43、渇きの獣

 魔族の監獄「ダークイーター」。

 フィニアスを筆頭にゾロゾロと暗い廊下を歩く。ロウソクの灯りだけでぼんやりと見える廊下は、凍えそうなほどの寒さを感じさせた。


「この先に居るのか……乾きの獣が」


 ゴクリと生唾を飲むのは緊張によるものだ。誰が飲んだのかまでは分からなかったが、ここに揃った全員が緊張している。その緊張を部下であるデーモンも感じ取っていた。自分たちの上位者である皇魔貴族が緊張するほどの何か。そんなものの解放に付き合わされる理由など、身代わりであることを置いて他にない。死にたくはないが彼らに付き従う以上、逆らえばその場で死ぬ。早いか遅いかならば少しでも長く生きることがデーモンの道。

 廊下をしばらく進むと行き止まりに両開きの真っ黒な扉が現れる。フィニアスは鍵をかざす。扉から一馬身以上遠い位置から手を伸ばしている様は滑稽だが、パッと手を離した鍵が床に落ちることなく、まるで磁石に吸い寄せられるように鍵穴に刺さったのを見れば考えも変わる。


 ──ガチャ……ガチャガチャガチャンッ


 1つの鍵穴から鳴ったとは思えないほど多くの鍵が開いた。魔法による多くの錠前。乾きの獣と呼ばれる何かを閉じ込めておくための部屋。フィニアスはデーモンをチラリと見る。


「はっ!」


 その一動作で何がしたいか分かったデーモンはすぐに扉に手をかける。真っ黒な扉の取っ手を下に下ろせば、数百年開かなかった扉が動いたのが分かった。デーモンは思い切って扉を開ける。

 黒い。全てが飲み込まれるほど黒く、廊下の淡い光を寄せ付けない暗黒の部屋。デーモンが誰に言われるでもなく魔力で光を灯した。しかし、どれだけ強い光も中に入っていかない。水面に油を垂らしたようなじわっとした波紋が部屋の前で留まる。


「フィニアス様……」

「そこをどけ」


 扉の前からデーモンが退いたのを確認し、フィニアスは人差し指を宙空に走らせた。文字を書いているかのような動きを見せると、虚空に魔法陣が浮かび上がる。出来上がった魔法陣を指で弾くと、暗黒の部屋に貼り付いて黒を取り払った。


「……なんだあれは?」


 皇魔貴族の重鎮であるゴライアス=公爵デューク=グルガンすら知らない魔法。解除方法を知るフィニアスにしか分からないであろうことに答えたのは当の彼女ではなかった。


真なる黒トゥルーブラック。これに閉じ込められたものは視覚、聴覚、触覚、平衡感覚、そして自分すらも見失い、永遠の暗黒に落ちる。まぁ、僕がこんな状態でなければ瞬時に破壊出来る程度の魔法だから大したことはないが……」


 部屋の中心に壁の多方向から伸びる鎖で縛られた少年が、座ることも立つことも許されない吊るされた形で封印されている。黒い帯を全身に巻かれて指の先までピクリとも動かない。目も耳も閉ざされているのに、口だけは達者に動いている。


「……乾きの獣」

「……満ちぬ器」

「……強奪の汚泥」

「……永遠の一滴」


 様々な言葉が口々に飛び出す。封印されている少年はニヤリと笑った。


「ははっ……懐かしいな。全部僕が言われてきた異名か。中でも僕が気に入っているのは無敵の魔神だ。……おや?こんな名前で呼ばれたことはなかったか?ははっ、そうだこれは……これは僕が昔々に呼ばれたかった名前だった」


 軽快に笑う少年をフィニアスが睨む。


「乾きの獣……いや、グリードよ。そなたは自由になりたいか?」

「決まってる、僕を自由にしろ。出来るだけ早く」

「ならばわたくしと取引をしよう。さすればそなたは今より拘束具から解き放たれ、成功の暁には自由となる。どうだ?」

「……ふっ……そうか。僕を顎で使おうって魂胆か……なかなか面白い話しだ。30点」

「おいっ!!質問の答えになっていないぞ!どうなのだ乾きの獣が!とっとと答えろ!!」


 グルガンは肩を怒らせて叫ぶ。声が衝撃波のような形でグリードに襲い掛かり、拘束具が軋む音を鳴らした。


「……10点だな。皇魔貴族の質も落ちたものだ」


 グリードは馬鹿にするように鼻で笑う。ギリッとグルガンは歯を食いしばるも、喧嘩を買うような真似はしない。相手は先々代の時代から拘束された究極の存在。太古の昔より存在する邪悪。

 とはいえグルガンも公爵デュークの地位を持つ身である。振り上げた拳の行き場を失うわけにはいかない。どうするか考える間にフィニアスが後ろに下がるように手を振った。助け舟を出されたグルガンは小さく頭を下げながら半歩下がった。


