17.死神の潜む家へ
「このあいだ、話せることは全部話しましたけどねえ」
玄関口で困惑顔を隠そうともしない青木夫人は、前よりいっそうやつれているように明文には見えた。自分こそがこの人の夫の命を奪った張本人であることを自覚してしまったいま、後ろめたさからそう感じられるのかもしれないが。
「いやあ、そうなんですが、実は奥様にひとつお尋ねしたいことがありまして」
鹿助がさわやかな笑顔を浮かべて歩み寄る。セールスマン的胡散臭さすら感じられる。しかし青木夫人は観念したらしく、しかたなさそうにため息をついた。
「なんでしょうか」
「息子さんのことです」
鹿助はすっぱりと切り出した。すると、青木夫人の顔から表情がすんと抜け落ちた。
「なんのこと?」
地の底を這うような声のトーンだった。異様なその豹変ぶりにいままでにないほど大きな地雷を踏み抜いたことを悟って、明文は身を硬直させた。
「私がなにか悪いこと、しました?」
感情のない声が、聞いてくる。背筋を冷たいものが走った。
「いえ。そうではありません。落ち着いてください」
さすがの鹿助も両手をあげ、声の勢いを落としたが、毅然と質問を続けた。
「青木さん。もしよろしければ、あなたの息子さんの、お名前を教えてもらえませんか」
「どうしてよ! あんたに関係ないでしょ!」
ぱあんと風船が弾けたように夫人が叫んだ。歯を食いしばって首に切れそうなほど筋が立っている。
「息子さんは、青木俊平というお名前なんじゃありませんか?」
ひるまず問い詰める鹿助。すると夫人は、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「許して……」
蚊の鳴くような声を上げると、
「許して、俊平。ごめんねえ、ごめん、あああ」
今度は顔を覆ってむせび泣き始める。
あっという間の感情崩壊に、明文は唖然とすることしかできなかった。青木俊平の存在はそれほどまでに、彼女のなかで触れてはいけないタブーだったのだ。
「失礼なことをお聞きしますが、聞いた話では、長いあいだ自室に引きこもっていると」
鹿助は持ち前の遠慮のなさを遺憾なく発揮し、さらに詰め寄る。
「お会いすることはできませんか」
夫人は肩を震わせている。短い嗚咽を漏らし、泣いているのか、と思いきや、その震えの意味に気づいて明文はぞっとした。
彼女は、笑っていた。
「なにを、言っているの?」
弱々しい声で、夫人は顔を覆った指の隙間からそう言葉を漏らす。
長い沈黙があった。今日はあきらめたほうが、いいかもしれない。そう思い始めて、鹿助のほうにちらりと視線をやった、そのときだった。
すっと、夫人が立ち上がった。亡霊が動いたかのような驚きに、明文はうわっと声を上げかける口を慌てて抑える。
夫人は、そんな明文のことなどまったく目に入っていないかのようで、ゆっくりとした動きで、家の奥に入っていく。
「こちらです」
と残して。
もう一度、鹿助のほうを見る。無言でうなずきが返ってくる。ついに、死神と対峙する時が来たのだ。一気に心臓が鼓動を激しくする。唾を飲み込むと、鹿助のあとに続いて階段を上がった。
花柄の壁紙は、海外の映画に出てくる家のようだった。二階にも長い廊下があって、青いドアの三部屋が均等に並んでいた。青木夫人は、熱に浮かされたように呆然としたままその真ん中の一室の扉を開け、入っていく。
心を落ち着けるため、はじめて目にする内装にきょろきょろとするふりをしながら、明文はそっとその部屋を覗く。
そして、信じられない光景を目の当たりにした。
「え?」
と声が出た。先に部屋の内を覗いていた鹿助も、唖然として立ちすくんでいる。
「どういうことですか?」
思わずそう尋ねていた。
ノックもせずに入っていったところで、違和感に気づくべきだったのかもしれない。
