第2章「益州平定戦」

第021回「黄蓋の最期」

 再び、激戦が始まった。ぬかるんで足場の悪い水郷地帯での戦いだ。曹洪軍五万三千余と周瑜軍四万による駆け引きなしの戦いは、一日の休戦を挟んで申し合わせたかのように再び火蓋が切られた。


 ――それにしても甘興覇の援軍は心強い。

 周瑜がことさら参戦を喜んだ甘寧は、もと劉表に仕えた将である。甘寧は字を興覇といい巴郡臨江の出身である。


 甘寧は若き日から気概のある遊侠を好み、無頼の若者たちを集めて、その頭領となっていた。男伊達のためなら人を殺害し、亡命者をかくまったりして、その名は郡全域に知れ渡った。


 甘寧は外出する際に、陸路であれば馬車や騎馬を連ねて水路であれば軽快な船を並べてその威を知らしめた。甘寧につき従う者たちはあや文様のある刺繍の派手な着物を身に付け、ゆく先々で行列の華麗さに人々は目を見張った。


 川に留まるときは、錦織りの綱で船を繋ぎ、わざわざ出発時にそれを切り棄ててゆき、豪奢さを示した。


 甘寧は日本の戦国時代で言う傾奇者の先駆者といったほうがわかりやすい。彼の仲間は大勢で集団を形成し、弓や弩をたばさみ水牛の尻尾の旗指物を背に建て腰には鈴を帯びて、とにかく派手に目立つことを好んだ。


 人と出会った時は、盛んなもてなしを共に愉しんだ者は同輩として見たが、それを拒んだ者はたとえ地方の長官だろうが敵とみなし、配下を差し向けて財産を強奪させた。


 甘寧は長じると、地方長官の仕事を手伝い、賊が事件を起こせば摘発と制裁を行うようになる。甘寧もやがて暴力沙汰を止めて書に親しむようになり、やがて食客八百人をつれて荊州の劉表のもとに身を寄せ南陽に住むようになった。


 しかし、劉表からは重く用いられることはなかった。劉表は一流の文化人であったが、軍事にはまるで疎かったのだ。


 ――ダメだ、これでは。

 甘寧は劉表のやろうとすることをじっくりと観察し、それらがやがてすべて失敗するであろうと察知した。遠からず、北方の曹操は必ず南下する。その時に、荊州の勢力は壊滅するであろう。


 ――このまま劉表のもとにいれば滅ぶのは必定。

 そう考えた甘寧は東方の呉に仕えるため劉表のもとを離れた。しかし、軍を率いたまま江夏を通過することはできず、やもなく黄祖のもとに身を寄せた。


 甘寧は粗略にされることはなかったが、一般の食客と同じ扱いをされ、その能力を発揮することはできなかった。そして三年の月日が流れ、呉の孫権は軍を興して討伐軍を編成し、黄祖は破れて敗走した。


 ――負けるとわかっている軍でも戦わねばならぬとは辛きことよ。

 ここで甘寧は孫権軍の追手である校尉の淩操を得意の弓で射殺し、その子の淩統に恨まれる原因を作ってしまう。


 だが、ここで転機が訪れる。黄祖の都督である蘇飛は甘寧に同情的であり、彼の助力もあって呉に仕えることができるようになり運命が開けたのだ。


 周瑜と呂蒙は甘寧の才を見抜くと、そろって彼を用いるようにと推挙を行い、孫権はそれらに応えて甘寧に特別の待遇を与えた。


 甘寧は、孫権に用いられると献策を行った。


「ただいま、漢王朝の命運は日々衰え、曹操はほしいままにふるまいやがて帝位を簒奪するでしょう。南荊の地は、山や丘のありさまが便宜にかない、大小の河川が流れて西方に勢力を伸ばす拠点になるべき地です。私は劉表をよく観察したので知っているのですが、彼には先を見通す力もなく、息子たちはさらに輪をかけて、才も智もなくとても荊州をこの先保てないでしょう。


 そこで孫将軍は曹操に先んじられぬように、荊州を奪取するため第一に黄祖を討つことが重要となります。黄祖はすでに老いて耄碌がひどく、金も糧食もとぼしく、側近の甘言に騙され役人や兵士からも金を搾り上げています。そのため、民心はすでに離れ、兵士は不満を募らせ、船も兵器も壊れたまま修理もされず、民は農耕に励まず、軍法は守られず兵は弱体化しております。