「失礼したなグリード。わたくしの言葉を聞いたところで信じてはもらえないだろうが……」

「当然だ。何しろ僕と君には大きな隔たりがある。例えば、この拘束具とか……」


 ビキッ……ジャラジャラジャラッ


 グリードが言うが早いか、体中を縛り上げていた鎖が千切れ、張り詰めた糸が切れたように床にしなだれた。全身を覆い隠すように巻き付いた黒い帯も、服のように見た目を変えて、手と足、耳と目を覆った布だけが消滅した。

 その一連の状況に最も驚いたのは他ならぬグリードである。世界が滅ぶその時まで解かれることがないだろうと思っていた最高位の魔法は、いとも容易く効力を失い、グリードの世界を明るく照らした。


「……まずは信用から。……次は?」

「は、はは……はぁーはっはっはっ!!やるなぁ君は!!90点!マーベラスだ!!まさか僕を解き放つバカが居るなんて世も末だな!!」


 グリードは腹を抱えて笑う。


「気に入った!殺すのは惜しいな!君は今日から僕のペットとして可愛がってやる!」

「っ?!き、貴様っ!!フィニアス様に向かって何たる口の利きようか!!」

「よいベルギルツ。そなたの出る幕ではない」


 フィニアスはグリードに1歩近付く。そしてどこから取り出したのか、手に握れるくらいの大きさの水晶を持っていた。水晶は脈打つように一定間隔で光を放っている。


「それは?随分悪趣味なものを持っているな……」

「何だと思う?……これはそなたの心臓だ」

「何?そんなはずはない。僕の心臓が僕の体の中に無いなんてありえない」

「そうかな?」


 ズズズッ


 フィニアスの手の中で空間が歪む。水晶は形状を保っているが、ミシミシと音を立てて今にも壊れそうなほど歪んでいる。


「!?……ぐぉっ!!」


 端正な少年の顔が苦痛に歪む。小さな体が膝から崩れ落ちて床に手をつく。右手で苦しみに耐えるように胸を握りしめる。フィニアスが空間の歪みを元に戻すとグリードは苦しそうに呼吸をしながらフィニアスを見上げる。


「はぁ、はぁ……どうやら……ハッタリじゃなかったようだ」


 ニヤリと笑ってみせるが、こめかみから汗が一筋流れてくるのが分かる。痛みよりも焦りが勝った証拠だ。


「……ふっ……なんてザマだ。先程までの生意気な態度が嘘のようだぞ……」


 ロータスは目を細めて見下す。拘束されていた時から声を出さずに身を潜めていたというのに、這いつくばった瞬間に上位者として前に出てくる。小者のような立ち振る舞いだが、これがグリードの癪に触った。可愛らしい口元に隠された獰猛どうもうな犬歯を口角を上げてむき出しにした。


「……かぁっ!!図に乗るなよメスガキがぁ……!!」


 グリードはバッと手をかざす。ギュバッという何かを吸い込む音が鳴り、その瞬間に連れてきたデーモンたちがバタバタと倒れた。騎士ナイトから子爵バイカウントまでの階級が狼狽えるようにデーモンたちを見回している。


「むっ……!?ほぅ、そうか。やけに強気に出ると思えば……」

「そうだ。そなたの力は制限されている。わたくしたち皇魔貴族には手が出せないようにな。もし本当の自由を得たいと懇願するのなら……取引に応じる他、道はないと知れ」

「なるほど……命を握られ、限定的に能力が使えないとくれば……僕に選択肢は残されていない。そこまでしてやらせたいことは何なのか……気になるじゃないか。もちろん応じよう」


 グリードはゆっくりと立ち上がりながら余裕を取り戻す。その顔を見て不快感を表す皇魔貴族。そんな中、まったく動じることなくフィニアスがもう一歩前に出た。


「レッド=カーマイン」

「……ん?誰だって?」

「人間だ。ドワーフでもエルフでも巨人でも小人でも無いヒューマン。どんな手段だろうと構わない。この世界から永久に消し去って欲しいのだ」

「……そんなただの人間のためにこの僕を使おうってのか?贅沢な話しだ。まさか腕試しにその人間を使ってから本番を……などと考えてはいないだろうな?」

「……そなたが疑うのも無理はないが、その人間こそがわたくしたちを悩ませる最悪の存在だ。そやつが消えれば、煩わせるものは居なくなる」

「ほぅ?そのレッドなんとかを殺したとて、次に眼前に立つのは僕だぞ?」

「レッド=カーマインだ。それにその程度は百も承知。まだそなたの方がマシとも言える」

「……その言葉、忘れないぞ。僕を解き放つことがどんなものなのかを歴史に刻ませてやる」


 グリードは腕を広げてニヤリと笑う。

 皇魔貴族も恐れる存在、乾きの獣グリード。全てはレッド=カーマインを亡き者とするため、封印されし恐怖の怪物を現世に解き放つ。

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