第4話

「あ、あの……」


 急に知らない人と二人きり。どうしたものかとリュカが困惑気味にスニーに声をかけると、


「こっちにお風呂があるから、そこで泥を落としてこの服に着替えるといいわよ。ほぉら、はやくはやく」

「あっ」


 スニーは部屋の奥から取り出した彼女の娘の服らしき衣服をリュカに手渡すと、リュカを風呂場へと押し込んだ。

 少し強引なスニーに驚きながらも、言われた通りに風呂を借りて体についていた泥を落とした。

 綺麗な水だ。泥水以外を見るのはいつぶりだろうか。


「いたっ」


 泥の落ちた皮膚からかすかな痛みを感じる。全身にできた傷に水が染みたのか、体が痛みを主張して、ああ自分は今生きているのだと実感した。

 足にできた傷。胴にできた傷。これらはもう、いつどこでできた傷なのかすら判別できなくなってしまっていた。


「ふぅ」


 全身の泥を落とし終わると、体を拭いてスニーに渡された素朴な服に袖を通した。しばらく使われていないようだが、色落ちや穴が空いていることもなく丁寧に保管されていたようだ。


「ありがとうございます」

「いいのよ。サイズ的に私じゃ着れないからどうしたものかと処分に困っていたところなの。よかったら他の服ももらってちょうだい」


 リュカが風呂場から出ると、台所にいたスニーに声をかける。すると彼女はいじっていた鍋の火を止めて、着替え終わったリュカの姿を見て朗らかに笑った。


「この辺の服は全部娘のお下がりだから、好きなだけ持っていってね。あの子ももう着ないだろうから」


 食卓テーブルの上にはたくさんの服が積まれていた。どれもスニーの娘のものらしい。

 サイズ的にはリュカにぴったりなものがたくさんあった。


「ああ、そうだ。この服はもう捨てるわね。こんなに汚れていては洗ったところで落ちないだろうから」


 そう言ってスニーが取り出したのはリュカが元々着ていた服だ。全体的に薄汚れて、端々は裂けてしまっている。

 この服がお気に入りだったことを思い出して、リュカは少し悲しくなってしまった。


「あら、どうしたの? その傷」


 悲しそうに俯いたリュカのスカートから覗く、傷のついた足に気がついてスニーが首を傾げた。


「これは、その……」

「あらあら、こんなに怪我して」


 スニーは手当をすると言ってリュカを椅子に座らせた。

 申し訳なく思うが、先程までのやりとりだけでもスニーが意外と強引な人だということはわかった。なのでおとなしくリュカは手当を受けることにした。


 手当のために裾を捲ると、リュカの怪我の量を見てスニーは表情を歪めた。

 痛ましそうに、悲しそうに、優しく撫でるようにスニーは手当をしてくれた。

 リュカになにがあったのか。スニーは知りたそうにしていたが、俯くリュカを見てなにも問いただすことはなく黙って治療してくれた。

 心地の悪い沈黙が続く。リュカの胸の中は申し訳なさで溢れそうになっていった。


「ありがとうございます。こんな……怪しい私に、優しくしてくださって」


 手当てを終え、救急箱を傍らに置いたスニーの姿を見て、リュカは深々と頭を下げた。

 スニーだけではない、サイやノル。あの二人にも随分と優しくしてもらった。こんなに人の優しさに触れたのはいつぶりだろうか。

 あとで二人にも礼を言わなければ。


「いいのよ、あなたも大変だったんでしょう。紹介が遅れてしまったけれど、私の名前はスニー。都心の方に一人、娘がいるわ。今は旦那と二人でこの家で暮らしていてね、と言ってもあの人は仕事で家にいないことの方が多いのだけど。もし困ったことがあったらなんでも言ってちょうだい。力になるわよ」


 頭を下げるリュカを椅子に座るように促し、自身とリュカの分の紅茶を用意したスニーは一口紅茶に口をつけると自己紹介を行った。


「私はリュカです。その、色々あって……サイにこの村に案内されて」


 向こうが名乗ったのだから、こちらも名乗り返すのが礼儀だろう。しかしリュカの今までの人生を簡潔に纏められる自信がなくて、なにより思い出すことがつらくてリュカは結果的に言葉を濁した。


「あら、サイちゃんが? あの子に懐かれるなんてすごいわね」

「そう、なんですかね……?」


 スニーはノルと同じようなことを口にした。

 リュカから見たサイは、少し泣き虫だが人懐っこい男の子だ。あんな状況の人物リュカに声をかけられるサイが本当に人見知りなのかどうかはリュカには知り得ることではないが、彼らの反応を見るに、サイの本来の性格はそうなのだろう。


「うぅん、でもリュカちゃんはこれからどうするの? 荷物もなにも持っていないようだし、近所に住んでいる……というわけでもなさそうね。今日の泊まるところはあるのかしら?」

「ああ、それならノルがサイの家に泊まるように、と。最初は断ろうとしたんですけど、ここで断ったらサイが泣くぞーって脅されちゃって」

「あらあら、ノルちゃんったら。ふふ」


 唸り声を上げて首を傾げたスニーにサイの家でのことを軽く話すと、スニーは朗らかに笑った。それを見て、少し緊張がちだったリュカの表情筋も緩む。

 和やかな、温かい雰囲気が部屋の中を漂っていた。

 体にこびりついていた汚れを落とし、ボロボロで寒かった服を着替えられたからか、それともスニーが聞き上手なのか。はたまたサイたちの優しさに触れたからだろうか。

 海底のように暗く、真っ黒な世界が少しだけ光を浴びて、久しぶりに心からホッと息をできた気がする。


「サイちゃんの家はうちの家より大きいからのんびりできそうね。アトスさんも良い人だし、きっとゆっくり眠れるわ」

「アトスさん……サイのおじいさん、ですよね」

「ええ、サイちゃんと一緒に二年前にこの村に引っ越してきたのよ。なんでも昔はお隣の国で働いていたらしいわ」


 リュカの問いにスニーは頷いて、なんの職種かまでは知らないんだけどねと言葉を続けた。


「サイは昔からこの村に住んでいるわけではないんですね」

「ええ、二年前に越してきたのよ。最初はお隣さんの私たち夫婦とも全然話とかしてくれなくて、なんなら目を合わせることすらしてくれなかったのよね。まぁ、今はもうすっかり仲良しさんなのだけどね!」


 人見知りのサイと、明るく朗らかなスニー。きっとスニーが何度も根気よく話しかけて、サイの他人との間にある壁を取っ払ってしまったのだろう。

 普段からそう多いわけではないリュカの口数が増えてしまうのも、スニーの持つ明るい性格に引っ張られてしまっているのだろうと理解した。

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