたのだ。

 いわゆる「自分恐怖症」である。

 常にスーツを身に纏っている人にとって、本当の自分の姿を他人に見られることは怖いことらしい。

 他人の目を気にする、他人からの評価を欲しがるという社会の大きな流れがあった上での鏡の登場。

 それが辛うじて保たれていた個という軸を叩き割ったのかもしれない。


 そういった負の側面を持ちつつも、人間という生き物の性なのか、目が行くのは正の側面ばかり。

 鏡の登場によって至る所に電子データを纏った人間が蔓延し、本当の自分を見せる人間の数は次第に減っていった。

 実際に触れることができるものよりも、つかみどころのない電子データの方が価値がある、電子データという偽の容姿に身を包むことこそが価値がある、これが今の社会の常識だ。

 つまり、それは彼女の常識にもなっていた。



 ……先輩……先輩……。



「――先輩ってば」

「ああ、どうした。何か困りごとか?」



 仕事場の屋上にあるベンチ。

 男の前には、会社の後輩でもあり、ある仲間でもある女性が立っていた。



「先輩……また、彼女のことで悩んでいるんでしょう?」

「よくわかったな」

「わかるもなにも、また、胸ポケットを握りしめながら、上の空っていう感じでしたよ」



 男はプロポーズ用の指輪をいつも胸ポケットに入れていた。

 かつて、同棲している彼女にプロポーズする寸前までいった名残だ。

 そのプロポーズ予定日は、彼女があの鏡で別人になってしまった日でもあった。



「まだ、彼女さんは鏡離れできないんですか?」

「そういう君はどうなんだ? 彼氏さんは鏡離れできたのか?」



 この後輩は鏡のことで悩んでいる仲間だ。

 後輩は彼氏が鏡に取り憑かれている――といっても多くの人が鏡に取り憑かれているわけだから、こうやって本当の姿を見せ合い、同じ悩みを共有できる仲間が同じ職場にいること自体が奇跡といえよう。



「彼氏とは、もう別れちゃいましたよ」

「あれだけ別れたくない、と言っていたのにか?」

「聞いてくれます? もうあたし嫌になっちゃって、鏡をあいつの前で割ってやったんですよ。鏡離れしないなら別れてやるって」

「それは大胆なことをしたもんだ」

「そしたらあいつ、どうなったと思いますか?」

「改心したわけではなさそうだな」

「まだ『別れよう』とか言ってくれたらマシでしたよ。実際はあいつ、割れた鏡の破片を血だらけになりながら集めて、破片を抱きしめながら、あたかも鏡が恋人みたいに泣きじゃくっていたんですよ。その姿を見ていたらあたし、もうぞっとしちゃって……」



 ……そんなやつとは、別れた方がよかったんだよ……。



 男にはその言葉を言うだけ勇気はなかった。

 後輩のように鏡を割るという強硬手段に出ることもできない。

 明日は我が身。

 男の真っ暗な思考の黒板の上に、その言葉が白字ででかでかと刻まれていた。





 そうやって彼女が鏡離れできない日々は無情にも過ぎ去っていき、その間にも、彼女が唯一持っている本物の服――昔、彼女の誕生日に送った服――はクローゼットの奥で眠り続けていた。