しかしそれにしたってあまりにも不可解だった。
そこには、だれもいなかったのだ。
きれいに片付けられたデスクと、しわひとつない布団がかかったままのベッド。
カーテンの隙間から、わずかに外の光が差し込んでいる。
長らく使われた形跡がない部屋。
まるでこれでは、時が止まったかのようではないか。
混乱する明文の頭に、青木夫人の異様な低い声が響いてくる。
「俊平はね、死んだんですよ。私たちのせいで。死んでしまったの」
そんな馬鹿な。僕はたしかに彼に会ったのだ。それにこの前、この部屋にいるところも——。
カーテンの隙間にちらりと走った黒い影を思い出し、身震いする。
「受験に失敗して。それで、この部屋でね……」
夫人はベッドに腰かけると、正面のクローゼットに虚ろな視線を向けた。
一度混乱が過ぎると今度は、青木俊平を生きた人間だと思っていたことが逆に不思議に思えてきた。
廃病院を訪れた明文の前に都合よく現れ、鍵も持たずその中へ立ち入り、立場も目的もはぐらかす。
それに、引きこもりにしては身なりがきちんとしすぎていた。
考えれば考えるほど、彼が死者であるヒントは初めから、いたるところに落ちていた。
「じゃあ、僕が会った俊平さんは……」
黒いスーツ。彼がいまも生きていたら、あのような容姿をしていたのかもしれない。あれは彼の抱いていた自分自身の理想像だったとでもいうのだろうか。
「会うわけないでしょう」
息子にも夫にも自殺で先立たれた彼女は、いつ精神が崩壊してもおかしくはないギリギリの状態なのだろう。感情の栓を抜いてしまったかのように、虚ろな、力の抜けた笑みを浮かべている。
「だって私たちが、私と夫が、俊平を殺したようなものなんだから。むかしからね、そういう育て方をしてきたのよ。お父さんも、おじいちゃんも、そのまたおじいちゃんも医者だったんだから、あなたも当然、絶対に、医者になるのよって。幼い頃からずーっと言い続けていた。それがいちばん、あの子のためなんだって、みんなそう思い込んでた。だから医学部に落ちたとき、あの子は自分の人生がわからなくなった。終わらせるしかなかったの」
明文は、俊平に同情せざるをえなかった。幼い頃から、ということは、きっと小学生の頃はかなり勉強ができるほうで、親や教師からの期待にも応えてきたのだろう。だけど自分の受け持つ生徒たちのなかにそんな子がもしいたら、と思うと胃が痛くなった。気づけば目の前には一本の道しか見えなくなっていて、綱渡りのような人生を歩むしかなくて、結局道半ばにして落下してしまったのだと思うと、やりきれなかった。
「でもいちばんひどいのはお父さんだわ。あの子がなにか失敗したとき、できなかったとき、悪い点を取ったとき、罵ったのはいつもお父さんだった。そんなに価値のない人間になりたいのか、ってねえ。俊平はお父さんが怖かったのよ。だから死を選んだ。お父さんに叱られるより、死んだほうが楽だって思ったんでしょうね。でも私はちがう。私は、あの子を愛していた。だから悪くない。悪くないの……」
自分のせいだと嘆いたかと思いきや、自分は悪くないと言ってみたり、不毛なつぶやきを漏らす夫人はもはや心ここにあらずだった。明文の心はよりいっそう重く沈んだ。青木医院長の裏の顔は、子どもや弱者を苦しめることをストレスのはけ口にするような汚い大人だ。息子さえもその犠牲者だったのだ。
「病院だ」
とそれまで黙って聞いていた鹿助が、つぶやいた。
「青木俊平は、病院にいる」
その言葉に、明文は現実に引き戻された。
俊平が執着していた場所。それは、自分がいつか継がなければいけないと思っていた、青木病院。
「いきましょう、鹿助さん」
明文は鹿助を見て、決意を込めて言った。
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