22.崩壊

「紫珠!」

 明文の呼びかけに反応した白いちいさな人影は、肩口に切り揃えられたさらさらとした髪を振り向かせた。

「紫珠、だよね」

 二階への階段を、彼女はいままさに上ろうとしていた。手すりを持ったまま、首だけこちらを向いている。その顔は光に包まれていて、よく見えない。けれど、

「やっぱり明文だったんだね、あのとき紫珠と遊んでくれたの」

 まるで昨日まで毎日顔を合わせていたかのような気軽な台詞が飛んできた。ああ紫珠だ。なにも変わっていない。白い影が声を発してしゃべっているというよりは、天から降ってくるような声だった。

「あのあと死神さんには、会えた?」

 明文は、白い少女に向かって勢いこんで叫んだ。

「ごめんな、救えなくて、ごめん。せっかく、せっかく過去に行けたのに、キミが死ぬ運命、変えられなくて……しかも、紫珠は呪いを止めようとしてくれていたのに、僕はそれに気づかなかった。いつもキミの望まないことばかりして……」

 こみ上げてくるものがあり、言葉を続けられなくなる。

 くすくすとくすぐったい笑い声が、間近でした。

「明文、前よりやさしくなったね」

 ぎゅっと胸を掴まれた。そうだ、昔の自分は、思いやりの精神に著しく欠けていた。一度も紫珠にやさしくできなかった。申し訳なさで鼻の奥がつんとする。

「それに、紫珠って呼んでくれるし」

「あ」

「なんかお兄ちゃんみたい。昔は紫珠がお姉ちゃんみたいだったのに」

「そうだったか?」

 泣きそうになるのを堪えていたのに、思わず笑いが溢れた。

「消しゴム、なくさずにいてね」

 ああ、そのせいで屋上から落とされかけたけど死守したのだ。なくすものか。ずっと握りしめていたせいで、カバーがふやけるほど手汗を吸っている。

 一瞬の沈黙ののち、明文は口を開いた。

「なあ、僕もほんとは消しゴム持ってたんだ」

 たしか、紫珠が突然消しゴムをなくしたかなんかで貸してほしいと言われたことがあった気がする。

「貸せなかったけど」

 訳あって。

「新しいのくれたよね。しかもなんかすごい……消しにくいやつ」

 紫珠がいたずらっぽく笑う。

 いつものありきたりなカバーのやつが、近所のコンビニに売っていなかったのだ。ただその代わりに見たこともない薄紫色の消しゴムを見つけた。黒猫がカバーに描いてあるやつで。だんだん思い出してくる。

「あれは消しにくかったのか。十四年越しに知ってしまった」

「でもかわいかったよ。看護師さんから、ほめられたし。だからうれしかった。ありがとね」

 心の底から楽しそうに、紫珠は声を弾ませる。そこにいないはずなのに、こんなに生き生きと会話している。これも自分の夢なのではないかと怖くなる。夢なら、いつ覚めてしまうかわからない。

 そう思って急に慌てた。

「違うんだ、そうじゃなくて、僕は、キミに」

 どうしても、伝えなければ。

 運命は変えられなかった。でもたとえ、僕の言葉がなんの力も持たなくても、僕は自分の素直な気持ちをもっとたくさん、言葉にして、君に届けておくべきだったんだ。


「伝えたいことはなにひとつ、言えなかった。紫珠に、もうすぐ死んじゃうと思う? って聞かれたときも、真剣に考えて、もっときっぱりと否定しておけばよかった。思わないよ、思うわけないだろ。ってちゃんとそう言えばよかった」

 声が震えて、うまく息がつげない。

 なんども、呼吸を繰り返して、やっと言葉を絞り出す。

「だって僕はキミに生きていてほしかったんだ、はじめて、大好きになった、人に——」

 その場に膝をついて、そのあとは言葉にならなかった。ちゃんと最後まで言わなければいけなかったのに、ただただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。

「明文、ありがと」

 紫珠は階段の途中で、正面を向いてこちらを見た。光の中、白い歯を見せて笑っている。

 かわいくて、生意気で、愛おしい、ひまわりみたいなその笑顔。

 さっきよりも、淡くなっている。後ろの階段が透けていた。


「消しゴム、カバー外してみて」


 指差して、紫珠は試すように言った。

 明文は手を広げて見る。片手で引き抜くのは少し難しいが、できなくはない。握り続けているうちにずいぶん汚くなってしまったカバーから、慎重に、本体を押し出すようにして取り出す。白い面が出てくると、そこはまだきれいだった。


 裏返して、息が止まる。


 半分ほど使われた消しゴムの面に、サインペンで濃く書かれた名前は、苗字が消えて、下の名前だけになっていた。


「中川明文。バレずに使い切れなかったけど、両想いになれちゃった」


 はにかんだ声が鼓膜を揺らしたのを最後に、紫珠の像はふわりとかき消えた。


 それが合図だったかのように、慟哭のような音を立てて、建物全体が崩壊を始めた。

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