 孫将軍が西に軍を進められ、黄祖の軍を破られ西方の楚関を占拠されますならば、やがて巴蜀の地も手に入れることは容易きこととなるでしょう」


 孫権は甘寧の策に耳を傾け深くうなずいたが、この時同席していた張昭は激しく反論した。


「呉においてはいまだ民心は安定しておらず、軍が西に向かえば必ず反乱が起きるでしょう」


 甘寧は張昭の言葉を聞くと

「将軍はあなたに蕭何の任を付託しておりますれば、それでも反乱が起きるというのならば、古人と同様の勲功を立てるなどということは矛盾するではありませんか」

 と、言った。


 孫権は両者の言葉を聞きながら、甘寧に杯を差して

「興覇どの。本年の軍事行動は、この酒のようにそなたに引き受けてもらおう。そなたは、ただ黄祖を討つことだけに専心して、張長史の言葉を気にする必要はない」

 と言った。


 甘寧の献策を取り入れた孫権は西に軍を進め黄祖を破るのだが、その時、事前にふたつの函を作り、それに黄祖と蘇飛の首を収めるつもりであった。


 だが、甘寧は蘇飛に受けた恩を忘れずに酒宴の席で自分だけ席を外すと、頭を床に打ちつけ血と涙を流しながら孫権に蘇飛から受けた恩義に報いるため命乞いを行った。


 孫権は、甘寧がもし蘇飛が逃亡したらどうすると問う。甘寧は、自らの首を差し出すとまで言い放ち、孫権もその侠気に打たれて蘇飛の罪を赦す度量を見せたのだ。


 まさしく、甘寧には人の仇討ちを引き受けて役人に捕らわれた徐庶や、学問の師を侮辱した男を十四歳で殺害した夏侯惇といった時代に抗う侠を持つ一種の潔さや豪放さ、さらには情け深さがあった。


 孫権に深い忠誠を持つ甘寧は自らを省みない。さらには推挙した周瑜を慕い火の玉になって突進する男は戦場においてももっとも目立った。


 曹洪軍に向かって甘寧は一万余の兵を率いて真正面からぶつかってゆく。

「我が呉の兵よ。今日こそ、日ごろの孫将軍対する恩義に報いる時ぞ。曹軍を蹴散らして北に追い返し、じっくりと合肥が落ちるのをこの目で確かめようではないか」


 甘寧は馬を駆けさせながら、軍の先頭に立って槍を手に取った。前面に、北国兵の黒い鎧が塊となって現れた。息を吐き出しながら甘寧は槍を振るった。瞬く間に、五人ほどの敵兵が弾け飛んだように吹っ飛んだ。


 ――身体が軽い。いい調子だ。

 全身に血が巡る。甘寧が暴れ回ったせいで、曹洪の陣に薄い穴が開いていた。甘寧の戦術眼は呉でも有数である。すかさず槍を突き出して、その穴に騎兵を埋没させた。小さなほころびに突き刺した錐を揉み込む格好だ。わずかな穴が、徐々に太く、大きな裂け目になってゆく。騎兵に続いて歩兵が喚声を上げながら突っ込んだ。そして、激しい押し合いが始まった。


 甘寧の力は大きかった。一万以上少ない周瑜の軍は曹洪と充分に渡り合っている。しばらくすると、曹洪の軍が矢を放ち始めた。


 武器や兵器は圧倒的に曹軍が有利である。良質な鉄で作った兵器は南方の呉に勝る。曹軍のそれらを支えるのは豊かな資源と膨大な金銭だった。


 善戦していた甘寧もやがて押され始めた。

 周瑜は、程普と黄蓋を呼ぶと、それぞれに歩騎一万ずつを与えて、陣を前に進めるように指示した。老練な程徳謀と黄公覆は巧みに兵を指揮して、押されがちな呉軍を支え続けている。


 ――鬱陶しいことよ。

「こちらも応戦だ。曹軍を残らず射殺してやれ」


 盾を構えて矢を防がせながら、周瑜も旗下の兵に指示して弩を持って対抗した。空が青黒くなるかと思われるほどの矢が凄まじい音を立てて行き交っている。


 数千本の矢が次第に減じてゆくと、弩兵と入れ替わった矛兵が横一列になって猛然と向かってゆく。


 双方の部将が声を嗄らして督励を行う。このまま決着がつかずに、再び日が落ちるのを迎えるのかと周瑜が焦れ出した時、曹洪軍からひときわ高く金鼓が激しく打ち鳴らされた。


 敵軍から放たれる闘気がひと回り大きくなったと周瑜は感じ取った。それを機に軍全体がジリジリと後方に押され始める。異様な圧力のもとを斥候に探らせると、曹洪の後方に二万の援軍が到着したとわかり、周瑜は目がくらみそうになった。