 そんなある日。

 男が順調に会社に出かける準備をしていると、リビングの方で悲鳴が上がった。



「どうしたらいいの! どうしたらいいの!」

「どうした! 大丈夫か!」



 男がネクタイの結び目に指を入れたままリビングに駆け出ると、女はネズミ色のスーツに全身を包んだまま、何も設定できていない状態で立っていた。

 鏡の前で頭を抱え、鏡を鷲づかみにして乱暴に揺らしては、我に返ったように鏡を撫で始め、また頭を抱える。

 その行為を繰り返しながら口から出るのは「どうしたらいいの!」という同じフレーズばかり。



 ……鏡が……壊れたのか?……。



 そのことを悟った男は思わず笑みをこぼした。

 彼女の動揺を笑っているのではない。

 彼女が元に戻れる機会がやっと訪れたこと、そのことへの嬉しさが顔から溢れ出ずにはいられなかったのだ。



「鏡が壊れただけじゃないか。普通に服を着て行けばいい。ただ、それだけのことだろ?」



 男は彼女の返事を待たず、クローゼットの奥で眠り続けていた本物の服を取り出し、リビングに戻った。



「ほら。服はちゃんと取っておいたんだ。これがあれば問題ないさ」

「どうしたらいいの! どうしたら……」



 女はまだ叫び続けていた。


 男は彼女の肩に手を置いて言った。



「これを着ればいい――」



 男が服を見せながらそう言うと、女は本物の服を奪い取り、床に投げつけた。



「何よ! あなたはわたしのことよりも、その服の方が大事なのね!」

「そうじゃないよ。僕は君のことを思って――」

「どうしたらいいの! どうしたらいいの!」



 女はまた鏡の前で発狂し始めていた。

 男など初めから存在していなかったように、ただ鏡だけを見つめていた。


 男はもう何も言えなかった。

 後輩の元彼氏の姿が頭によぎった。


 男は淡々と服を着替え、朝食をとり、玄関に立った。

 家を出る直前、リビングの方から鏡が割れるような音が聞こえた気がした。

 男は少し気にかけたが、狂乱する全身ネズミ色の彼女の姿を思いだし、そのまま会社へと出かけていった。





 その日の夜、男は早めに帰宅した。

 さすがに朝の彼女の様子が気になったからだ。



「ただいま……」



 男は玄関扉を開けた。

 家の中は電気がついておらず、黒く、ぼんやりと、すべてが曖昧だった。



「おかえりなさい!」



 朝の狂乱した口調は消え去り、暗闇をかき消すような明るい声がリビングから響いてきた。



「どうしたの? 早く来たら?」



 再び聞こえてくる彼女の声。

 男は靴を片方脱いだまま玄関で固まっていた。

 どうやら朝の狂乱は収まったようだ、という安堵からではない。

 彼女の明るい声色、それでいて、電気がつく気配も、人の動く気配もしないというこの明と暗の対比に頭は混乱し、体は沈黙せざるを得なかった。


 男は何かをはらうように頭を横に振り、リビングに向かった。

 そこまでいってもやはり電気がつく気配はない。

 あるとすれば、薄くなったように思える彼女の気配だけだ。



「どこにいるんだい?」



 男はリビングに足を踏み入れた。



「ここにいるじゃないの」



 男は暗い部屋の中、声をたどって歩き始めた。

 その途中、何かを踏んだ。

 柔らかくも硬く、何かの破片のように薄くとがったものの山。

 男が足元を見ようとすると彼女がまた声をかけてきた。



「今日の仕事はどうだった?」



 男は顔を上げた。

 そこには、今日投げ捨てられた本物の服を身に纏った彼女が立っていた。

 顔も髪型も体型も本当の彼女のままだった。

 暗くても分かるほどに、その姿は輝いて見えた。



「やっとそのままの自分を受け入れてくれたんだね……やっとこの日が来てくれた……」



 男は無意識に胸ポケットから指輪を取り出し、彼女に差し出していた。



「やっと君に言えるよ。そのままの君が僕は好きなんだ。僕と結婚してくれないかい?」

「もちろんよ。当たり前じゃない」



 男はそこで電気をつけた。


 目の前には彼女がいた。

 その足元にはネズミ色をした何かの破片の山があった。

 男は彼女の指に指輪を通そうとした。

 何度も指輪を押しつけた。

 冷たく、薄くなった鏡の中の彼女は、近いようで遠かった。


 男はそれでも満足だった。

 彼女はもう他人の目を気にしていない。

 彼女はやっと本当の自分自身を受け入れてくれたんだ。

 その事実があるだけで、男にはそこに本当の彼女がいるも同然であった。

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