 ――このままでは包囲される。

 もはや兵力差は倍近い。


 だが、周瑜は慌てることなく戦闘をそのまま続け太史慈に五千の兵を預けて、脇腹を狙う夏侯尚を迎え撃たせた。火の噴くような苛烈な攻防がさらに続いた。


 成徳から離れた地域で戦っていた周瑜軍は次第に曹洪軍に押される格好となった。東に流れる肥水へジリジリと追いやられてゆく。


 ――まずい形だ。このままでは我が軍は水没する。

 周瑜は歯噛みした。もう少しだけ持ちこたえれば陽が落ちかけてゆく。後方に位置する肥水に軍船を集めるためには、時間が必要だった。


 この時、滅亡の危機に陥った呉軍を救うべく敢然と立ち上がった将がいた。


 黄蓋

 で、ある。


 字を公覆というこの将は、零陵郡泉陵の出身で、孫権の父、破虜将軍孫堅が義兵を挙げてから配下に加わった。孫堅に従って山越や董卓と戦ったこの宿将は、もと南陽太守の黄子廉の子孫であった。


 黄蓋は幼くして父を失い、若い時から不幸が重なってつぶさに辛酸を舐めて育ったが、心には常に大きな志があった。貧賤の中にあっても凡庸の人々に落ちることなく、労働の合間を縫って上表文の書き方を学び兵法の研鑽を積みおのれを錬磨し続ける強さを持ち、軍では常に重鎮として孫権からも敬意を表され、またその期待に応えた。


「周将軍に申し上げます。いま、曹軍は多く、味方の軍は少数です。このままの状況で戦い続けても、やがては肥水に追い落とされて敗北は免れません。願わくば、我に一軍を与えたまえ。私が敵軍の前面に立ち、必ずや我が軍が立ち直る暇を作ってみせましょうぞ」


「頼む」

 黄蓋の申し出がいかに危険であるかは理解していたが、周瑜はうなずくことしかできなかった。わずかな兵を盾にして、いまや一方的に押されつつある軍を立て直さねば、このまま背後の水に残らず没することは明白であった。


 ――黄公覆は死を覚悟している。ならば、私も全力を尽くさねば。

 ほとんど間を置かず、黄蓋は三千の兵を率いると周瑜軍を守るようにせめぎ合いの中央に突っ込んでいった。


「よいぞ、ゆけ。ゆけ。我らが本領を曹家の犬にとくとみせつけてやれ」


 剣を抜いたまま黄蓋はもっとも前方に進み出ると、声を嗄らして叫んだ。黄蓋の燃えるような魂魄が乗り移ったように、兵たちは恐れを見せずに突進してゆく。


 黄蓋はことを成すに、決断が早く勇気があり、頭脳は明晰で磨き抜かれた戦術眼があった。兵たちは黒雲のように湧き起こる曹洪軍を真正面に受けると、一歩も退かずに支えた。生存を意図しない、ほとんど無謀な逆撃に北方の騎兵の足並みもわずかに乱れた。


 ――我は、ここで死ぬ。

 必死の抵抗である。それでも、わずか三千の兵ではさすがに少な過ぎた。黄蓋自身も胸や腹に無数の矢を浴びながら、ここを先途とばかりに奮戦した。


 共に戦う兵卒たちにおのれの痛みを微塵も悟らせず踏み止まった。唸る矢が、周囲の部将たちを次々に射落としている。悲鳴と怒号が入り混じって戦場に木霊した。


「なんの、まだまだ」

 馬腹を締め上げて駆け出した。

 黄蓋は右に左に剣を振るって並み居る敵兵を片っ端から斬り倒す。


「ぐうっ」

 喉元から血の塊がせり上がり、激しく咳き込んだ。剣の柄は血で濡れて真っ赤に染まっている。鎧を貫いて奥深くに突き立った矢から、湯のような熱い血が流れ出ていた。


「まだまだ、これしき」

 傍らにいる兵卒から戟を奪うと黄蓋は敵軍に飛び込んだ。感覚が薄れてゆく。それでも黄蓋は戦うことを止めなかった。


 そのおかげか、周瑜は崩れ切った陣を素早く立て直すことに成功した。周瑜の指揮のもとに、軍団は鮮やかな一糸乱れぬ動きで敵に襲いかかる。


 だが、その効果もいまや儚かった。曹洪軍は扇を開いたように、徐々に周瑜軍の頭を包みつつある。その瞬間だった。肥水を遡って呉の船団が到着したのだ。無数の大船を率いた呂蒙が曹洪軍に向かって一斉に矢を放った。


 これにはさすがの曹洪もたまらず、軍を肥水から離れた場所に後退させずにはいられない。周瑜は、水に追い落とされる窮地をなんとか脱した。


 だが、その時、すでに黄蓋の軍はほぼ全滅していた。将である黄蓋は針鼠のように全身に矢が突き立っていたが、周瑜のもとに運ばれてきた時には、かろうじて息があった。


「黄将軍。そなたのおかげで我らは危機を脱することができたぞ」

 周瑜の言葉。それを聞くと、黄蓋は戸板よりわずかに身を起こそうとしたが、やがて力尽きた。


 黄蓋は横倒しになるが、そばに立っていた部将のひとりに抱きかかえられた。

 孫家三代に仕えた名将の顔には、やわらかな笑みが浮かんでいた。


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